第百十八話 かつての、盟友
そんな其々の思いが錯綜する中で、晴信は唯一人思案に耽っていた。
皆が己の指し示した一途の目的に目を向けている。そう実感すればするほど、己に圧し掛かる責任の二文字が肥大してゆくのである。
時折一人になった時、誰の目にもつかない場所で、彼は思考する。諏訪御料人はそんな彼の変化を案じていた。物思いに沈み、光を失った目を向ける彼を。
此れ以上迷いはせぬと、そう決めたのだったな。
御料人の膝を枕に寝そべる晴信は、心でそう言い聞かせる。
「また......戦が始まるのですね」
「……其方は案ずるな」
御料人の言葉に晴信は目を閉じる。
村上義清、諏訪頼重と手を結んだ海野平の戦いにおいて、真田幸綱は我らを敵に戦っている。故に敵を真っ向から見たあの男の話は信用できるだろう。
村上義清は侮れぬ男だ。真向に挑めば、今の兵力差では五分五分が良い所。
奴の持つ情報網の広さも噂に聞いている。奇襲をかけようとした敵に隠れ、先回りをしていたという話も。
だからこそ予防線は張ったつもりでいる。策が敵に漏れた際の予防線だ。
敵軍の侵攻が明らかになった際には、一旦侵軍を止め、甲斐近辺まで兵を引かせる。恐らく義清からすれば、我が家が攻め入った事実を口実に、甲斐制圧を名目にした上で我等の許に攻め入る事だろう。
その時は地の利を生かす。いわば敵を誘き出す策に切り変えるという訳だ。
ただ、今回の戦で義清を討ち取ることが出来るとは到底思えない。故に別動隊を陰から砥石城へと向かわせる。
問題は、城攻めの詳細までも知られてしまった時。城兵の数が多くなり、恐らく城攻めは難航を極めることになるだろう。
戦は情報戦とよく言われるが、我が家は情報量において不利な状況に置かれる可能性が高い。それは間違いなく義清との器量と兵力の差、そして父の代から培ってきた我が家との結び付きによるものだ。
だが、儂は敵に背を向けるつもりは毛頭ない。
その信念だけは曲げることはない。
「御料人、一つ訊ねたいのだが」
「何にございましょう」
「村上義清という男は、其方の父と如何なる間柄であったか」
咄嗟に出る条件反射。それ以上の発言について、晴信は思い留まってしまった。
(海野平の合戦は、確か村上義清と諏訪頼重の二人が大将として参陣していた筈。義清を知っていなくとも、噂くらいは耳にしたことがあるだろう)
それでも、問い質す事に抵抗を覚えてしまう。それは何故か?
《諏訪頼重への思いは全て、水に流してきた》
問われるのは、それが虚言か否かということ。
無意識のうちに、そう思い込んでいただけなのかもしれない。
晴信は俯き、御料人は目を細める。
諏訪家として過ごした年月に懐古の念を抱く様に、彼女は微笑んだ。
「盟友と呼ぶべき御方でありました。
時に碁を指し合い、共に語り合う仲であったと」
盟友。それは信虎にとっても同じことが言えるだろう。それを壊してしまった己の責任をも露骨に感じてしまう。悪い癖だ。
「それともう一つ、《不可思議な御方》であったと、父の口から聞いたことがございます」
「不可思議......だと?」
「はい。私にも意味は分からずじまいだったのですが.......」
それはどういう意味だろうか。
並の人間とは違ったものを持っているのか。それとも、超越した何かを備えているのか。
いくら考えたところで、結論は出なかった。
晴信は遂に御料人の目を見る。
澄んだ瞳で見つめる彼女に対し、晴信は思わず言葉を漏らした。
「かつての盟友を、儂は敵に回した。
父上を裏切ってしまった。其方の父に対しても同じくそうじゃ。
ただ、それでも其方は儂を信じてくれるのだな」
「当然です、私は殿の妻にございますよ」
あまりの即答さに少々驚いてしまう。
この女子には、いつも助けられておるな。
晴信は息を吐き、悟った。
「四郎」
御料人の声に、晴信は振り向く。
二人の眼に映るのは、四足歩行で近付く赤子の姿。
まだ一歳にもならない、まだ首が座って間も無い息子のあどけない表情に、思わず笑みが溢れる。
「こやつに、苦労はかけられぬな」
そう言って、晴信は彼の頭を優しく撫でた。