第百二十二話 義清と、綱頼
同時期、北信濃。
葛尾城に響き渡る、威勢の良い咆哮。
木刀を振るう少年達。その傍に立つ男は、現れた存在に気付くや否や叫ぶ。
静寂の広がった中庭に、葉の擦れる音が一層際立った。
「殿、御早うございます」
「良い、続けよ。
今朝も早くから精が出るな。皆、しっかり鍛錬に励むのだぞ。
綱頼、御主に一つ話がある。ちと顔を貸してくれんか」
「は」
呼応に優し気な笑みを振りまく男、名を村上義清。
矢沢綱頼は御辞儀を見せ、少年達に指示を残し彼の後を付いて行く。
「何やら信濃の内で、不穏な動きを見せている者がおるようだ」
「武田、にございますか?」
義清の部屋へ迎え入れられた綱頼は、中央で互いに向かい合う。
綱頼が導いた咄嗟の正答にも驚く様子を見せず、義清は頷いた。
「まだ若造のくせして、奴はとんだ戦鬼じゃ。
海野平の合戦をきっかけに、奴は父の実権を奪い、諏訪頼重との同盟を破棄。
あげく頼重を自害に追い込むなど、親不孝にも程があろう。
そうは思わんか?」
綱頼は苦笑し、茶を一口。
確かに近年の彼の行動は、平穏を主軸に置いていた信虎とは対照的だ。領土拡大を思考の中心に置く、野望を抱えた男。
互いの考えの違いが引き起こした事には変わりないが、綱頼には武田晴信という男が、ただ血の気の多い人柄には思えなかった。
「つまり、再び武田が戦を仕掛けると?」
「察しが良いな、そういうことだ」
「しかし、笠原清重殿やその他家臣達が命を絶った志賀城の戦で、
武田は多くの兵糧と資金を失っている筈」
「左様、先の志賀城の戦からたった二月しか経っておらぬというのに。
恐らく武田領内に、膨大な資金を蓄えておる富豪者がいるのかもしれぬな」
義清は遂に天を見上げ、息を吐く。
煙さながらの白さに、数十度目の冬を実感する。
龍の彫刻が施された天井に目を向けながら、義清は頬を緩めた。
「次の標的は我等じゃ。当然、我らが高梨殿と対立を深めているという事実、見落とす筈があるまいよ」
義清は項垂れつつ笑う。
(確かに砥石城は、東信濃における防衛線に大きく関わる支城。攻められるとしたらそこしかない。)
しかし、何故だ?
それが誠ならば、なぜ貴方様は笑っておられる?
「砥石城の守備を固めるよう指示を出す。
奴よりも先を回る。此度の城兵は、これまでとは一味違う故な」
綱頼は思わず、その意味を訊ねる。
訊ねたにも関わらず、義清はそれ以上を語らなかった。
「笠原清重、奴が死んだのは必然であった」
「必然」
「否、これもあの男の運命だったのやも知れぬな」
義清は天守から領内を見下ろす。
乾ききった冷風に、身を震わせる。
「ふ、くくく……」
「殿……?」
綱頼の声が強張り、小さくなる。
その肩の震えは、寒さのせいではない。
「晴信は、既に儂の掌の上じゃ」
綱頼の頬に、一筋の汗が垂れる。
背を向ける義清に目を向けながら、綱頼は気付かれぬ様に着物の裾から巾着型の袋を取り出す。
其処に描かれていた紋様に、彼は目を細めたのだった。
誰よりも先を行く男