第百九話 貞清と、晴信
「直ぐに晴幸殿を呼んで来ますね」
若殿はそう口にし、早々に部屋を出る。
粛然たる中で、幸綱は俯いた。
己のしたことは、果たして正しかったのか?
何故躊躇いもせず、敵陣へ足を踏み入れようと思い立ったのだろう。
いざとなると記憶の空っぽさに気付く。
己の世界に浸ってしまえば、何も感じなくなる。
ましてや、何も思い出せなくもなる。故に残るのは空虚感だけ。
傷つけられた感触さえ、どこか曖昧である。
幸綱は大きな欠伸をし、水を一口含む。
口内を染み渡り、飲み込むたびに喉を潤してゆく。
確信していた。私たちはいつか、大事なものを失ってしまうと。
我等を待ち受けるのは、意図しなかった筈の、棄却された未来像。
「幸綱」
幸綱は目を閉じ、呟く。背後に立つ存在は薄ら笑みを浮かべた。
《どうした、恐ろしい顔を浮かべておるな》
うるさい、そんな言葉を聞きたい訳じゃない。
此方としては、全て御前のせいだと知っている。
其処に立つのは、もう一人の自分。
いや、偽物は私の方であったか。
幸綱は苦笑し、ぐっと拳を握る。
抗いようのない現実が、私を襲う。
いつか明日を見失った日に、私を救ってくれる者は何処にいる?
虚構はいつか、真実に飲み込まれると知っているのに。
だからこそ、私はこの時代に生きる理由を知ることが出来ないでいるのだ。
「幸綱殿」
幸綱は声のする方向に目を向ける。
全く、愛想笑いも甚だしいな。
其方も私も、随分と嘘を吐くのが巧くなったものだ。
「甲斐に戻り、如何程時が経った」
「丸一日じゃ」
隻眼の男は私の傍で胡坐をかく。
「さて、総て話して貰おうか」
「ああ、其方もな。晴幸殿」
やはり、今は考えたくない。
目の前の男は口角を上げ、私を見ている。
私も同様に笑み、問いを一つずつ整理し始めた。
一方その頃、二人の男がとある場所へ向け、階段を下っている。
「晴信殿。父を解放してくださるのですか」
「ああ。戦が終わればと、そう言った故な」
晴信の後方に付き歩む貞清。
腐臭が漂う牢獄に、貞清は思わず息を止める。
ここで、何人もの人間が息絶えてしまったのだろう
そうして二人が辿り着くのは、貞清の養父、大井貞隆の牢の前。
「ほれ、其方の父親じゃ」
牢の鍵を開け、檻を開く晴信。
中は暗くてよく見えなかったが、次第に暗順応が働き、姿が明らかになってゆく。
「は……?」
貞清は固まった。
彼はそのとき知ることになる。漂う異臭の正体を。
其処には血を流し、息絶えた貞隆の姿があった。
「父上っ!父上ぇっ!!!」
貞清は傍に駆け寄り、肩を持つ。
しかし、既に身体は冷たく、死後硬直をも終えていた。
「……知っておったぞ、其方は憲政と通じていたな。
板垣と甘利、あやつらが襲撃を受けたのもそうじゃ。
上杉に何かしらの合図を出しておったのだろう。違うか?」
「っ……!」
「貞隆を生きて解放した暁には、武田を内側から崩すつもりだともな」
貞清は目の色を変え、晴信を睨む。
此れまでの温和気な彼からは想像の付かない、恐ろしげな表情。
「ようやく本性を出したか、大井貞清」
「武田晴信、儂を殺すのか」
「いや、寧ろ我が家に迎えたいと言いたいところだが、其方は納得せぬであろう」
今、此処にいるのは二人。
使うべきか?懐に忍ばせた短刀を。
貞清は顎を引き、着物の隙間へと忍ばせようと右手を上げる。
「無駄じゃ」
其の瞬間、五人の牢獄番の男が立ち上がり、刀を取り出した。
「こやつらと立ち合えば、此の家に忍んでいた身ならばどうなるか、容易に分かるであろう?」
貞清は目を見開く。
見落としていた。牢獄番の存在を。
一歩出し抜かれた。何もかも。
貞清は舌打ちながら、早足でその場を去る。
誠に惜しい男であった。
晴信は其処に置かれた死体に目をやる。
「其処の者、こやつに酒を用意してやれ」
「酒……にございますか?」
訊き返す男に、晴信は一度頷く。
己の命で殺した男にこんなことをするのは、実に罰当たりだ。
しかし、彼の死を悼む者はもはや此処にはいない。
彼の命は儚く消え去った。
いずれ、儂もそうなってしまうのか。
乱世とは、そういうものじゃ。
そう呟き、晴信はゆっくりと目を閉じた。
数々の人間が交錯した第3章、残すは《あの男》の話。
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