第十四話 不穏、影
それから、一ヶ月が経つ。
桜も青葉を付ける五月。
何事も無く過ぎゆく日々の中で、俺は再び対面する事となる。
「晴幸殿、御急ぎ下され」
全く、突然呼び出しておいて何だ。
俺は荷物を両手に抱え、早足で城へと向かっていた。
俺が案内されたのは、食事にも使われる大広間。
其処に集められたのは、武田を担う重鎮達。
彼らに並ぶ様に、俺はゆっくりと腰を下ろす。
「これは、一体何事か……」
周りの男達の小声が、耳に障る。
全く、大体予想は出来ているだろうに。
数分後、奥側の障子が開く。
同時にそれら声々が止み、静寂が広がる。
其処に現れた男は、俺達の目前に座った。
一瞬にして、空気がぴりつく。
武田晴信、若造のくせして持っている貫禄は並々ではない。
「皆に聞く。其方らは信濃をどう見る」
唐突に晴信から発された言葉。
その真意を、俺は直ぐに理解できた。
この時代、様々な御家が国の統一を目指し成し遂げてゆく中で、
多くの国衆に分かれていた信濃は、唯一統一が遅れていたのだ。
となれば、この先の信濃の動向を探る事が〈信濃に矛先を向ける〉為に重要な行為であるのは、歴史を知らぬ男にも容易に想像出来る。
「と、言いますと?」
「近日中に、我らは信濃へ侵攻する」
ほらな。訊くまでもない。
晴信の答えに、俺は静かに薄ら笑みを浮かべた。
「晴信様。以前〈諏訪殿が不穏な動きを見せておる〉と仰せられていたこととは、何か関係が?」
俺の隣に座る男は地に拳をつき、晴信を見る。
「左様じゃ、甘利。
諏訪頼重、奴は近頃、何やら上杉の許へ通い詰めておる様でな、
信濃に忍ばせた間者に、諏訪の動きを探らせていたのだ。
やはり諏訪は我らを放ったまま、信濃の領地を分割するつもりであった。
これは、我等との盟約違反に値する」
盟約違反?俺はその言葉の意味に詰まる。
諏訪家と武田家は、既に同盟を結んでいたのか?
「甘利殿……と申したか。盟約違反とは一体何だ」
俺は晴信に目を向けたまま、横の男に語り掛ける。
先程、晴信が名を出してくれた御陰で、話しかけるのが容易くなった。
「あぁ、其方は此処に来て日が浅いのだったな。
武田と諏訪は、共に父の代より婚姻同盟を結んでいたのだ。
此方としては、晴信様の異母妹、禰々(ねね)様を諏訪殿に贈らせて頂いておる」
(成程、だから自分達を放って信濃の分割を行う諏訪が気に入らない訳か。)
「本日は、信濃侵攻を伝えに呼んだまでじゃ。
明日の正午過ぎ、再び軍議を執り行う。
其処で侵攻の道筋に加え、少しばかり皆の案を聞きたいと思う故、
各々、意見を持ち寄れ」
「はっ!」
晴信の言葉に、深々と頭を下げる。
斯くして、此度の侵攻に関する意見交換は、明日に持ち込まれることとなった。
「先程は、忝うございました」
広間を出てすぐ、俺は甘利に一度、礼をする。
「良い良い。其方のことは板垣殿からも耳にしておる。
殿も其方の事を、良く仰せであったぞ」
「晴信様が?」
其の時、甘利は何かを思い出したかの様な仕草を見せた。
「そうじゃ、言い忘れておった。
実はな、武田と諏訪の不仲の元凶は、盟約違反ではないのだ。
諏訪家は連年風水害を受けておってな、それにも関わらず軍事行動を続けておる。其方が此処へ来る一月程前にも、諏訪殿は甲斐に攻め入ったのよ。
つい先月、儂が晴信様と言葉を交わした時には、
既に信濃侵攻を決意なされておった」
当然の判断だと、俺は考えた。
しかし、同盟関係である以上、やはり諏訪家の行動は暴挙としか思えない。
単なる自暴自棄か、それとも別の思惑か。
「諏訪殿は、焦っておる様に思えますな」
俺の言葉に、甘利は頷く。
既に勝敗は決まっている。そう思っているのはきっと俺だけではない。
「まあ、明日は其方の考えとやらを聞かせてみよ。
晴信様は、其方のことを十分に期待しておられるぞ」
(変に圧をかけるんじゃない)
俺は彼の言葉に苦笑した。
甘利虎泰
セントウ 一四二九
セイジ 一八六五
ザイリョク 一四八一
チノウ 一七〇六
甘利と別れ、俺は屋敷へと戻る。
道中で俺は思考する。
(諏訪家の焦りには、晴信も気づいている筈だ。
ならば何故、これほどまでに慎重なのか)
そちらの方が、考えようがあるのかもしれない。
明日の為に、少しだけ考えてみよう。
屋敷に戻った俺は、再び晴幸の日記を取り出し、開いてみるのであった。
次回、軍議