第百四十話 幸綱と、義清 (八)
6/14 大幅改稿しました。
触れた手の感触。
冷たさが入り混じった混沌の中に、幸綱は溺れる。
微かな声が耳に届いた瞬間、頭に靄が現れ始める。
力が抜けてゆく。視界が白濁に包まれる。
宙に浮く感覚。皆、同じ思いを抱えていたのだろうか。
己の力を真に受け、初めて実感する。
こんなことになるなら、初めから出会うべきではなかった。
牙を向こうとしても、見えない力が幸綱の身体を押さえつけている。
己の意思とは裏腹に、抗う気力も、全てが泡沫の如く消える。
よろけた幸綱を義清は抱えた。腕の中に収まり項垂れた幸綱の目は、虚ろ。
「……そうか。皆が其方の様な表情を見せていた。
そして、其方は幾度とそれを目の当たりにしてきたのであろう。何とも苦しいものだな。其方も儂も、望んでもいない術を得てしまったが故に」
幸綱は頷く事さえない。全身に麻酔を打たれた様に、幸綱の思考は止まっていた。
そんなことすら筒抜けな義清は、何を言おうと無駄だと、目を細める。
彼の耳に届くのは己の命令だけ。義清は無表情で、淡々と告げた。
「真田源太座衛門幸綱。一刻も早く此処から去り、あやつの許へ参るのだ。
天守を出て突当りに隠し道がある。そこから井戸へ通じる道を使え」
幸綱は遂に顔を上げる。死んだ目を向けながら、小声で返す。
『主様の御言葉ならば』、と。
義清は頬を緩ませ、立ち上がった幸綱の背を押した。
「.......何のつもりだ」
背後に漂う殺気に、晴幸は振り返ることなく問う。
「この時機を今かと待ち侘びておったが、其方のおかげで手間が省けた。
晴幸殿。私が此処へ参ったのは、其方を《我が殿の許に御連れする》為じゃ」
「......何?」
「知っておるのだぞ。義兄上は変わられた。
其方こそが、義兄上を義兄上でなくしてしまったのだと。
殿は元凶を、自らの手で罰すると仰せられた」
何を言っている?
晴幸が幸綱を変えてしまった?無論そんな覚えはない。
そもそも、それに義清が関与する理由こそ不明である。
「......其方は幸綱殿を信じ、寝返ったのではなかったか?」
「ああ、信じておる。故に参った。
しかし、それは義兄上の為であり、其方とは別の話じゃ」
徐々に近づく鋭い眼光を、背に感じる。
支離滅裂な言動に戸惑いつつも、晴幸は息を吐く。
何方にせよ、この状況を打破しなければ、この男に殺されかねない。
「儂を殺すつもりは、毛頭無いということか」
訳も無く、思い当たる節も無い。
それでも殺されるなど、儂には二度と御免だ。
頬を緩ませる晴幸に対し、綱頼は刀を握りしめた。
(できるか、綱頼。)
鮮明な記憶に熱が帯びる。脳裏に焼き付いた声が、綱頼の身体を突き動かす。
振り上げた刀は静かに空を切り、晴幸の頭上に光っている。
目をやれば怪しげに光る刃に、一種の頼もしさを覚える。
能天気といわんばかりに背を向けている晴幸。
それを目前にして、躊躇う綱頼。
案ずるな、ただ傷を負わせれば良いだけだ。
此処でやらねば、顔向けなどできはしない。
やれ。悔いの残さぬように。
決死の形相で、力強く振り下ろされた刀。
その時、晴幸は振り返ったー
降雪の最中で、響き渡った金属音。
腕にのしかかる、石のような感触。
一瞬の静寂。何が起こったのかを悟った綱頼は、遂に目を見開いた。
晴幸は彼の奇襲を、自身の刀で防いだのだ。
「どうした、しけた面をしておるのぉ。綱頼殿」
軋む刃と刃の間で、笑みを浮かべる男。
その目は赤く、誰よりも深く、
異物に相応しき色を、浮かび上がらせていた。
「......」
義清は誰も居なくなった天守の中心に座り、目を閉じる。
数秒間の沈黙の中で、義清は何を思っていたのか。
次に瞼を開いた義清の目に、光はなかった。
「其方と会うのはやはり、もう暫し先のことになりそうじゃ」
呟いた義清は微笑み、ぱちんと一度、指を鳴らした。
転生者、危機。
すみません。義清編、もう一話続きます。