第百三十二話 あやつの、本心
令和も武田の鬼を宜しくお願いします。
「く、くくく」
その姿に、疑問を抱く者が一人。意図を読めず応える事も叶わない。
寒さに揺れる火が、雪を溶かしてゆく。
最も戦術に長けた者が、最も今の状況を理解できずにいた。
「策通り、奴が狼煙を上げる手筈じゃ。我らが動くのはその時」
狼煙?高松隊は城内への侵入を果たせてはいないはずではなかったか?
漏れ出た呟きに晴信は二度笑い、この男に全てを話せと口にする。
甘利は立ち上がるや否や、降雪を掻き斬る鋭敏な声で告げた。
「晴幸殿、我等は其方に一つ隠し事をしておった。
此度の夜襲、真田幸綱殿は備中守殿の許で従軍していたのだ」
「......は?」
口元を緩ませる晴信の傍で、甘利は語り出す。それは、決して公にされることの無かった真実。
「甘利殿、少しばかり宜しゅうございますか」
「……丁度良い、儂も其方に訊ねたいことが山程あるのでな。儂の屋敷に来い。茶を出そう」
その夜、真田幸綱は甘利の前に現れた。ある申し出をするが為だと口にしながら、奴から漏れた第一声は謝罪の意であった。
甘利は彼に茶を出す。湯気は宙に舞い消え、暖かささえ直ぐに無くなってしまう。そんな季節を再び実感させられる要因は、そういった些細なことにあるのだと思い知る。
「あのような態度は、不届き者のすること。
晴幸殿も申していたが、其方に限ってあのようなことをするはずが無い」
「申し訳ございませぬ。欺き通すには、仕方無きことにございました」
「欺き通すだと?一体誰の事だ」
一体誰を欺いたのか。訊ねたい事は山々だが、物事には順序というものがある。
そもそも、最も訊ねたかったことを最初に訊ねるつもりでいた。
「簡潔に申します。備中守殿を少しばかり、私にお貸しくださいませぬか?」
「……何故だ」
「私は此度の夜襲において、《村上義清の首を頂戴する》所存にございます」
思いもしなかった言葉に甘利は驚嘆し、言葉を失う。
「備中守殿は甲賀の出と聞きます。あの方が生涯かけて培った機動力は、恐らく忍の血を引いておられる賜物。
此度の策には、備中守殿が必要にございます」
「もしや、単騎で城に乗り込むつもりか?」
「......流石に露骨すぎましたな」
「もし嫌と申せばどうする?それに儂が許したとて、殿が其方の案を受け入れるとは到底思えぬが」
「その時は、無理にでも許しを得る他ありませぬな」
幸綱は笑み、右手を上げる。その様子に只ならぬ悪寒を覚える。
志賀城での戦では、不可解な出来事が立て続けに起こっていた。それらに共通する事は、全てが《幸綱の周囲で起こっていた》という事実。
自我崩壊といった、そんな簡単な話ではない。原因こそ分からないままだが、それを気にしている暇は無かった。
次の脅威は間違いなく、直ぐ目前にまで迫っているのだから。
「察しは付いておる。其方が欺いたのは、晴幸殿であろう?
あやつに申すつもりも無いのか?」
幸綱は言葉を失い、湯呑を持つ。水面に視線を落としながらも、彼は微笑みを見せるのである。
「晴幸殿には、己の役目を全うして貰いたいと思うております。
以前の事もある。儂が再びあの様な行動を見せれば、あの男は儂を止めようと奮起する筈。
私はただ、晴幸殿の足かせだけには、なりとうないのです」
「茶を飲むあやつの表情に、優しさを帯びていたのを覚えておる。
あやつも其方の事を思っては、心苦しい思いに駆られていたのは確かじゃ。
されど、其方を一番に思っておったのは、間違いなく幸綱殿であろう」
語り終えた甘利の前で、晴幸は息を吐く。それは呆然自失か、安堵の表象か。
幸綱はその後直ぐに晴信に直談判し、必死の説得の末了承を得たのだという。言うまでもなく晴信が了承したのは、幸綱が己の役目を全うする事を前提とした話である。
晴信は唯、遠方の焔火に目を向け続けている。その様を頼もしく思うのと同時に、晴幸は肩に積もる雪を振り払った。
その言葉、お主にも聞かせてやりたかった。
晴幸は微かに微笑み、傍に立つ若者と同じ方向を向く。城を照らす炎は揺らいでいる。先ほどとは打って変わり、一層脅威を増していた。
次回、幸綱と義清
第4章の真骨頂。
闇が、暴かれる。