第百三十話 晴信の、一存
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「始まったな」
晴幸の声に、俺は視線を移す。
闇に慣れた俺の目は、いるはずのない存在を映し出す。
その鮮明さに今更戦いてしまうとは、おかしな話だ。
草履越しに冷たさを覚えた俺は、肩に積もる雪を振り払った。
降雪の日は、不思議と空が明るく見える。
陣の外れ。俺は晴幸と目を合わせる事無く、唯一寸先の闇を眺めている。
「あの問いは、きっと儂に訊ねたものであった」
晴幸は俺の言葉に何も言わず、ただ目を閉じたままその場を動かなかった。
昨日、俺は晴信と語り合った。
議題は言わずもがな、互いの思考の共有。
二人の見る世界は相違なく、高松を先鋒とする案に晴信は賛成の意を見せる。
不安がる必要など元より皆無だった。ただ虎胤の頷きが意味を為さなかったことだけは、俺の胸にひどく引っかかっていた。
思考に浸る癖のせいで、俺はただ同じ場所を半永久的に廻り続けている。
先へ行く事も、退く事さえ許されない。己自身が許さない。それが良いか悪いかは、己の中で解決できるような事柄ではない。
見る世界の違う者には、至極厄介な話だろう。それは俺も然り。
「賢い、だが面倒な男じゃ、お主という奴は」
晴幸はくくくと笑う。
笑われても仕方ない。これまで散々やり散らかしてきたことだ。
行き場のない不甲斐なさに襲われ、俺は拳を握る。
「晴幸様!殿が御呼びにございます!!」
声の方を向くと、一人の男が遠方で首を垂れていた。
「今向かう……」
反射的に動いた足と声。しかし、それを引き留めた男。
晴幸は闇に飲まれたような瞳で、俺を睨んでいた。
「いや、お主は儂と代われ。今のお主には任せられぬ」
「……っ」
戦というものは、一時の迷いによって命を落としかねない。
迷い止まぬ俺には最悪な状況だと、そんなことは百も承知だ。
だからこそ何も言えない。社会人として働いていた俺も、武人として此処に立つ俺も同じ。
過去から一向に学ぼうとしない。そんな馬鹿者を、神は憐れんでいたのかもしれない。
男は背を向け、早足で歩む。
対し、俺は立ち止まると共に目を閉じた。
途端に心臓が鼓動を急ぎ、身体が熱を帯びる。
「晴幸様?」
「いや、少し眩暈がな、大事無い」
俺は顔を歪ませながらも、変貌を悟られぬ様、毅然とした態度で立ち続ける。
男は再び歩み始める。その背中が徐々に遠ざかり、ぼやけてゆく。
心臓が大きく鼓動を打った瞬間、俺は意識を奪われた。
「殿、連れて参りました」
晴幸は主君の前にひざまづく。その場には板垣や虎胤、甘利、その他数名の重臣達が顔をそろえている。
俯きがちの晴信は遂に顔を上げる。その顔に険しさを覚え、晴幸は顎を引いた。
「……流石は《鬼》、か」
晴幸にしか聞こえない程の小声で、呟く晴信。
晴幸の目は鋭く、晴信だけがその変化に気付いていた。
それを誰に伝えるわけでもなく、晴信は俺を一心に見つめていた。
「儂と其方は同じものを目に映し、同じことを頭で考えた。
其方も儂も、見落としていた訳じゃな。
率直に申す。我等は既に、敵の罠にはまっておる」
「なっ!?」
陣中にどよめきが起こる。頬に汗を流す晴信と晴幸。
二人のみに起こる、冬の寒さに反する体温の上昇は、何を意味しているのか。
「ええ、気付いておりましたぞ。殿」
「晴幸……」
「殿が案じておられるのは、以前我らが刃を交えた《志賀城の残党》ではありませぬか?」
晴信は目を見開く。
まるで図星だと、声に出さずとも現れてしまったかの如く。
「以前の武田側の処置に対し、信濃国人衆は恐らく反発を強めております。それに志賀城から村上領へ流れた牢人も大勢いると見ます。故に砥石城側にも武田に恨みを持つ者が大勢いる、そう考えるのが自然にございましょう」
「敵兵の士気が高いというのは、そのような理由であったか」
虎胤は腕を組み、唸り声を上げる。晴信は無表情を貫きながらも、依然額に汗を浮かばせていた。
「如何すれば良いと考える、晴幸」
「御言葉ながら、撤退が宜しいかと」
「撤退……」
「否、勘違い為されますな。私が決める事ではありませぬ。
兵が如何に動くかは、殿の一存にございまするぞ」
晴信は歯を食いしばる。その表情を間近に、晴幸は目を細める。
撤退。若く、血の気が多い晴信にとっては、苦渋の選択だろう。
夜襲を仕掛け返り討ちに遭ったと知られれば、周辺諸国に嘗められ、攻め込まれる可能性も出てくる。それでも踏ん切りをつけて良い場面だ。
敵が体勢を整えている以上、夜襲は失敗している。ここは無駄な兵の損失を防ぐ為にも、素直に手を引いた方が良い。
負けを認めるという事も、立派な大将としての務めである。
「......儂は......」
降り続く雪は、まるで我等を嘲笑っているかのよう。
暫く経ち、絞り出した晴信の答えは、晴幸にとっても《意外なもの》であった。
次回、晴信の決断と高松達