第百十四話 泰山と、虎胤
「ほお。故に、頼みを請いに参られた訳ですな」
「殿の御命である。聞いてくれるな?松尾殿」
松尾泰山の笑みを前にして、原虎胤は以前無表情を貫く。
幾ら晴信の後ろ盾があるとはいえ、笑みなど浮かべている余裕など無いと理解しているからだ。
虎胤は泰山の屋敷へ赴き、前々から晴信が虎胤に対し多額の集金を求めていたこと、またその用途として、戦で削られた兵糧と躑躅ヶ崎館改修工事の費用にすると口にした。
(松尾泰山は武田家にとって強力な金貸し。下手な言動一つで我が家の明暗を分ける程の力を持ちかねない……)
「可笑しなものですな。何故今になって、私に御頼み為さるというのか。
城の改修ならば、日を迫られることは無いと思えるのですが」
「儂にも分からぬ。殿は有耶無耶になさるのだ」
「いえ、貴方様なら御分かりの筈」
予想外の返答に、虎胤は目を見開く。
雨上がりの水面に、波紋が広がった。
「殿は再び、戦をなさるおつもりなのでは?」
笑みを浮かべる泰山に、虎胤は唾を飲む。
晴信による口封じに、既に気付いていた。
いや、そもそもの要因は己にあったか。
「それを秘密裏になさるとは、やはり殿は民を第一に考えておられる。何と御優しい事であろう」
虎胤は拳を強く握る。
動揺してはならない、腹を立ててはいけない。これは奴の罠だ、乗れば喰われる。
戦を仕掛けると民に知れれば、彼等の意欲を削る事にもなりかねない。男はそれを見越しているのだ。
五百貫など、容易に貸せる程の額ではない。泰山は見定めている、普段は人前に見せることの無い《武田家の重臣を担う者の持つ器量》を。
「隻眼の男ならば、既にご存知であらせられますぞ」
「……山本晴幸の事か?」
「左様にございます。彼はよく此処に訪れます故、貴方様の話は耳にしております」
泰山はそう言って、目の前に大判を積んだ。
五百貫、現在の価値で五千万円は下らない。
「ほれ、欲しかったものにございましょう。受け取りなされ」
虎胤は目でその額を計算する。
目的の額。一銭も違うことなく五百貫が積まれている事を確かめ、彼は口を噤む。
この行為を意味するもの、それは《承認》である。
大金を貸す程の価値を見出し、対価としての存在を認めた証。
(儂が噂通りの男だったと、そう言いたいのか)
やれやれ、参ったものだ。
これで、山本晴幸という男がますます分からなくなってしまった。
新参者のくせをして、松尾泰山を動かすことが出来る存在。
「……忝い」
虎胤は深々と一礼。対する泰山は微笑んだまま、彼を見下ろしている。
己に出来ることはこれしかない。唯の金貸しに頭を下げることだけ。
酷く惨めなものだ。
本当にそうだろうか?
我々は認めようとしないだけで、この男が土台に居るからこそ、この家は成り立っているのだ。
そろそろ、素直な姿勢を見せる良い頃合いかもしれない。
「余り、身を亡ぼさない方が宜しいですぞ」
去り際に聞こえる声。振り向く先に座る男は、強かな眼差しで此方を見る。
「無理をしているように見えるか?」
泰山は応えない。虎胤は彼の様子を黙視しつつ、部屋を出た。
泰山は息を吐き、髑髏を垂れる。
あの男は、何も知らない様子であった。
聞くことはなかったが、雰囲気で何となく分かる。
「山本晴幸、其方は何者じゃ」
泰山はゆっくりと笑い始める。
最も理解に乏しかったのは、泰山の方であった。
晴幸に関して、可笑しな部分はこれまでいくつもあった。だがその一つ一つが、確かめようのない唯の違和感に過ぎない。
奴は己の身を護る為に、何かを隠している。
仮にでも知られれば、死をも免れない程の機密事項を、奴は抱えている。
根拠こそないが、こういう時の勘はよく当たるものだ。そうではないか?
彼は笑いながら、宙を仰いだ。
知れた暁には、きっと良いことがある。
そんな一種の煩悩も、胸の内にしまって置くことにした。
松尾泰山、奴は天使か、悪魔か。