第百五十一話 晴幸、躍動
政信の見上げる先にある、焔に浮かび上がる影。
食い入るように見つめる武田兵に対し、武器を向けることで警戒心を露わにする敵兵達。
場違いな雰囲気を覚えたことに心の中で苦笑しつつも、隻眼の男は闇の中で、微かな笑みを浮かべていた。
「はっ、助けに参っただと?格好つけおって。其方一人に何ができるというのだ」
「……」
俺は応えない。それには政信も、眉を潜めざるを得なかった。
俺は微かに顎を引き、政信の様子を伺う。二者の間に続く沈黙は、無数の視えない棘を生んでいだ。
大須賀久兵衛政信
セントウ 一四六三
セイジ 一一五六
ザイリョク 一〇八二
チノウ 一三七〇
俺は即座に、この男が軍を率いる立場であることに気付く。途端に、俺は敵兵全員ではなく政信一人に焦点を絞った。彼が指示しなければ軍は動かないと判断した為である。
そんな彼の問いに応えないことで、彼は俺の行動を、果たして行き当たりばったりの産物だと思うだろうか。
思わずとも、十分な《脅し》にはなっている筈だ。その為の沈黙である。
「晴幸殿、一体何を」
板垣は息を呑む。武器を向けられても平然と構える晴幸(俺)に、微々たる不気味さを覚えていた。一方で晴信は何も言わず、その光景を目の当たりにしている。
晴幸が仕掛けていた罠を、一つ一つ脳内で回収してゆき、遂に一つの結論に辿り着いた晴信は目を細めた。
晴幸の行動は、見事に当てはまっている。
少人数の戦における、大原則に。
「義清殿に言われたのか」
「何をだ」
「我が殿を討てと、そう御命じになったのか」
「そうじゃ、故に此処で晴信殿を迎え撃った」
「それは、其方の意思ではないのだろう」
「……ならば何だというのか」
遂に口を開いた俺の問いに、政信は反応する。
依然睨みを利かせた政信の表情に、俺は悟った。
もう一声かければ、全ての布石が揃うと。
「つまらぬ、やはり其方はつまらぬ男じゃ。無意味に主君に従い続け、自ずと動こうとしない小心者。
其方は義清殿に対し、一度たりとも己の考えを申し伝えたことが無いのだろう。違うか?」
「だまれっ!!貴様に儂の何が分かるというのじゃっ!!」
政信の怒りが響く。次に目が合った時、彼は殺意に満ちた表情を向けていた。
俺は一切表情を変える事無く、彼の目を見続けている。
「……口を開いたと思えば何じゃ、その喧しい口、今直ぐにでも塞いでくれる。
晴信殿より先に、先ずは貴様を討つ」
「久兵衛様っ、かような挑発に乗るのは……」
「うるさい!!下郎共、奴に矢を放てっ!!」
「っ……!」
人が変わったように采配を振るう政信。家臣達は突然の変化に惑いながらも、弓を引き始める。
今の政信にとっては、順序など関係が無かった。
怒りのままに突き動かされた身体に、抗う術も、抗うことすら忘れてしまっていた。
極限まで狭められた視界が、当に討たんとする男の姿を捉えた時。
どこからか聞こえた、微かな声に我を取り戻した時。
見えた。いや、見えてしまったのだ。己が牙を向けていたはずの、男の表情を。
「させるか」
どすの効いた、低い声。
窮地にも関わらず、男は馬上で笑っていた。
当に、鬼と言わんばかりの、形相で。
「ぐぁあああっ!!」
其の悲鳴に、目を見開く。
血を噴き出し、目の前で倒れる味方に、政信は寒気を覚えた。
直ぐに矢の飛んだ方向に目を向ける。
弓を構えていたのは、先ほど碁詰隊の壊滅を伝えた伝令役の男。
訳が分からなかった。しかし、直ぐに顔をしかめる。
政信は、この男を知らなかった。
「今じゃ!作兵衛!!」
「はっ!第二隊、武器を以て攻め立てい!!」
徐々に広がる視野。政信はようやく、周囲を見渡した。
目に映るのは、無数の四つ割菱の旗差し。
こうして気付かされる。囲まれていたのは、政信の方だったと。
「謀ったな……貴様……!」
弓を下ろし、鋭い眼差しを向け続ける作兵衛。
彼こそが、偽の伝令を伝え敵陣に忍び込んだ張本人。
作兵衛は俺に目を向け、強かな頷きを見せた。
「謀っただと?くくく、矢を放ったのは其方が先であろうに」
晴信は遂に、軍配を手に馬に乗る。途端に始まる殺し合いを目前に、晴信は無表情のまま。
彼は静かに目を閉じ、軍配を持つ腕を振り上げる。
晴幸、其方はよくやった。
やはり儂は、間違ってなどいなかった。
板垣の申す通り、信念を持ち続けるからこそ、皆は儂に付いてくる。
優しさを捨て、棘の道を選ぶ。
その行き着く先を皆に見せてやるのは、儂の役目じゃ。
故に、妥協などしない。してはならない。
晴幸がこじ開けた突破口を、無碍にしてなるものか。
晴信は決意と共に目を見開き、勢いよく腕を振り下ろしたー
「突然の刺客に動揺させつつ、間者によって混乱を招く。ここまで荒らせば、敵は冷静な判断が出来なくなっておるはずじゃ。
武田兵をもってすれば、敵兵が崩れるのも時間の問題だろう。よくやったぞ、作兵衛」
「……いえ、全ては晴幸様の策にございます。
私はただ、晴幸様の指示する様に動いたのみですぞ」
俺は混乱に乗じ、作兵衛と共に戦況を脱することに成功する。作兵衛は平然とした態度を装いながらも、内心は喜んでいるように見えた。
状況は予想通り、此方の優勢。戦火を目前に、作兵衛は味方に加勢することを提案した。しかし、俺は立ち止まったまま告げる。
「のお、作兵衛。一つ頼みを聞いてはくれぬか」
その内容に、作兵衛の表情が一変した。
「儂は、幸綱の許へゆく。
あやつを助けにゆくのだ」
唯一、やり残したこと
第4章、残り5話(予定)