第百三十四話 幸綱と、義清 (二)
幸綱は男の発言に息を呑む。
謀りごとが知られたことも、高松の身を案ずる余裕さえも無い。
その発言の意図を、幸綱は瞬時に理解した。いや、理解してしまったのである。
ありえない。
そんな言葉が、まして彼の口から溢れる訳がなかった。
『甲陽軍鑑』、武田家の合戦や行政、軍法等について論じた軍記書。
内容についての知識は乏しいが、存在自体は社会科教員として知っていた。そんな書物についての発言に対し、幸綱がその様な思いを抱いた理由。
それは、武田家の軍記の存在を村上家が知っていた事への驚きなどでは無い。
甲陽軍鑑は、武田信玄から二代に渡っての戦功・武略について綴られたものである。
この時代、武田勝頼はまだ幼子であり、甲陽軍鑑の成立は為されていない。
つまり村上家はおろか、晴信でさえその存在を知らない筈だった。
何が言いたいのか。ここまで言えばもう御分かりだろう。
甲陽軍鑑の存在を知っている人間は、この時代にいない。
そう、いない筈だったのだ。
幸綱の表情に、以前ほどの余裕は無い。
寧ろ、あらゆる思いを通り越した末に見せる《怒り》。
彼の心情を見透かしているかのように、義清は目を細めた。
「滋賀城の残党を守備に回らせていることを、其方も気付いているであろう。ある時、その者等から先の戦で起きた不可解な出来事を耳にしたのじゃ。《皆次々におかしなことを口にし、主様と呼ばれる存在の命を受けていた》と。それで気付いた。その者は摩訶不思議な術を持つ、儂と同じ境遇を辿った男なのだと」
明るさを取り戻した天守。炎が柱を侵食してゆく。
義清の言葉に、幸綱は確信する。
間違いない。
村上義清。この男は転生者だ。
「其方も持っておるのだな、その摩訶不思議な術とやらを。先程伏兵を暴き出したのも、其方の術によるものであろう?
答えよ。其方は一体何者であった」
「一度に訊いたところで仕方あるまい。それに、其方が先に名乗るべきではないか?」
義清は答えない。しかし同時に正体を否定することもなかった。術の存在を語っても身体に異常を来さない所を鑑みれば、認めざるを得ない。
沈黙の中、あるのは木が燃える音だけ。幸綱の目は終始鋭いままだったが、対する義清は其れに戦く様子すら見せなかった。
「甲陽軍鑑という名に応じた所を見る限り、多少の教養は有る様じゃな。
故に訊ねる。我等が飛ばされたこの時代の歴史は、狂っておると思うか?」
逆に問われた幸綱は、答えに窮してしまう。
《狂い》。やはり史実と大きく逸れ始めた現実に、義清自身も気づいていたか。
言葉に表せないほどに混乱を極めた幸綱。それを目に義清は息を吐き、今にも崩れそうな天井を眺めた。
「答えは、否だ」
「否、だと?」
「左様、確かに今の時代は我等の知る史実とは違うのやもしれぬ。しかし、決してそれが《史実と異なる》とは言えぬのだ」
この男は、何を言っている?
予期されたものとは相反した答えに、意味を捉えきれずにいた幸綱。その傍らで、義清は補足するかの如く語り続ける。
「甲陽軍鑑は江戸期に編集された軍記物じゃ。其処には史実とされた如何なる物事と多々異なる点が存在する。まあ史実を目にしておらぬ者達にとっては、当然といえよう。ただ、その者らが紡いだ歴史が、《あながち間違いではない》としたら、其方はどう思う?」
風が吹く。滴る汗に、幸綱は目を見開く。
義清はふっと笑い、ようやく気づいたかと、ただ一言呟いた。
鋭い光。紅き光を帯びた瞳を、幸綱は注視する。
「良いか、よく聞け。幸綱殿。我らがいるこの時代の出来事は、全て江戸期の大人が作り上げた甲陽軍鑑通りに進んでおるのだ」
衝撃の事実