第百二十五話 浪人衆、偵察
その出来事を、俺は忘れられる筈が無かった。
平然な面持ちを貫きながら、記憶の奥底に埋め尽くされていたのは晴信の表情。壊れた玩具にこびり付く錆び。それを人間の間に垣間見たようで、少しばかり不思議さを覚えたのだった。
明くる朝。師走の予兆を感じながら、俺達は砥石城へと出立する。
当然敵だと知られることも、目立つことも許されない。故に俺達は列を為しつつ、裸足とみすぼらしい召し物を纏い山中を進む。
ぬかるみに足を取られつつも、前進を続ける幾人の将。唯前方を睨み続ける者達。それはいつか俺が躑躅ヶ崎館へ足を運んだ時と同じ。
あの時ほどの自尊心は消えつつある。それは俺が数々の死線を掻い潜り、己がいかに弱い人間であったかを知った為だ。
砥石城付近へ辿り着いた俺が抱いた第一印象は、『目立つ』ということ。
山の尾根上に築かれている砥石城から、近隣国を一望出来る事は登らずとも分かる。
それはつまり、砥石城自体が幾方向から目に付きやすい城であるということだ。
外見だけを見れば強固そうな城ではあるが、これまで見てきたような城に比べると簡素な造である。(当然内装については噂程度にしか知らない訳だが……)
「これは攻めがいのありそうな城じゃ」
俺の横で笑い声を零す老人。また隣で老人を睨みつける虎胤の顔が見えた。
よく甘利と行動を共にしている男か。
俺は直ぐに理解が出来たが、相手は俺に面識はない様子だった。
老人は俺に気付くと、見定める様に俺を眺め始める。
「な、何か?」
「其方、山本殿と申したか」
「ああ、そうだが……」
途端に老人は歯を見せ、着物の袖をぐっと捲った。
「此の横田高松、唯の爺と思われてぁ困るっ!!」
「備中守殿っ!」
虎胤は慌てながらも高松の口を押える。
突然の出来事に少々戸惑ってしまったが、腕の中でもごもごと動く高松に、思わず笑みを浮かべた。
「驚かせてしまったな。此の者は横田備中守高松殿。甘利殿の備えとして仕えておる男じゃ」
そう言いつつ、彼は腕を放す。
途端に始まる高松の問い詰めに、虎胤は耳を貸そうとはしなかった。
俺は簡単に会釈を返しておいた。
「そう言えば、此処に居る者は皆、浪人衆であるな」
「皆……?」
俺は驚嘆する。皆ということは、虎胤もそうなのか?
「む、ああそうか、其方には伝えていなかったか。
我々はかつて、下総国衆である臼井原家の一門であった。だが居城である小弓城を巡った合戦において、敗北の末に城を奪われた。故に我が父、友胤と共に甲斐に落ち延び、先代、信虎殿の家臣になったという訳じゃ。
そのような意味でも、儂は其方に興味を持った。
他国から流れ此処に辿り着いた、儂と同じ境遇の男をな」
虎胤も俺と同じ。否、幸綱も。
いつの間にやら、高松は口を閉ざし頷きを見せている。
「儂は、恩を返さねばならぬ。故に我等はな、殿の名誉にかけて戦っておるのじゃ」
砥石城を見上げながら、虎胤は呟いた。
そんな彼を横目に、俺は口を噤む。
武田晴信。奴はいずれ再起不能となる危険性を孕んでいる。
そんな気がする、いや、そんな気がするだけだ。
唯の杞憂で済めばいいものだと、俺は思うのだった。
同じ境遇