第百三十六話 幸綱と、義清 (四)
その名を聞き、晴幸は眉に皺を寄せる。
背に《丸印に上》の家紋が書かれた旗印を背う男。
周囲が奇怪な目を向ける中、綱頼は強かな表情で陣中を歩む。
降雪越しに見えた大将の姿を、見間違う筈も無い。
「義兄上は手筈通り、巧く義清殿と相対した様にございます」
一報を耳にした晴信は、ただ無言で彼を見つめる。
流石は晴幸か。彼が此処を訪れた本当の意味に気付くまでに時はかからなかった。
晴幸の脳裏に浮かぶ、弟という存在。苗字も異なる弟が村上家に仕えていたというのは只の偶然だろうか。幸綱には己なりの考えがあったのだろうが、晴幸にはまるで《この時の為に用意された偽物》に思えてならなかった。
だが、その事実を知った上で提案された《村上家に仕えていた弟に文で懇願し城を明け渡す》という策に、晴信が承諾するというのも頷ける。
「綱頼、其方はこれで良かったのか」
「……は。己の中で迷いを生んでいたというのは確かにございます。
しかし、義兄上からの文を目にし、今こそ矢沢家は前に進むべきだと、そう思えたのです」
そう口にしながら鎧の裾から取り出された一物を、晴信は注視する。
真田の家紋である六銭文が描かれた巾着袋。綱頼によれば、これが文と共に送られてきたのだという。
「六銭文の意味は、三途の渡し賃とも言われております。
死をも恐れぬ信念を掲げた真田殿に感銘を受け、私は此処に参ったのです」
「そうであったか。よくぞ参ったな、矢沢殿」
遂に立ち上がる晴信。
時は来たと、そう言わんばかりに咆哮した。
「此れより我等は撤退する!
飯富、其方には殿を任せる、再び甲斐で落ち合おうぞ!!」
「其方はこの乱世を、如何に生きておる」
天守を包む炎は一層勢いを増し、肥大化してゆく。
幸綱は問いかけ、義清の一歩手前で足を止めた。
冬とは思えない熱さ。次々と汗が滲み出る中で、幸綱は軽度の眩暈を覚える。
二人の瞳は炎に照らされ、橙色に染まっていた。
「史実を史実とせん為に、儂は戦っておるのだ。
《村上義清という男の立場から乱世を導く》。
きっとそれが、乱世に落とされた儂に与えられた宿命であろう」
義清の答えは、思ったほど単純であった。
史実から逸れない様に、錆びれた橋を一歩ずつ進んでいる。
儂とて同じだと、幸綱は同情の念を示す。
「……気に入った、益々協力させて貰いたい。
きっと儂にも、何か役に立てることが有るはずだ」
幸綱は静かに左手を差し出した。
殺そうとした奴が何を言うかと内心考えてはいたが、義清はすんなりと聞き入れる姿勢を見せる。
現代知識を備えた転生者が協力し合う。此れに越したことは無い。
それを義清は理解し、それを知っているからこその発言でもあった。
「ああ、そうか。幸綱殿。
家柄としては敵同士ではあるが、個々では仲間じゃ」
幸綱は頷く。
対し、義清が躊躇うことなく幸綱の手を握った、その時である。
簡単なものだ。
ああ、義清。
御前はやはり、使いがいがある。
幸綱は彼の腕を思い切り引く。
「っ!?」
抵抗する隙を与えない。このまま一気に術を使わせてもらう。
体勢を崩した義清の頭部目掛けて、幸綱は右腕を伸ばした。
もらった
そう思った矢先、義清は呟く。
「……愚か者めが」
義清は予期していたかのように、伸ばされた腕を掴む。
「儂を操るつもりか?」
「っ!?」
突然の出来事に驚く幸綱は、横目に見る。
義清の瞳が、微かに黄色く光っていた。
そのまま武道さながら、義清は気を取られた幸綱を地に押さえつける。
鈍く凄まじい音を立て、床に倒れる幸綱。そのまま屈み込み、馬乗りになった義清。
「其方の考えも術も、儂には全て筒抜けじゃ」
「なに、ゆえ」
「やはり其方は、儂を騙していたか。
私欲に振り回された者の末路じゃ、まこと滑稽なものよ」
そう言って、彼は懐から短刀を取り出した。
「さて、幸綱殿。
ここで死ぬというのも、一興ではないか?」
心臓の音。息遣い。垂れる汗。
黄色に光る瞳で頬を緩ませる義清。
幸綱にはそれが、悪魔の嘲笑に見えていた。
第三の転生者。
その力が暴かれる。