第百二十九話 今宵、開戦
師走の夜空は、灰に混ざる。
見上げる度にその魁偉さを身に染みて覚える。
横田備中守高松は些か戦く仲間を横目に、終始笑みを浮かべていた。
霧雨が肌を濡らす中で目を細める。明かりの灯る城。光を帯びた瞳の奥。周囲に誰もいない事を三度確認し、高松は一歩踏み出した。
「今宵は宴じゃ、城兵は我らを出迎えてくれることだろうよ」
一時の静寂。其れを切り裂く一本の矢。
高松は鋭い眼差しで手綱を引く。
雄叫びに似た咆哮、男達は彼の後ろを付いて行く。
降雪に変わり始める頃、彼等は城に向けて走り出すのだった。
「殿、冷えまするぞ。羽織を」
降り積もる結晶。晴信は飯富虎昌の声に頷く。
高松隊が夜襲をかけ、既に小一時間が経過している。
未だ何の報告もない陣中には、徐々に暗雲が立ち込めていた。
それを悟らせない様に振舞っている。いや、所詮は振舞っているつもりに過ぎない。
晴信には分かりきっていた。己の洞察力に苛立ちさえ覚えてしまう。
しかし、一番はやはり村上義清という男を恐れているせいか。
晴信は沈黙の中で模索する。己を取り巻く暗雲の正体を。
「殿!」
「......っ」
飯富の声に驚く晴信。眉間に皺を寄せる飯富。そんな彼の瞳は澄んでいる。
晴信は一度息を吐く。この男は知っているのだと、そう感じてやまない理由を見つけられた気がした。
「......飯富、其方は妻とよくしておるのか?」
「な、何を仰いますか......」
「こう戦続きとなると、話すこともままならぬであろうに」
我ながら馬鹿な問いだと思う。
それでも一度思い立てば、訊ねない理由はなかった。思いを抱える自分と共有できる存在を、今になっても探し続けているのだ。
「御家の為ならば、私は何も案じませぬ」
「そうか、其方の息子はどうだ」
「......未だに尿を漏らす臆病者にございます」
上手くいっているとは言い難い。やはりそれも己の為した《独断》のせいか。
そんなことを考えているようでは、戦など微塵も務まらないことも、己の言動が唯の欺瞞に終わってしまうことも知っている。
飯富に声をかけようとしたその瞬間のこと。陣中に現れた男は晴信の名を呼び、目前にひざまづく。
飯富は事態を悟り、彼の隣へ移動する。
「遅かったではないか。何をしておった」
「申し訳ありませぬ。それが、敵兵の士気がすこぶる高く、少々手こずっております」
「士気だと?何故だ、我らの兵力では足りぬと申すのか?」
「いえ、そのようなことは」
男によれば、城内に立て籠もっていた敵兵の数は約五〇〇。七〇〇〇の兵を率い、夜襲を仕掛ける我らが手こずる筈がない。
ならば、原因はその士気の違いにあるということか?
士気の違い。その言葉に晴信は気付く。
この男の話が本当なら、何が彼らをそこまで奮起させているのか。
(......もしや)
晴信は顎に手を当て、思考する。
途端に目を見開き、不意に立ち上がった晴信は、周囲の注目を浴びる。
「かの城の残党か......っ!」
「そろそろ、気付く頃であろうな」
砥石城天守。
村上義清は澄んだ瞳で、碁盤に石を置き続ける。
「殿、もしや全て狙っての行動で......?」
「申したであろう。《此度の城兵はこれまでとは一味違う》と。
さて、類稀なる軍才を持つというあやつが、如何に采配を振るうか、楽しみじゃ」
脳裏を巡る思考に、笑みを零す義清。その側に居るのは、矢澤綱頼。
綱頼は彼に表情を悟られぬよう一心に俯いている。硬直する彼の様子は、まるで床の冷たさに凍えている小動物のよう。
「殿......?」
敵兵の士気が高い理由に、周囲は気づいていない。
武田陣中で唯一人、晴信だけが頭を抱え項垂れる。
「......晴幸を呼べ」
砥石城攻略の糸口。
死線脱却の糸は絡まり、縺れる。
晴信は掠れたような声で、そう呟いた。
晴信と義清。二人の名将が見る景色は