第百八話 決着、再会
それから三日後の、八月十日。
武田軍は遂に総攻めを仕掛け、志賀城の外曲輪と二の曲輪を焼き落とす。
翌日、武田軍は残る本曲輪を攻め、志賀城は完全に落城。
主君のいない笠原軍には、望みなど微塵も無かった。
「志賀城が、落城いたしました」
「何……じゃと……?」
その報告に、上杉憲政は硬直する。
手渡された書状には、《被害多大》の文字。
憲政は遂に頭を抱える。言うまでもなく、上杉家にとって最悪の事態が、此処で起きてしまった。
その矢先、障子が開く。
《最も恐れていた》男が、憲政の目の前に現れた。
「業正……」
「……三千もの兵が、命を落としたのです。
殿、どう責任を取られる御積もりか」
淡々とした口ぶりで、業正は拳を畳に叩きつけた。
怒りを抑えられず睨みつける業正を前に、憲政は何も言えぬまま、その場で項垂れる。
どうやら儂の思い違いだった様だ。
上杉憲政、此処まで愚かな男だったとは。
業正は歯を食いしばり、憲政に背を向ける。
呆れて物も言えない。かける言葉すら見つからない。語ろうとも思わない。
いや、呆れなど、とうの昔に通り越してしまった。
幾ら主君だといえども、今となっては軽蔑さえ覚えてしまう。
早々に部屋を出る業正を待っていたのは、二人の男に抱えられた金井秀景。
業政は彼の姿を見るや否や、立ち止まった。
「金井……」
「三千もの兵が……命を……?」
業正は思わず目を逸らす。
同時に、金井には全てを聞かれていた事を悟る。
金井は拳を強く握った。
「業正殿……業正殿……儂は……っ!」
業正は傷だらけの身体を抱擁する。
口にする必要は無いと、彼を宥めた。
旧友である高田憲頼が命を落としたことも、既に知っているのだろう。
此れ以上、この男の心を抉るのは止めた方が良い。
苦しいものだな、本間。
御前もきっと、このような思いを抱えていたのだろうな。
業正は悟っていた。此の家の行先を。
もはや、上杉もこれまでよ。
直に、儂も此処を手放す時が来よう。
ただ、其の前に一つ、やり残したことがある。
「殿、城兵及び、女子供を捕えて参りました」
武田陣中には、縄で繋がれた捕虜達が顔を連ねる。
晴信は一人一人に目を向け、家臣に告げた。
「城内の捕虜は我が将兵の奴隷とし、
女子供は売り払え」
此度の戦において、晴信の敵兵への処置は厳しいものだったと言われている。また、この出来事が後に武田の命運と大きく関わってゆくことになるのだが、それはまだ先の話。
捕えられた者達の表情。
一人一人が浮かべる《生きる事を諦めた》表情を、俺はただ近くで見ていた。
やはり、この時代に憧れる者の気が知れない。
人間が捕虜にされる、現代日本に生きる者にとってはありえない筈だった。
戦略や栄光のような光の部分など、史実のほんの一部に過ぎない。その殆どは残酷な現実だけ。
そのような、明日さえどうなるか分からない時代を、先人たちは生きてきたのだ。
生を全うし、今という時代を必死に生きていたのだ。
此度の戦で、俺は改めて思い知る。
やはり、過去に思いを馳せる意味など無い。
どの時代でも変わらない。
今を生きる事こそが、何よりも重要なのだから。
彼らはこれから、どうなるのだろうか。
きっと人身売買に投げ出され、見ず知らずの者の奴隷として生きてゆくのだろう。
耐えられなくなり、目を逸らした瞬間である。
「山本殿」
声に振り返った俺は、驚嘆した。
「幸、綱?」
其処には項垂れたまま、家臣の背に抱えられている幸綱の姿があった。
至る箇所に傷を負い、布が撒かれている。
「息はしております、しかし一向に目を覚まさず……」
「……そうか。其方、確か幸綱の家臣と申しておったな。名は何という」
「は、甚八にございまする」
「甚八、この男を儂の屋敷へ運んで貰いたい」
俺は平然とした面持ちで眠る幸綱を見る。
「......早く目を覚ませ、幸綱」
御前が目覚めた暁には、たっぷりと聞かせてもらうぞ。
ここに訪れるまでの経緯と、其方の持つ術について。
「全軍、此れより甲斐へ戻る!!」
その日、晴信の声は、甲高く天に響き渡る。
こうして、約一ヶ月に渡る攻防は、武田側の大勝で幕を閉じたのだった。
私は走った。
ただ一点を目指し、走り続けた。
私は己の力を使い、そして朽ち果てた。
今では記憶こそ曖昧だが、
微かに宙を浮いた感覚だけが、身体に残っている。
「……っ!」
目が開く。
飛び起きた男は、ゆっくりと辺りを見回す。
其処は木造の屋敷。静寂に包まれる場所。
身体中を刺す、鋭い痛み。
男は掌に目をやる。
たった数分に渡る、生死の博打。
だが生きている、私は此処で生きている。
男は遂に、生き抜いたのだと実感する。
「あ」
声がした。
其の方を向くと、女性が湯呑を持って立っている。
「其方は、晴幸殿の……」
彼女は微笑み、水を差し出す。
「真田様、無事で良かった」
若殿は手を握る。
幸綱はそんな若殿に向け、小さく微笑んだ。
業正のやり残したこと。
俺が幸綱に訊ねたかったこと。
全てが繋がってゆく。
次回、貞清と晴信。