第百三十七話 幸綱と、義清 (五)
「よくぞ参ったな」
陣中に慌しさが増す最中、晴幸は綱頼に語りかける。
晴信と同じ発言を繰り返した晴幸。それは南部宗秀達の一件に立ち会った彼だからこそ言える、主君を裏切ったことへの贖罪を知っているからこそ掛けられる言葉だった。
無論、他に話題など持ち合わせている訳ではない。綱頼は晴幸の姿を目にしつつ、その醜さに表情を歪ませることは無かった。
「山本晴幸殿、にござりましょう」
「存じておるのか」
「義兄上からの文に常々書かれておりました。
隻眼かつ頬に傷があり、どこか摩訶不思議で惹かれる、そんな御方であると」
まるで心を許したかの如く微笑する綱頼。
木々に降り積もる雪が地に落ちる。その様子に気を奪われることなどあり得なかった。
幸綱が常日頃から周囲にひた隠しながら文を交わしていた事を知ると、晴幸は息を漏らす。
矢沢綱頼
セントウ 一四七八
セイジ 一一三二
ザイリョク 九五六
チノウ 一一五四
「......詳しい話は後じゃ。其方に馬を貸す。
殿が撤退を御命じなされた今、其方も我等と共に甲斐へ向かうのじゃ」
「承知いたしました」
綱頼は応える。その表情は真剣そのもの。晴幸は彼の姿を横目に歩き出した。
(そういえば、先程の轟音について聞きそびれてしまったな。)
ただ、それ以降の異変が無いことを踏まえれば、大した出来事ではなかったのかもしれない。
歩きながら、己の中で仮説を立てた晴幸。
今思えば、訊ねる暇さえ与えられなかっただけだったのかもしれない。
【砥石城】
「何故、見破った?」
「申したであろう、其方の考えなど全て筒抜けであると。
ただ幸綱殿、其方にも儂がいつ死に、今何を考えているのかが筒抜けの筈だ」
仰向けに押さえつけられる幸綱は歯を食いしばる。
これまで義清が続けてきた不可解な行動の理由。それら全てが今、はっきりした。
この男は《転生者の術を視る術》を持っている。
いや、本当はもっと広義な意味を孕むものなのかもしれない。
ただ少なくとも、己の術が見破られたのは事実。
厄介なものだ。此の男を前にして、己の持つ三つの術が一瞬にして無効化されてしまった。
「……儂を、殺すのか?」
か弱さを帯びた声に、くくくと声を漏らす義清。
「人というものは醜い。其方の様に謀る者が居れば、味方を容易く裏切らんとする者、儂はそういった類の人間を幾度と見てきた。その度に、己の非力さを思い知った。
だからこそ儂は、其方の様な男が、心底憎い」
振り上げられた短刀を目前に、幸綱は抗おうとはしない。いや、手段を絶たれた彼にとって、抗う必要など皆無だった。
ただ義清の目を睨む幸綱を前に、刃先が幸綱の方へと振り下ろされるー
炎の中に響く、乾いた金属音。
しかし、微塵も痛みを感じない。
気づけば、振り下ろされた刃物は顔の側に突き刺さっていた。
「……其方と語りたいが故に、あの男を始末したというのに、これでは意味がないではないか」
俯きがちに呟く義清の声が震えていることに、瞬時に気づいた幸綱。
幸綱は気付いていた。義清の心に、底の見えぬほど深い後悔の念が生まれている事を。
「......やはり、我等には人は殺せぬのだ。
儂も其方も同じじゃ。かの時代を思い、自己を失うことを恐れておる。
己の非力さを覚えるのはそのせいであろう。無論儂もそうだ」
微笑む幸綱に、義清が放った言葉は思いがけないものであった。
「其方は、何も分かっておらぬ」
一瞬だけ、血が止まりかける心地がした。
幸綱を押さえつける手に、力が入る。
突然のことに驚きを見せる幸綱。
義清の表情が、崩れた。
「良いか、人というものは意思を持ち、理性を持ち、欲望を持つ生物じゃ。
彼等は万人共通として定めた世を常識として生きている。
それはいつの時代も変わらぬ。しかし、その実態は時代ごとに変容する。
乱世における常識は、《殺さねば殺される》という一択しかないのじゃ。
元々我等は過去へ飛ばされた身、我らが生きた時代の常識は、此処では非常識となる。倫理など無に近しい。其方ならば分かるであろう?
其方は己の術に慢心しているようだが、得体の知れない術が、いつ牙を剥くかも分からぬ。
故に余裕を見せるな、見せてはならぬ、幸綱殿……」
息を切らし、表情を歪ませながら語る義清に、幸綱は言葉を失う。
「......いや、それで良いのやもしれぬ。
今となっては、唯の杞憂に過ぎぬのだろうな。
他人を謀り、殺めたとて構わぬ。
順応し、我を忘れず、歴史に抗う。
ただ我らは、遠き世に思いを馳せることを、我らが生きた時代を、決して忘れてはならぬのだ」
諭す義清。その意図さえ読めずにいる幸綱。
途端に天井が音を立て、形を歪ませる。
苦しげな息遣いで放たれた言葉。
幸綱はただ呆然と、澄んだ瞳を見つめていた。
意図