第百十五話 一手、其先
床の軋む音。傾いた西日が影を伸ばす。
いつもより早めの夕食の後、城内の一室を訪れた俺を待つのは、武田晴信。
唯一人、俺だけが此処へ呼び出された理由は、彼の一言によって明らかとなった。
「一局交えようぞ」
彼の前に置かれた碁盤が、橙色に照らされる。
酷く唐突な言葉だと思う。だが、今更この男に何を言われようと驚きはしない。
俺は腰を下ろし、盤を挟み向かい合う。
そこにあるのは、白石の入った木箱。
立方体を為し、木目が美しく対称性を帯びている。
呆けに似た状況の中で、突如盤に置かれた黒石。
合図さえ無く、不意に始まる一手目。
俺は直ぐに白石を手に取った。
憶する暇さえ与えない。
随時想像の上を行こうとする。
俺の知っている武田晴信は、そういう人間だったな。
「殿、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
交差する線上に置かれる石は、徐々に複雑さを増してゆく。
晴信は盤に目を向けたまま、「ん」と返答した。
「しばしば耳に致します。殿は家臣に何かを伝える際、必ずというほど碁を御打ちになると。
もしや、何か私に申し上げたき事があるのでは……」
晴信は頬を緩ませる。
それでも、真剣な様子に変わりはない。
「普段は信方に頼むのだが、
たまには別の者とも打ってみとうなったものでな」
一瞬たりとも目を合わせない。淡白さの勝った声に、俺は彼を睨みつける。
「一手を指せば、再び次の一手を練らねばならぬ。
相手の心を知り、形を捉え、一石を投じる。
其れが吉と出るか凶と出るか……
博打好きの其方の事じゃ、そんな事はもはや自明であろうよ」
なんだ、碁の話をしたいのか?
そんなことは、勝負事ならば当然の規則だ。
間違いない。彼の言葉には、何か別の意図が隠されている。
「だが、一手では足りぬのだ。晴幸」
「……如何なる意味にございましょう」
晴信は俯きがちに、掴んだ黒石を見つめる。
「我等の見るべきはその先。
対等な一手など、所詮相打ちに終わる。
儂の申したき事は、唯一つじゃ。
山本晴幸、相手を超えて見せよ。」
ぱちん、と乾いた音が盤から発せられる。
その手は、俺を真底驚愕させた。
かつて一度たりとも見たことのない一手。
わざと、定石を外してきた。
地図にはない布石。そのことに瞬時に気付き、俺は微笑む。
そうか。どうやら試されているのは、己の器量ではない。
ふつふつと湧き上がる感情。
俺は次の一手を模索し、石を取る。
嘗めるな、若造が。
相手がその気なら、乗ってやらない理由は無い。
俺は力強く、交差線上に石を打ち続ける。
「......己の占めていた筈の場所は、いとも容易く相手の領地となる。
一寸たりとも気を抜くことなど、出来はしないのだ。晴幸」
俺は目を見開く。
知らず知らずのうちに有していた筈の五つの石が、
相手に取られてしまっていた。
「例の一手から、其方は己しか見えなくなっている。
まあ、儂の負けである事に変わりはないが」
晴信は遂に笑い、顔を上げた。
「軍資金は得た、近々出陣致す。其方は策を講じよ」
やはり、この男に何を言われたとしても、驚きはしなくなった。
次の相手は、定石を逸脱した手を隠し持つ男なのだろうと、俺は悟る。
橙色に、うっすらと灰が混ざり始める頃。
俺は既に、次の一手を見据えながら、頭を巡らせ始めていたのだった。
彼等の運命を左右する、大戦。