第百四十一話 幸綱と、義清 (九)
その時のことを、誰もが思い出せずにいた。
未だ降る雪と、狂うように血を擦りつけ合う者達。
鳴らした指の音と同時に、彼らは一斉に動きを止めたのである。
我々は、何をしていたのだ?
状況を知り、傷口の痛みを覚える。
あまりの痛みに我を取り戻し、叫ぶ者。
呆然とした数百人の兵は知る。
槍や刀を腹に刺し、地に伏せる友の姿。
我々が殺し合っていたのは、己の仲間であったと。
「やはり、こう老いた身では身体が持たんな……」
胸を押え、息を切らし、速まる鼓動を抑えようと努める義清。
術の代償に耐え、歯を食いしばる義清の頭に流れる声。
《我が家臣全員の記憶を書き換えるとは、何とも回りくどいやり方だ。
さっさとあの男を追い出すことも出来たであろうに。
我等の術を敵に見せるなど、以ての外じゃ。》
「……それは彼方も同じであろう。
術を貰ったとなれば、等価なものを与えるのが筋というものじゃ……」
わらしべ長者とはいかない。つまり双方に得などありはしないと、この男は言いたいのだろう。
無論、自分も偽善として振舞っているだけなのかもしれないが、苦しいのはお互い様。それを知っているからこその行為、行動。
価値観の違いを前に、偽物は微笑する。
「いずれは犠牲を生んでしまう。それは必然であり、運命と言う他ない。
然し、それを望む主君などおらぬ。故に辛いのだ。
運命を受け入れねば、主君としての務めは果たせぬ。違うか?義清」
己に問いかける。己の中の存在に、問い掛け続けている。
無茶をするものだと、雑音じみた声が頭に響いた。
問いに答えない。してやられたような気分に苛まれる。
この男に勝てない事は、自分でも分かっていた。
「殿っ!!早く御逃げを!!」
天守に現れる影に、振り返る。
あの時と変わらぬ優しい笑みを、義清は浮かべていた。
「っ!!」
綱頼は依然、殺気付いた様子で刀を振るう。
顔の目前を霞め、体勢を反らした晴幸。直ぐさま後方に足を付くことで踏ん張り、襲撃を免れた。
何かが吹っ切れている。不意に目を合わせる二人。
晴幸の表情からいつしか、余裕が消えてしまっていた。
「……何故このような真似をする?
儂を罰するならば、其方が此処で儂を殺せば良い話ではないか」
綱頼は答えない。否、綱頼に晴幸の声は届いていないように見える。
《己の使命に囚われた従者》。晴幸がそれに気付くまでに、時間はかからなかった。
似ている。幸綱の持つ服従の術に。
だが違う。少なくともこの男は、己の意思に従っている。
「儂の知る義兄上は、何処へ行った」
「誤解じゃ、あの男は儂が出会った頃から変わってなどおらぬ」
「いや、義兄上は変わられたのだ、それは確かじゃ。
それに、其方は義兄上と同じ匂いがするのだ。疑うのは当然であろう」
それは、本物の幸綱の中に現れた偽物の話をしているのか?
幾ら何でも察しが良すぎる。晴幸の中に生まれた疑心は、徐々に大きくなってゆく。
「故に参れ。命を果たさねば、此処に残る意味はない」
「何を申して居る、此処に残るのは晴幸を捉える為だけではないと、そう申していた筈だ」
綱頼の言葉が、徐々に支離滅裂さを増しているように思える。
再び刀を構える綱頼を、晴幸は睨んだ。もはや言葉では伝わらない。
あらゆる仮説を立てながら、それを胸にしまい込んだ晴幸。彼もまた同じように、刀を手に立つ。
振り上げられた綱頼の刀。頭上で光る刃に対し、晴幸は低く構える。
彼の頭をよぎる、この状況を打開する一番の方法。
それは、この男を此処で殺し、気付かれぬにくい場所へ捨て置くこと。
そんな様を、奴に見せるわけにはいかない。
故に許せ。この身体を返すのは、もう暫し先の事になろう。
途端に変わる晴幸の表情を、綱頼は見ていた。
戦く様子など微塵もない。そのまま振り下ろされた刀は、晴幸の首目掛けて落とされる。
その時
脳裏にぱちんという軽い音が響く。
「っ!?」
同時に、綱頼の身体が硬直した。
「ふんっ!!」
異変を見逃さなかった晴幸は、刀を手に綱頼を押し倒す。
新雪の中に倒れる綱頼と、その上で刀を構える晴幸。
「儂は、何を……」
綱頼はただ、怯えた表情で呟いた。
異変、その正体は