第百二十八話 晴幸、混迷
それは昨夜のこと。
晴信が発した突然の一言に、板垣は驚愕した。
「儂が直に見て参る」
理由を聞き出す暇も与えられず、それだけを口にした晴信は立ち上がる。
「と、殿!!」
晴信は板垣を睨む。
現実を告げるかの如く鋭い眼光。
板垣は唯一人、血の廻る音も聞こえる程の静寂の中で、息苦しさを覚えていた。
翌朝
「何っ、殿が!?」
「は!置文が殿の部屋に残されておりました!!」
顔面蒼白。弥兵衛から受け取った便箋の内容は、俺の想像を遥かに逸するものであった。
そこには明らかな晴信の筆跡で、砥石城へ向かう旨が書かれている。
俺は数秒の硬直の後、遂に手を額に当て、唸り声を上げた。
「晴幸様!!」
「何故だ……もし殿に何かあれば……っ」
じわりと汗が垂れ始める。
彼の言葉が示唆する意味は、それから半日ほど前まで遡った出来事にある。
城攻めに駆り出された小姓達。
甘利虎泰が彼等の一端に命じたのは、夜番の務め。それも虎泰本人の口から耳にしていた俺と晴幸。ただ弥兵衛が気付いた頃には既に、彼等もまた姿をくらませていた。
彼等自身が謀った、もしくは《付いて参れ》と晴信に促されたか。
どちらにせよ気付けなかった。いや、どう考えても気付かせようとはしていない。
まるで同じだ。高遠が宴の裏で事態を操っていた、あの晩と同じ。
「命令じゃ弥兵衛、板垣殿に一刻も早く連れ戻せと今すぐ申し上げよ!」
「それが、殿とその板垣様が昨晩、何やら声を荒げ話されているのを耳に致しました」
「……何?」
俺は遂に顔を上げる。板垣が?
(どういうことだ?板垣は晴信の後を追っている訳でもなく、依然陣中に残っているじゃないか……)
「儂が板垣殿から訳を聞いて参る」
咄嗟に出たその言葉に安堵の様子を見せる弥兵衛。
この時の俺は、至極恐ろしい顔をしていたと思う。
そんな恐怖に塗れた感情を覚えた俺を、諫めようとした男がいた。
その男は静かに語りかける。鼓動の音を耳に、力を抜けと。
真偽を問う暇も無く、俺は探し回る。
周囲の反応からして、既に晴信消失の噂が出回り始めている様だった。
「……!」
ざわつく集団の奥で、浮かび上がるように現れた男の背中。
俺は呼びかけ、男は振り返った。
「如何した」
「……其方は何をしておるのだ。家臣団は大騒ぎじゃ、板垣。
其方は何を考えておる?」
板垣は応えず、ただ普段と違った雰囲気を醸し出す。
俺に終始伝え続けているのは、《冷酷さを帯びた眼》だけ。
「筆頭家老として、殿を連れ戻すべきではなかったのか……?」
そう言いかけ、気付く。
そうだ、そもそも何故晴信は思い立った?
己の目で確かめるという事が、確かさを得られる行為だと知っているから?
違う。そんなちっぽけな理由なんかじゃない。
その思考の裏側に、俺は気付けていないのではないか?
「其方はまだ気づいておらぬのか?」
冷め切った声と鋭い光が、咄嗟の眩暈を誘発する。
失望が織り交ざった声に、俺は目を見開いたまま動けなかった。
「《その目に偽りは無いか》?
其方は殿の問いに対し、迷いを見せた。
偽り無き目を信じてはおらぬという様子でな。
殿はそう仰せられておる」
だから、俺を疑ったのか?
それとも、俺を信じた上で吟味しているのか?
考えれば考えるほど、思考が捩れてゆく。
如何して、どうして、どうして......
「やはり、其方は己しか見えて居らぬ」
「……殿」「っ!」
呟きに似た板垣の声。否、音を失った世界に迷い込んだ俺は、口の動きでしか状況を判断できない。
思考の渦の中で、己が身に従うかの如く屈み込む。
俺の背後に立つ晴信は、ぼろぼろの布を纏ったみすぼらしい格好で、俺を見下ろしていた。
「今戻った。晴幸、後に其方の策を聞かせよ。
儂と其方の見る景色は、同じであったか。
それを此れより確かめる」
彼の言葉が、俺を我に引き戻した。
何が起きているのか、状況が理解できない程に、俺の頭の中は混乱している。
異物は赤子の様だと、俺の中で嗤い続けていた。
「は、はっ!」
俺は首を垂れつつ応える。
俺の振る舞いが、晴信にとっての一手間と化してしまった。しかしそれは決して他人事じゃない。御前もそうだ。
他人を惑わし、要らぬ杞憂に振り回される。
我等はそれほどの《老いぼれ》に、なってしまったのだったな。
「板垣、わしの目論見通り、事は進んでおる」
「は......」
「明日の夜に夜襲を仕掛ける。城攻めじゃ」
正気を取り戻した真剣な表情で、板垣は返答する。
その様子に頷く晴信は、汚れた足で一歩ずつ、目的の場所へと歩を進める。
それは勇ましく力強く、はたまた決意と覚悟を胸に秘めた《若武者》の顔であった。
次回、開戦。




