第百十九話 軍議、一言
一五四六年 十一月某日
出立の日を前に、武田家中では重臣たちを募り、軍議が行われる。
議題は砥石城攻め、また城攻めに関する認識を兼ねたものであった。
「始めに、儂から皆に伝えおくことが有る。
既に勘づいている事だとは思うが、此度我らの目指す城は、村上義清が小県郡を占める拠点となる堅城じゃ。
つまり、城を奪えたならば、義清から小県郡を奪い返すことが出来る。
儂が何を伝えたいのか分かるな?
皆の者、心してかかるのだぞ」
晴信の言葉に空気がぴりつく。当の俺も、背後に控える晴幸も唾を飲んだ。
先程から晴信は《我らの目指す城》や、《かの城》と代名詞を用いることによって、此度侵攻を画作した城の名を伏せている。
何よりも、信濃への侵攻を知られてはならない事を考慮している結果。信濃制圧の第一歩が、この戦にかかっている事を強く表している。
俺は視線を横へ外す。
其処には、俯き加減に安座の姿勢を取る幸綱の姿。
晴信の言う取り返すという表現。これは恐らく、砥石城を築城した(という名目の)幸綱に向けて語られた言葉。
当の幸綱すら、砥石城の戦いについての知識は皆無と言っても良い。
責任が圧し掛かれば圧し掛かる程に、彼の抱える負担は大きくなってゆく。
「晴幸よ、其方の意見を聞こうではないか」
突然の声に、俺は目を見開く。途端に全員の目線を浴びた。
そういう立場にあることは重々承知だが、やはり慣れないものだ。
周りに気付かれぬほどの小さな溜め息交じりに、俺は拳を前に付け睨む。
「まず此度の戦、安易に御考えなさらぬ方が宜しいかと。
小城ではありますが、東西が塞がれている為に、攻めるには南西の崖を登るしかありませぬ。
稀に見る堅城、やはり敵側に知られた状況であれば、攻める事は些か難しいと見ます。
また村上勢のみならず、信濃の近隣諸国にも目を光らせるべきにございます」
「左様、故に其方を此処へ呼んだのじゃ」
晴信は目前に座る、一人の男に目を向けた。
「出羽守、其方を筆頭に塩尻峠へ兵を付かせる。指揮は其方に任せよう」
細い目に丸顔、小山田出羽守信有は返答する。
そんな彼の様子に俺は目を向けず、ただ彼の上に表示される赤い字を注視していた。
セントウ 一六四七
セイジ 一一三〇
ザイリョク 九二五
チノウ 一一九四
やはり感覚が狂ってしまっているな。
雑兵を相手にするには十分の数値である筈なのだ。
しかし、此処に仕え始めてからというもの、妙に他人の身を案じてしまう。
それは間違いなく、幸綱を始めとする異常値を叩き出す多くの者と対面してきたせいだ。
「この値ならば妥当じゃ、案ずるな」
背後から聞こえる声。俺はひとまず彼の言葉を信じることにした。
因みに、塩尻峠へ兵を付かせるところを考えると、晴信が警戒しているのは《小笠原長時》という男の存在であることは容易に分かる。
彼は信濃国を収める有力大名の一人で、砥石城へ向かう時期を見計らい、塩尻峠を渡って武田家が領国化した諏訪郡へ侵攻するという可能性をはらんでいた。
さて、此度の策をどれだけの者が理解できているだろうか。
《皆が同じ志を持たねば、戦況は一気に変わる》
いつか晴幸が俺に言い伝えた言葉。
分かりきっている、一心同体と称する俺だ。
その意味を捉える事は、それほど難しいことではない。
「殿、一つお聞き頂きたい事がございます」
「......なんじゃ、幸綱」
突然声を発した幸綱は、顔を上げる。
俺は彼の顔色を見て、うすら笑みを浮かべた。
あの頃とは違う、覚悟を決めた表情。
今回の戦において、間違いなく重要視される存在だ。
これなら大丈夫だろう。この時の俺は、そう思い込んでいた。
しかし、直後に発された幸綱の言葉は、予想を逸脱する内容であった。
「殿。私はこの戦、降りさせて頂きます」
衝撃の一言