第百二十三話 晴信の、問い
甲府を発ち、早一週間。
武田陣はかつて大井貞隆が占有していた長窪城に布陣する。
手綱を手際よく操作し、俺は馬上から霜の降りる草の上に降り立った。
しゃりという音と固い感触が、草鞋を経て伝わる。
着々と陣を立て始める者達。時折見せる身震いと悴む指先に、身を案ずる暇もない。
其処に広がる情景はごく有り触れたもの。枯葉にまみれた景色に、俺はとある出来事を脳裏で思い返していた。
晴信が命じた大井貞隆の惨殺。その事実に俺は耳を疑う。
直ぐに晴信の許へ赴き、問い詰める者数名。それにも変わらず無表情を貫く晴信。
「あやつらの企み、端から知っておったわ」
晴信の達観さには心底驚かされるが、こう驚かされっぱなしでは身体が持たない。
奴の洞察力をどれほど理解し、此度の進軍をどんな心構えで受け入れているのか。皆の表情を見れば一目瞭然だ。
赤の他人に対して誠心誠意の姿勢を崩さない。この時代では当たり前のことなのかもしれないが、この家の団結力というものは心底計り知れないな。
「晴幸殿、少し良いか」
板垣の声。背後からの呼びかけに、俺は振り向き様に返答する。
そうだ。呆ける暇も無いと言ったのは、俺の方だった。
「先程、今井藤左衛門を偵察隊として向かわせた。
近々、虎胤らも偵察に向かわせる。其方も共に向かえ」
彼の言葉に、「ああ」とだけ返す。
此処まで来て、晴信の慎重な姿勢は変わらないようだ。
それもそのはず。偵察隊にも重臣を起用するところを見れば、重要な任務である事は自明。
当然だ、知られてはならないのだ。
仮にでも知られてしまった時には、撤退するのが得策。力で押し入ったとしても、無駄な被害を生むだけ。それは城攻めの失敗、いわば《負け》を意味する。
「……《虎胤ら》とは申したが、其方も人員は少ない方が良いだろう。
手勢は十名ほどと考えて貰いたい」
「承知した」
口にしつつも、どこか上の空である。
その原因は言わずもがな、あの男にある。
日は既に暮れ始め、空は曇り始めていた。
その日の夜、俺は夜風を浴びに城外へ赴く。
其処には陣中に腰掛けながら、思案する晴信の姿があった。
「御風邪を召されますぞ」
晴信は驚いた様な表情を見せながらも、息を吐き笑む。
気を張っていなければ、いつどうなるか分かったものでは無い。
そう言いたい気持ちは十二分に分かるが、此処は家臣としてあるべき振舞いを見せなければならない。
「何故此処へ来た?知っていたのだろう、儂が此処に赴いておる事を」
「は。幸綱殿について、殿の御考えを御聞かせ願いとうございます」
「……」
やはり未だに理解し難い。行動も思考も、言動の意味も。
武田晴信ともあろう男が、安易な考えで幸綱を手放すとは考えにくいのだ。
それに、幸綱がいない状況だからこそ、偵察の手間が増えてしまったのではないか。
しつこいのは承知だが、追求しなければ気が済まなかった。
晴信は数秒の沈黙の後、一寸先の暗闇に目を向けながら語る。
「晴幸、其方は儂の事をどう思っておる」
「……?」
「何者にも動じぬ強かな男だと、そう思っているのか?」
「わ、私は今幸綱殿の事を……」
「儂は、弱い」
不意に発せられた一言に、俺は言葉を失う。
晴信は遂に俺の方を向く。
その時、額に冷たい感触を覚えた。
「儂は、弱いのだ。晴幸」
静寂の中、深々と雪が舞い始める。
冷たさが身に染みる。息が白い煙となって溶けてゆく。
松明に照らされた晴信の表情は、どこか悲しげであった。
それこそが、幸綱を手放した理由。