第百五十四話 本音、慈悲
巧くいくはずだった。あの男に、全てを狂わされるまでは。
「久兵衛様!味方の兵、既に半数を切っております、御指示を!!」
己が家臣の言葉に、政信は拳を握る。
同時に心の中で、己に与えらえた運命を呪った。
「……もうよい、」
「……久兵衛さま?」
図らずとも政信の口から漏れたのは、胸に秘め続けていた本音であった。仲間の躯を前にして、政信は遂に采配を振るう事を止める。
変化を悟る晴信は戦況を睨む。政信の姿は見えずとも、彼には分かる。
再度降り始める雪は、触れる度に泡沫の如く消えてゆく。
晴信は静かに、曇天を見つめた。
「……賢明じゃな、政信。甘利、其方に一つ任せてもよいか」
「……?」
晴信は彼に囁いた後、後方を向く。
一寸先の暗闇を見つめたまま、彼は白い息を吐いた。
その時、後方の叢から密かに現れた男達に目を向けるや否や、静かに微笑む。
「其方の仕業か、矢沢綱頼」
先頭に立つ矢沢綱頼は、深々と礼をする。
同時に本隊の後方に迫る敵は、奇襲によって壊滅状態だと告げる。
それはまさに、作兵衛の言葉通りであった。
「大儀であった、其方は儂を守ってくれた、正真正銘の武田家臣じゃ。
儂は先に甲斐へ戻るが、褒美を渡す故、
其方は帰陣の後、晴幸と共に儂の許へ参るがよい」
「は……」
晴幸は綱頼の傍を通る。誰にも悟られぬよう、晴信の周りに位置していた数名の重臣と旗本を連れ、彼は手綱を引いた。
晴信の姿が闇に溶けた途端、深く息を吸った甘利は、高らかに咆哮する。
「皆の者!!ここまでじゃ!!武器を仕舞え!!」
天に轟く声に動きを止める者達。甘利は顎を引き、政信の姿を捉えた。
「甘利殿、如何為さいました」
晴信とのやり取りを知らぬ男達に問われるも、甘利は答えなかった。
寒さに凍る息、甘利の身体は少しずつ熱を帯びてゆく。
「一時は我々を追い詰めたな、若くして対したものよ!
しかし我が殿は、端から其方を殺すつもりはなかったと仰せであった!
政信殿、其方も同じであろう!殺す気などなかった、故に抗う事を止めた、違うか!?」
「久兵衛様っ……それは誠にございますか……!?」
周囲の反応に戸惑いを覚えながらも、政信は黙り込む。
一方で、甘利は己の為すべきことを一心に考えている。
晴信から任せられた頼み事。それは政信に対し、選択を迫ることであった。
「殿は直々に、其方を一家臣として迎えたいと仰せである!
もし参られた暁には、それなりの褒美を用意致すとも!
無論、報酬に不満ならば去っても構わぬ!さて、我々と共に参るか、義清殿の許へ参るか、其方が決めるのじゃ、大須賀久兵衛政信!!」
突然の言葉に、村上勢は更なる動揺を生んだ。
あまりに予想外ともいえる言葉に、政信は眉間に皺を寄せた。
その傍らで、板垣は甘利の言葉に思考する。
(晴幸が来る以前に言われたとしても、奴は何も思わなかったのであろうな)
そもそも晴信が彼等を仲間に引き入れたいと思ったのは、何時からだろうか。少なくとも早い段階で、政信の素質を見出していた筈である。
そうでなければ、あの状況で甘利に調略の役目を任ずる筈はない。
それに家臣に頼むというのも、板垣にとっては些か納得がいかなかった。こういったことは、本人がせねば納得がいかない性格だと思い込んでいた為である。だが少し考えれば分かる事であった。あくまで己が《そう思い込んでいただけ》であって、本当のところは間違っていたのだ。
甘利に任せ、晴信は去る。その際に晴信は甘利に対し、最も重要な事を伝えなかったのだ。現に甘利はそのことに言及しなかったのではなく、言及が出来なかった。
真に引き入れるつもりならば、この場で口にする方が得策であると、晴信も甘利も知っている筈である。それも全て、晴信の策の内なのだろう。
《知りたくば我らの許に参れ》
晴信が姿を眩ませた今なら、政信にもこの状況が理解できているはずである。
「……慈悲の心を生んだか、晴信殿よ。左様。これは全て、我が殿の御意向じゃ。
元を辿れば、かの夜襲は我等とが武田と縁を結ばせることが目的であった。それが無理であらば、多少の損害はやむを得ぬと思っておったが、逆に我々の方が多大な損害を被ることになろうとはな。
士気を保たせるため、多くの味方にも偽りを申し続けていた訳だが、もはや意味は無かった様じゃ。
其方に聞く。それでも、我々と縁を結び直すつもりはないというか」
政信の言葉に甘利は応じない。ただ、言葉にせずとも伝わっている。
それは、武田家にとっての宣戦布告。
いわば、真っ向からぶつかり合う為の挑発である。
冷風が身を震わせる。依然変わらぬ状況に、政信は諦めの色を見せた。
鋭敏な視線を向け続けたまま、政信は語る。
「……否、晴信殿が此処に居らぬのでは、応えられる訳も無かろう。
晴信殿に伝えよ。我々に情けなど無用であると。
其方等の望み通り、此処を去ろう」
そう言い残し、家臣に呼び掛け、政信は彼等に背を向ける。
未だに動揺を隠せない男達は暫く呆けていたが、状況を理解した途端に、政信の許へと走り出した。
「……此れで良いのですか?甘利様」
「案ずるな、逃がしたところで大事ない。
彼方側は依然、我々と縁を繋ぐつもりでいると申したであろう」
「し、しかし、殿にその御積もりがなければ意味は……」
「気が変わればの話じゃ。選択が増えるというまでの話よ」
甘利は真剣な眼差しで敵を見送る。
これも全て晴信の言葉あってこそだと、彼は思い直すのであった。
「思うたよりも手こずったな」
そう言い、板垣は刀を鞘に仕舞う。
同時に、何処かほっとしたような面持ちを見せていた。
作兵衛も同様、最小限の損害で事が済んだことに、隠し切れずにいる。
ただ、一つだけ心残りがあるとすれば、彼等のこと。
「幸綱殿……!」
途端に耳を刺す声に、全員の目が向く。
草木を掻き分け、雪の中を現れたのは、傷を負った真田幸綱。
そして、彼に背負われた山本晴幸である。
「……漸く着いたか」
「幸綱殿、御身体は!?」
「大事無い。ただ、こやつは傷を負っておる。
甲斐に戻り次第、すぐさま治療して貰いたい」
晴幸は、彼の背中で静かに眠っている。
穏やかな表情で呼吸する様子に、皆が安堵の表情を浮かべていた。
本隊の危機を救った、救世主。
降り続く雪の中、それは山本晴幸という男を、初めて皆が認めた瞬間であった。
次回、帰還。