第百三十八話 幸綱と、義清 (六)
「時が無い、いずれこの天守も崩れよう。
手短に伝える。其方に一つ、頼みたき事があるのじゃ」
天井の形が、原型を崩してゆく。
義清の見る先を、幸綱は半開きの口で見つめていた。
木々の網組が徐々に曲がり、亀裂を広げる。
義清の声はもはや幸綱には届いていない。己の犯した失態と後悔に苛まれた身体は、自由を奪われ、五感すらまともに機能しない状態に陥ってしまった。
後悔の念、失意の奥底。今思えば素直に聞き入れるべきだったのかもしれない。
理性を捨て欲に走ってしまった事を、今になって悔い改めなければならなくなった。
「山本勘助。いや、今はまだ《晴幸》と名乗っておるのだったな」
「……!」
ただ、彼の一言は彼の耳にすんなりと刺さり、驚愕させた。
否、驚愕に似た警戒の意を引き出した。
視線を動かした先に見える義清の姿。
山本勘助、いや、山本晴幸。
もはや割り切れる。その名が彼から発せられることは、決して不思議なことではない。
「奴は武田に仕官しておる筈だ。其方も存じておるであろう?」
「……知らぬ」
「惚けるな。其れとも未だに儂を疑っておるのか?」
幸綱は口を噤み、視線を逸らす。
それでも警戒してしまう原因は、山本晴幸に関する《申し出》をしたいという、義清の言葉。
私に何をさせようとしているのか、幸綱には予想がつかなかった。
今はただ、義清の言葉を待つことしか出来ないでいる。
義清を謀った伝手が此処にきて現れた。徐々に蝕まれる己の思考に焦りを覚える一方で、次の一手を見いだせないままでいる自分に、不甲斐なさを覚え始める。
「山本晴幸を、儂の許に連れて参れ」
彼の申し出に、眉を小さく動かす幸綱。
義清は遂に立ち上がった。その目は天守の外、燃え盛る炎を突き抜けたその先を見つめている。
「甲陽軍鑑は武田の戦術を書き留めた書物、儂は其方にそう申したな。
故に必然として、武田家の参謀である山本晴幸。奴についての記述が大半を占める資料でもある。つまりは、だ。奴が深く関わっておるのじゃ。我等の運命に、あの男が大きく関わっておる」
この時代の鍵を握る人物は、山本晴幸。
利用しようとしているのか?幸綱を自分のものにし、時代を動かすために。
実際のところは分からない。ただ、そう思えてならない。
駄目だ。危険すぎる。
幸綱は拳を握り、再び義清を睨む。
この男に、晴幸を会わせるべきではない。
「ならば、無理にでも捕える他は無いな」
幸綱の視点は、無意識のうちに彼の目元へと向かっていた。
黄色に光る眼。先程と同じ、怪気な光を帯びている。
同時に、己が身に感じた違和感。
「今、何と申した」
心を読むこと。
寿命を視ること。
他人を操ること。
全て容易かったはずなのに、今では何もかも
ふと、目元を抑えてみる。
幸綱は直ぐに、違和感の正体に辿り着いた。
まさか、義清の持つ術はー
義清は光る眼を向け続けている。
何も難しい話ではなかった。
義清の心情も、寿命も、見えなくなっている。
幸綱の術は、目の前の男に奪われたのだ。
義清編、残り2話