第百四十三話 守るべきものと、価値
横田高松のターン
解釈に、時間は必要なかった。
それも悟った途端の事であった。
男は自然の力に吹き飛ばされ、自然に守られたのだ。
きっとこの痛みもその賜物であろうと、横田高松は大木を背に、傷口を抑える。
「......っ」
目を細め、歯を食いしばる。掌が赤く染まる。
記憶を辿りながら見上げる先には、燃え盛る砥石城。
それらも白い息と雪に霞み、いつの間にやら幻と化してゆくかのように錯覚してしまう。
荒れる息遣いに老いを覚えつつ、高松は思考に浸る。
全ての原因は、義清の言動一つ一つに気を奪われてしまったことにある。
家臣の働きか、はたまた伝達の巧妙さか。どれをとっても、なぜ此方の動きを見抜いたのかは不明のままだが、あの場で全てを語ったのも、義清の策の一つなのだろうことは分かる。
守らねばならなかった。《守るべきもの》を守れなかったことを悔いながら、高松は俯いた。
「これでは、向かう事も叶わぬではないか……」
高松は右足に目線を移す。
負傷し、歩くこともままならない。
先程の爆発で片耳の聴力を失ってしまったと同時に、三半規管をも傷付け、平衡感覚を失いつつある。
常に目の前が回り続けている現状に、違和感を無くし始めていた。
「何者だ」
声の方に立つのは、城下を一掃した敵兵の集り。その数、ざっと十から二十程。
集った者達は血に飢えた刀を手に、相対する。
気づいた頃には、既に手遅れだったようだと、義清は息を吐いた。
「何だ、爺か」
「眠っておるのか?どけ、儂にやらせろ」
俯き加減に目を閉じている高松に、敵兵の一人が笑みを零す。
たとえ爺だとしても、装備や髪を剥いて売れば資金にできる。
(我々の利用価値となって頂こう)
敵兵は刀を振り上げる。刃が頭上で光った時のこと。
高松の目が開く。
一瞬のうちに、敵兵の首から血が噴き出していた。
「な、っ!?」
倒れた男の首に刺さって居たのは、一本の苦無。
全員の目が老人の方を向く。当の高松は恐ろしい形相で立ち上がった。
「老いぼれだと侮ったか、失礼なものだ。
その口、塞いでくれよう」
弓を捨て、己の腰刀を杖代わりに立つ高松。彼は毅然とした態度を貫こうと、鋭い眼差しを浮かべ続けていた。
視界は既に歪んでしまっているが、その代わりに目と片耳を除いた三感が研ぎ澄まされている。《目が見えぬ者は耳を、耳が聞こえぬ者は目を》というのは、よくある話。
「か、かかれ!かかれっ!!」
高松を取り囲む者達。
それにも物怖じせず、再び目を閉じる。
目に見える世界が、思考の邪魔をする。
今は、己の持つ感覚だけが頼りであった。
遂に刀を持ち上げ、構えた男。
依然目を閉じる男に、周囲は怒りに似た感情を覚える。
それは本心か否か。《我々はこの老人に嘗められているのだ》と、全員が察していた。
我が名は、横田備中守高松。
誇りを盃に、儂は最後まで戦いますぞ。殿。
「其方らは志賀城の残党か。さぞ武田を恨んでおることであろうよ。
武田晴信はこの道を進んだところに身を構えておる。
通りたくば……否、殺したくば、まず儂を殺してから行け」
微笑む高松に、まずもって斬り込んできた男。高松は気配を頼りに間合いを取り、相手の刀が振り下ろされたことを察すると、瞬時に太刀を振り下ろした。
途端に温い血が顔にかかる。直後に襲い来る男達に、己の《感覚》だけで戦う高松。
この時の彼の心情を、理解できる者などいない。
救援など望めない絶望的な状況で、高松の口元は笑っていたのだ。
「ふんっ!!」
血に濡れる身体。赤く染まる足元の雪を、高松は知らない。
数人を叩き斬った時、相手の刃先が遂に頬を霞めた。
高松が一歩退いた瞬間、
一本の槍が、高松の身体を貫いた。
「が……っあ……!!」
一気に引き抜かれ、高松はふらつく。
腹のあたりが熱い。こんな感覚を、高松は知らなかった。
何がどうなっているのか。刺されたのかさえも定かではない。
「ぐっ、ぬぉおおおおああああ!!!」
それでも高松は立ち続け、刀を振るった。
興奮し出血は多量。なれど痛みを忘れ、動きは勢いを増す。
「ば、化物じゃ」
何処からか聞こえた声に、己の置かれた状況を察する余裕さえなかった。
息遣いの粗さを増すその様子は、まるで理性を失った獣の如し。
敵の数は既に半数。劣勢を悟った敵の一人は、遂に合図を出す。
その途端、高松は八方から猛追を受け、次々に刺される。
串刺された高松は血を吐き、膝から崩れ落ちた。
「おのれ、手間取らせやがって……」
微かな声。俯せながらも、高松の頭に流れる走馬燈。
忘れかけていた者達のこと、裏切ってしまった者、己を大事に思ってくれていた者。
こんな時にばかり思い出させるのは、きっと天の仕業なのだろう。
きっと、死を迎えようとする愚か者に、足掻く機会を与えてくれているのだ。
いや、もう良い。もはや感覚など死んでいた。
雪の冷たさが、身体を侵食する。
悴んだ体に、呼吸が徐々に薄れてゆく。
甘利殿、済まなかった。
其方との約束を果たせなかった。
しかし、それで良かったのだろう。
元々、長く生きられる訳では無かった。
誇りだけを胸に死ねる、これほど名誉な事はない。
生ききった。
それが精一杯だった。
高松は光を失った目に涙を浮かべ、微笑む。
そうだ、うっかりしていた。
あの男を、忘れていた。
儂が守るべきだった、あの男のことを。
満足気な笑みと共に、
高松は静かに目を閉じたのだった。
「……ここは」
薄暗い山奥に立ち尽くす男。
音を聞き、真田幸綱は我を取り戻す。
次回、幸綱と高松。