第百二十七話 その目に、映る世界
陣へ戻る最中に、俺は一度も口を開くことは無かったらしい。
厳粛な空気が流れていた訳でも、思考に浸っていた訳でもない。
正しく言えば、道中の記憶が無かった。
城へ辿り着いた後も、往路と同じく一寸の暇も与えられず、俺達は帰還の報告へと出向く。
「その目に、狂いは無いな」
晴信は直ぐに問い質し、虎胤は唯一度だけ頷いた。
俺は再び鎧を纏い、陣へ赴く。
既に出立した頃の慌ただしさは治まっている。
「その目に狂いはない......か」
そういえば、子供の頃からよく考えていたことがある。
《この右目に映る景色は、果たして正しいものだったのか》と。
今もこういう時に限って、常々考えてしまう。
人は他人の視点から見た世界を、知ることは出来ない。
例えば目の前に丸いものがあり、第三者がその形を問うとする。
俺ともう一人の人間は、それを間違いなく丸だと答えるだろう。
だがもう一人の見た世界では、それが《四角》に見えているとしたらどうだろうか。
そういった意味で、その問いは誤謬を孕んでいると言える。
認識の誤差。俺にとっての《丸》が、もう一人にとっての《四角》なのだ。
極端な例えではあるが、要は他人と自分の見えている世界が、違うのかもしれないということ。
晴信と、転生者としてこの時代に降り立った俺とは見え方が違う。
俺は眼帯に手を当て、俯く。
人は、目に映す物を本物だと定義する生き物だ。しかし、いつしかそれは大きな間違いだったと気付かされた。
俺の右目は、色とりどりの世界を映す。しかし左目に映る景色は常に白光を帯び、無に近しい。
俺の前に広がる世界は、案外そんなものなのかもしれない。進化の過程で、脳が都合よく虚構を映しているだけなのかもしれない。
右目に映る世界が全て正しいといえる証拠など、ありはしないのだから。
同じ世界を見て生まれる差異。どちらが正しいのかも分からない。
《その目に狂いなど無い》と、果たして言い切れるだろうか。
こんなことも、他人からすれば唯の杞憂だろう。俺は再び目前の景観を眺めつつ、息を吐いた。
「あの男、何かを隠しておるように見えたな」
後方からの声。いつものことだと振り返り、瓜二つの男に頷きを見せる。
同じ考えを持つことさえ、奇遇かどうか言い難いものだ。
互いの思考を読める事が、その何よりの証拠。
きっと、俺とこの男の見ている世界は同じ。
やはり、幸綱の力は強大だ。
誰がどんな世界を見ているのか、奴に聞けは一瞥即解だろう。
幸綱と比べる度に、己の力の微力さを悟る。
苦しいものだ。俺には分からないことだらけ。
突然鼻がむずがゆくなり、大きなくしゃみが出る。
冷え込んできた。気づけば風が強まっている。
「疲れておるな、少しは暇も必要であろう」
そうだな、と俺は頷いた。
先程まで休息を欲していたというのに、ようやく訪れた休息を思考に費やしてしまうとは。
どうやら、変な癖がついてしまったものだ。
だがそれも、此の男に転生した定めなのかもしれない。
俺は嵐の前の静けさに、ただ安堵していた。
長くまた濃くもあった一日は、何事もなく過ぎてゆくものだと思っていた。
そう。
晴信本人が、何も言わずに砥石城へ向かったという報告を耳にするまでは。
嵐が、来る。