第百十二話 儚き、記憶(第4章序章)
《運命は偶然よりも必然である》
誰もが知る文豪、芥川龍之介の言葉。
其れが差すのは、運命は己の歩んできた過程の上に成り立っているということ。
全てにおいてそう言える訳ではないのだろうが、私はあながち間違った理論ではないと思える。
私は、この世に偶然は無いと思っていた。
あるべくして起こる出来事しか、この世には存在しないと思っていた。
しかし、偶然がなければ運命という言葉の成立は成さなかったであろう。
この通り、運命の定義というものは漠然としている。抽象的に物事を現そうとする日本語の悪い部分が、此処にも見て取れる。
私がこの時代に飛ばされたのは運命の一種である。果たしてそれは偶然か必然か。そういった論議を幾度と交わしてきたが、単に己の身に降りかかった出来事を認めたくないとか、そういう訳ではない。
(まあ多少はあるが、そんな話をしたい訳ではないのだ。)
この逆行転生に積み上げてきたものが深く関わっているのだとしたら、私は必然故に、己の運命を数奇なものだと肯定できるだろう。
しかし、肯定できる事を運命論の証明に使おうとするのは、説明不足にも程がある。
積み上げたものがあってこそ現れるもの。それが私の思う《運命》の定義だ。
真田幸綱は書を閉じ、屋敷から外を眺める。
一五四六年、十月。小田井原の戦から二ヶ月が経った。
幸綱は目頭を指で押さえ、閉じかけた瞼を再び開こうと努める。
やはり変だな。些細だった違和感が、最近はひどく顕著に現れ始めた。
眠りから目を覚ます度に、頭の奥に小さな空間が出来上がっている。
私の持つ違和感の正体とは、その空間の為す意味。
《此処に来る以前の記憶が、徐々に薄れている》事を指している。
古い記憶から徐々に靄が広がり、仕舞いには見えなくなってゆく。
こうして失われた記憶というものは、取り戻せた例がない。
今は微量でも、いずれ膨大な数となる。
故郷、職業、いずれ恋人や友人、家族の記憶までも失ってしまうのだろうか。
それが運命だというのなら、必然だろう。
それを憂い、あの平和な時代に思いを馳せた所で、意味は無いのかもしれない。
別の時代に飛ばされたあげく、今は他人の身体である。無論元の時代に戻れる確証は無いのだ。
《恨んでおるのか》
背後に気配を感じながらも、幸綱は振り向かない。
恨んだところで、元に戻れはしない。
御前が此処に私を呼んだことも、《御前が死を目前にした》という事実の上だろう。
物事全てには、何かしらの意味がある。
偶然にも意味があり、運命にも意味はある。
ただ私は、此処に生きる意味を見出せない。
それは、本物にとって運命的な出来事に、巻き込まれてしまっただけの存在だからだ。
此処で生きることが必然だとしても、必然とする根拠が見つからない。
幾ら考えた所で、時間と労力の無駄であることは知っている。
私は立ち上がり、後方を見る。
己の中に潜む存在は、形作り、私の眼に映る。
「此処に生きることは、儂にとって意味を為すのか?幸綱」
私は問い、目前の存在は笑う。
「考えた所で無駄だと言ったのは、其方ではなかったか?」
的を射ている。私は息を吐き、縁側に座った。
いずれ意味を知る事が出来たなら、此の身体で生きることに疑問を持つことも無いだろう。
己のしている行為が、いわば一種の催眠術のようなものだと気付き、苦笑する。
そうだな。暗示をかけるのも、一つの手かもしれない。
曇天の秋空。枯葉が風に舞う。
これから起こる出来事に、私は思いを巡らせる。
苦難の第4章、開幕