第百三十五話 幸綱と、義清 (三)
「甲陽軍鑑通り、だと」
「ああそうだ。元より狂いなどなかった。誠の歴史は甲陽軍鑑に在るのだ」
身体が熱を帯びてゆく。平静を取り戻すのに、それほど時を必要とはしなかった。
江戸期に普及した筈の甲陽軍鑑こそが、史実。
にわかには信じ難い。そもそも彼の言葉は本当に真実だといえるのか。
「虚言か否か、嘘の念が見えぬ限り、そうなのであろうな」
内側から発せられる本物の声。
嘘ではない、嘘をつく理由も見当たらない。
だからこそ、幸綱は《恐れ》を抱いている。
先程の爆発、臭いからして恐らくは玉薬の一種として間違いない。火縄銃を発射するのに用いる火薬。数が集まれば強大な威力になる。
そこに抱いた疑問を、今なら理解できる。
鉄砲の伝来は一五四三年。一部では一五四二年以前とする説もあるが、その頃にポルトガル人によって種子島に伝えられた事は有名な話だ。
そこに生じた疑問というのは、その事実からたった三年しか経っていないことである。この時代、たった三年のうちに種子島から信濃に火薬が伝わっていたとは考えにくい。現に鉄砲が使われた最初の戦は一五四九年、鹿児島で起こった《加治木城攻め》と言われている。それも今から三年後のこと。
つまり、義清が《鉄砲伝来》の事実を知っており、いち早く九州へと向かい玉薬を買い占めていたとすれば辻褄が合う。それも全て、《転生者》だからこそ可能なこと。
義清は心底侮れない。
今現在、奴がどれほどの玉薬を所有しているのか。それが分からない以上、先程の爆発は十二分に《脅し》の効果を帯びている。無論奴には想定できている事だろう。
甲陽軍鑑の話を幸綱に持ちかけたのも、何か訳があってのことに違いない。
甲陽軍鑑が史実に沿っている。それが真実ならば、甲陽軍鑑の知識を持つこの男は、《時代を大きく動かす力》を持っている事になる。
更に言ってしまえば、この男の思い通りに時代を変えることさえ出来てしまう。
吐かせるべきか?
幸綱はくっと右手を握る。
服従の術を使えば、甲陽軍鑑の内容や彼の思惑を引き出すことも可能だ。
玉薬の件もあり、下手な動きは出来ないままだが、相手に術の詳細を明かしていない今ならいける。
「いずれ此処にも兵がやって来る筈だ。
やるなら今じゃ」
ああ、分かっている。
幸綱は声に反応し、拳を緩めた。
甲陽軍鑑という書物、知っていて損はない。
何であれ、これで全てはっきりする。
「いやはや、驚いた。
其方は転生した身であることはおろか、多大な知識も持ち合わせておるのだな」
気を緩めてはならない。一度奴に触れて仕舞えば、こちらのものだ。
この手で、一気に狩る。
その一心で薄ら笑みを浮かべ、一歩ずつ歩む幸綱。
彼の目は唯一点を、義清を捉え続ける。
「何の音だ」
晴幸は突然の爆音に目を向ける。それは間違いなく、砥石城の方向。
城の反対側より、微かに煙が立ち上っているのが見えていた。
「あれは、狼煙か?」
「源太左衛門殿が、役目を果たしたのか」
「いや、だとしてもあの音はなんだ」
周囲の騒めきが耳に刺さる。晴信さえも、その煙を見つめたまま動くことは無かった。
雷でも落ちたかの如く、鋭く凄まじい破壊音。疑問よりも先に、不安を覚えてしまう。
「晴信様」
そんな中、陣中に現れる青年。
晴信は我に返った様子で、名を名乗るよう告げる。
青年は澄んだ目を向けながら、こう答えたのだという。
「私は真田源太左衛門幸綱殿の弟、矢沢綱頼と申します」