第十三話 三番目の、術
「……其れは誠か?」
明くる日、晴信は家臣の言葉に耳を疑う。
「は、諏訪頼重殿が、何やら上杉殿の許へ通い詰めておるとの噂」
晴信は眉間に皺を寄せる。
「事によれば、ゆゆしき事態じゃ」
言うならば、空気を断ち切る様な、そんな声色。
其の場に控える者は皆揃って息を飲む。
決まって同時に、彼から溢れ出る貫禄を、頼もしく思うのである。
「あの者を呼べ」
家臣は微笑み、一度頷く。
晴信の目はあの時の如く、唯一点を見つめている。
その行く末を知る者は、誰一人としていない。
陽が昇り、俺は松尾泰山の許を訪ねる。
泰山の屋敷だと教えられた場所には、予想だにしないほどの巨大な屋敷が構えられていた。
(いや、どう見たって、領主の屋敷よりも大きいじゃないか……)
足を踏み入れ、案内された部屋の障子を開けると、其処には竹を編む泰山の姿があった。
「それで、本日は如何為さいましたか」
「ああ、其方に少し訊いておきたいことがあってな。
以前、儂が初めて甲斐に足を踏み入れた際、多くの民が儂を迎え入れてくれた。比較的顔色は良く見えた事は覚えている。然し、未だ領内の多くの子供が、飢えに苦しんでいるのではないか?」
「ほお。何故そう思われる」
「幾つかの家から異臭がした。一度は家畜によるものかと思いはしたが、やはり違うようだ。恐らくは孤児、若しくは村中でそのような事態を隠密にしている故の産物か」
泰山の手が止まる。
振り返る泰山の表情は、笑っていた。
「これはこれは……誠に勘が良うございますな」
くそ、調子が狂う。
竹を編む泰山の後方で安座の姿勢を取る俺は、顔をしかめた。
ただ、実際にそうなのだ。この村には、まだ多くの課題が残されている。
「其方は何を知っておる……誠にこの村の者か」
「私は唯の金貸しにございます、まあ、利は高くつきますがね」
そう口にした泰山は立ち上がる。
「折角です、良いものを御見せしましょう」
「待て、儂の話はまだ終わっていない」
「直ぐに結論を出せるとは、思えませぬがな」
してやられた。完全に彼方のペースに乗せられてしまった。
俺は口を噤み、泰山を睨む。
泰山に案内されたのは、城内のとある倉庫。
刀、槍が飾られて居た晴信の部屋。その幾倍をも超える数の武具が、其処に納められていた。
そう、此処は城内唯一の武庫である。
「ほぉ……」
その光景に、思わず吐息が漏れる。
長い年月の中で、朽ち果ててしまった物。血が飛び、錆び付いている物。
未だに血の臭いが漂っている程、新しい物も有る。
「私も時折此処に訪れ、手入れを施しておるのです」
「其方が管理しておるのか……?」
「とんでもない、手入れは唯の趣味にございます。
管理の役目を担う方は、私よりもずっと身分の高い御人にございますぞ」
そりゃそうか、と俺は沈黙する。
それ以前に、城内に足を踏み入れることの出来る時点で、唯者ではないことは明白である。
「私は厠に行って参ります」
「儂も付いて参ろうか」
「御案じなさるな、場所は分かっております」
そう言い残し、泰山は武庫を離れた。
俺は袖から布を取り出し、一本の槍を手に取る。
「これは、もはや使えぬな……」
そう呟いた瞬間、俺は背後から物音を聞きつけた。
「何をしているのです」
振り向いた先に影が立っている。
泰山ではない、女性の声だ。
「其方こそ、此の様な処に来ると、危のうござるぞ」
「良いのよ、前からよく来てますから。此処の事は熟知しております」
女は微笑みながら俺に近づく。そして、俺の持つ槍を眺める。
「あら、此方は叔父上の槍にございますよ」
「叔父上……其方は武士の娘か」
「武士でなければ、かような処にはおりません」
それもそうだ、と俺は頭を掻いた。
ぼろぼろに朽ちた祖父の槍。
恐らく、この娘の形見なのだろう。
捨てるのは、止めて置こうか。
俺はその槍を、再び元の位置へ立て掛けた。
「其方、名は何という」
「女子に直ぐ名を訊ねるなんて、お侍さん、相当手慣れていらっしゃるのね」
俺は顔をしかめる。冗談だと彼女は笑った。
「菊と申します。
原美濃守虎胤は我が父にございます」
原虎胤、その名に聞き覚えがある。
そうだ、あの夢の中で、俺の親友だと称していた男。此の子は其の娘だというか。
「……覚えて置こう、」
菊は頷き、辺りを見回す。
「祖父は、此の槍で、
多くの人を斬って来たのでしょうね」
ふと、彼女の言葉に哀愁を感じる。
しかし、其の表情に悲しさは見えない。
強い女子だ、そう思った。
「其方の叔父上の名は、何というのだ」
「原能登守友胤にございます」
「そうか、菊殿。私は山本晴幸と申す。
済まぬが、私に其の槍、此の手で触らせてはくれぬだろうか」
菊は一瞬驚いていたが、直ぐにゆっくりと頷く。
俺は懐に布を仕舞い、其の槍を再び手に取り、目を閉じた。
途端に、突風が吹く。
目を開けると、其処は広大な草原。
遠くで、爆音、そして男達の怒号が木霊する。
俺の目の前で、
一人の男が、無数の武士を相手に、槍を振り回す。
「うぉおおぁぁあ!!」
武士は皆、悲痛な声を上げ血を噴き出し、倒れてゆく。
男の身体は返り血を浴び、鮮血に染まってゆく。
最後の敵の首を斬り落とした彼は、倒れる様を眺め、息を吐いた。
「貴方が、原友胤殿か」
俺の言葉に、男は振り返った。
「......いかにも」
白髪の男。彼はふと頬を緩ませる。
同時に、周りの音が消える。
風と共に、桜の花が舞う。
群青の空に映える血に染まる姿が、妙に美しかった。
「貴殿は何者じゃ」
「私は武田家家臣、山本晴幸と申す」
男は持っている槍を地に刺す。
「晴幸、其方は何の為に戦う」
男はその場で布を取り出し、自らに飛ぶ血を拭き始めた。
「儂は唯、我が子がいつか悩み、考え、
されど強かに生きる事の出来る、
そんな世の礎を作りたかったのだ」
「貴方の御孫様は、
そんな貴方様を誇りに思っておられましたぞ」
友胤は目を閉じる。
儂は精一杯生きた、
そう呟いて目を開け、俺の方を見つめる。
「山本晴幸、
其方には器量が有ると見る。
故に儂の様にはなるな。
夢半ばに散ってゆく、半端者に」
すると友胤は槍を抜き、血を振り払い、
屈託の無い笑みを浮かべた。
「生きよ、儂の分まで」
俺は我に返る。
目の前に広がるのは、古びた武庫の光景。
「晴幸、様?」
気付けば、菊が俺の顔を覗き込んでいる。
「......うむ、良い槍だ」
俺は微笑み、言った。
「菊殿、其方は幸せだな」
「?」
済まない、菊殿。
〈三つ目の術〉を、此処で使わせてもらった。
《物に触れ、意識を物に集中させる事で、其の物に残る残留思念を視ることが出来る》、
それが俺の三つ目の術。
菊殿。君の御祖父さんは、武士としての誉れを感じていたぞ。
「......はい、菊は幸せにございます」
俺は黙って、その槍をまた立て掛ける。
側から見れば、唯の古物に見えるだろう。
しかし、其の一つ一つに、
強い思いが込められている。
だから、辛いのだ。
如何して俺だけにしか、
その思いを知ることが出来ないのだろうか。
彼女は深々と礼をし、部屋を出て行く。
「山本様」
「悪い。もう少しばかり、居させてはくれまいか」
入れ替わり様に入ってきた泰山に、そう告げる。
俺は再び布を取り、武具を手に取り始めた。
不穏