第百三十一話 危機、決意
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その頃、高松は戦況に硬直していた。
弓隊が遠距離から敵兵を狙いつつ、本隊が砥石の如く聳える壁を登れば良いだけなのだが、一向に敵兵の足取りが止む気配がない。それどころか、敵は本隊に次々と石や熱湯を浴びせ、侵攻に歯止めをかけてくる。
隊は崩れ、砥石の崖を落ちてゆく。
生々しい音を立てて落ちる男達は皆、血に塗れた姿で原型を無くしていた。
高松は見上げ、苦しさを帯びた笑みを浮かべる。采配を握る拳に力が入る。
思えば、初めからおかしな点は多々あった。まるで我々の夜襲が《元から予期されていたもの》だと言わんばかりの、兵の統率さと士気の高さ。
ただの偶然だとは考えにくい。しかし、村上家に通じていた者の仕業だとも考えにくい所がある。此度の侵攻に際し、夜襲の情報は一部の家臣団の中で内密にされていたはずだからだ。
(どちらにせよ、儂の想定を超えておらぬ事には変わりはない)
「備中守殿」
「今行く」
高松は茂みの中からの声に応える。そのまま視点を移し、遠方に浮かび上がる城を見つめる。
思っていたよりも、暗順応に時は必要としなかった。
「そうだ、それで良い。
暫し時を稼いでくれればよいのじゃ」
睨み面に、口を噤む。
高松は周囲の目を欺かんとするかの如く、暗闇へと姿をくらませた。
「儂は」
異論を唱える者、結論を急ぐ者。各々の目は唯一点を向いている。
声が詰まる。晴幸は晴信の惑う様子を悟りながらも、口を開こうとはしない。
家臣というものは、ただ主君に対し《促す》立場に過ぎないことを知っているから。それでも晴幸は、己の言葉が伝わっている事を信じてやまなかった。
手の悴み、血まで冷える感覚。
無論錯覚に過ぎない訳だが、そんなことを思っては常に身を震わせている。
己が沈黙を好むような人間ではない事を、今再び実感するのだ。
そんな晴信か導き出す結論。
躊躇う程に、興味に似た何かが込み上げてくる。
次の一手を考えていた晴幸にとって、絞り出した彼の言葉は、思いがけないものであった。
「......いや、もう暫し方待つ」
その声に、晴幸の思考が止まる。
見上げた先にあるのは、松明に照らされた晴信の、覚悟の表情。
「その御言葉には、何か訳が?」
「……」
晴信の沈黙に、遂に晴幸の表情が歪む。
何故だと問わずにはいられなかった。その理由は至極単純である。
晴信という男に限って、撤退の意を取り下げるとは思いもしなかったからだ。
晴信はもう少し様子を見たいと、周囲に意見を求める。
家臣達は顔を見合わせながらも、同意の意を見せた。
「し、しかし、殿」
「其方の言い分も分かる、されどこの通り、決まったことじゃ。
それに儂の一存だと申したのは、其方の方であろう」
晴幸は呆然と目先の男を眺めていた。
こやつらまで、愚か者に成り下がってしまったか?
夜襲が失敗した時点で、ここに留まり続ける理由はない。それは誰もが経験し、分かりきっているであろうこと。少なくとも板垣は却下してくれるものだと思い込んでいた。
これまでの経験を、まるで無に帰したかのような言葉に、晴幸は失望を覚えた。
いや、何か彼なりの理由があるに違いない。
導かれた結論がそうだとしても、それだけは訊ねておきたかった。
晴幸の頭にあるのは、己の持つ術の存在。第三の術を用いて、彼の真意を探ろうと思い立つ。
しかし気づく。晴信に関する事象は如何なる場合でも通用しないことを。
「殿っ!《合図》にございます!!」
その時、背後から一人の男が転がり込む。
晴幸の背筋が伸びると共に、晴信は呟いた。
「来たか」
まるで、この瞬間を待っていたかのような素振りで、晴信は立ち上がった。
晴幸は彼の表情を見て驚嘆する。
未だ額の汗が拭えない晴信。明らかに我が家の忠臣を削りかねない戦況不利な状況。
しかし、彼は笑っていた。
降雪の中で彼はただ静かに、不敵な笑みを浮かべていたのだ。
「やはり恨みを持つ者等の力は、計り知れぬのう」
義清は盤面に埋め尽くされた石を見つめ、ほくそ笑む。
そんな彼を横目に綱頼は立ち上がり、一歩ずつ後を退く。
「何処へ行く」
「厠にございます」
「左様か、行って参れ」
綱頼は即答するが、瞬時に後悔の念に駆られる。
義清はゆっくりと綱頼の方を向き、微笑んだ。
「其方は儂の大事な家臣じゃ」
綱頼は口を噤み、一礼。
その場を去った彼を尻目に、義清は再び盤面に目をやる。
その時である。
背後から足音を聞く。義清は接近する足音に目を細める。
綱頼ではない。そう思った瞬間に、肩に硬い感触を覚えた。
「油断したか、義清」
義清はゆっくりと振り返る。
そこにあるのは、鋭い光を帯びた瞳。
真田幸綱が、彼の前で刀を向けていた。
何故