第百七話 天、馳せ参ず
燃え盛る火と、火の粉が宙を舞う天守。
畳に滴り落ちる汗と蝋。
二人の武将は相対し、互いの目を睨み合う。
「上杉の家臣か、どうりで見ぬ顔と思うたわ」
目前の男は微笑み、盃を顔の横で揺らす。
笠原の真意が掴めない。高田は眉を顰める。
攻め立てられ、今にも城が落ちるという状況で呑気に酒など、何を考えている?
城内に火を撒くなど、この男は捨て鉢になっているのか、それとも意地でも城を渡すまいと考えた上での行為、いわば敵への最大の抗いか。
「……」
高田は尻込みながらも、笠原の一歩手前まで歩み、腰を下ろす。
訊ねるしかない。こうなれば救いに来たと口にしても、彼は一切聞く耳を持たないだろう。
暑さが身を焦がす。それは高田の身体や心に一種の苦痛を与え続けている。
乾盃の音頭すらも呑み込めず、ただ問う為の言葉が脳内を回る。
己の行為に疑問を抱きつつ、高田はたった一杯の盃を傾けた。
「……笠原殿、お力添え叶わず、申し訳ありませぬ」
不意に漏れた第一声。笠原は笑み、木造の天井を向く。
「儂は賽を天に委ねる事にした。どうなろうと譲る気はない」
運に身を任せる。
つまり逃げるつもりなど皆無だと、そう言いたいのだな。
ぱちぱちと、畳の燃える音が耳に刺さる。
「其方は生きよ、高田殿」
二杯目の酒が口へ運ばれた時、笠原の言葉が聞こえた。
高田は笠原の目を見て、苦笑する。
それではまるで、生きることを諦めている様な言い方ではないか。
「私は援軍として参った身。
私は、貴方様を御守りする為に此処へ参りました。
ならば私が申せるのは《生きて下され》と、その言葉のみにございます」
「其方の命を賭す必要など無いのだぞ」
もはや勝敗は決している。
城を焼き捨てた後に取る選択。
それは生への執着か、死への矜持か。
「我が殿は、至極悩んでおられました。
我等が生き永らえ、貴方様が死んでしまっては、上杉家に戻ることなど叶いませぬ」
「何時まで小意地を張っているつもりじゃ、高田殿。
其方も所詮は援軍の身であろう」
「ならば、抗わせて下され」
笠原の沈黙に、高田は少しばかり後悔の念を生む。
援軍の分際で命を賭す事など馬鹿馬鹿しい。
全ては笠原なりの優しさだと知っている。
だが、それでも互いに譲り合うつもりなど無い。
「己が身を無碍にはするな」
笠原の声色が変わる。彼は俯いたまま、高田の目を見ることは無い。
それは、戦う事を許した戒めの言葉。
もし死ぬようなことがあれば、決して赦しはしないと。
「お許しくだされ、笠原殿」
高田は天守を去る。
儂と同じ愚か者だと思っていたが、奴はこれほどまでに優しい男だったか。
笠原は懐から匕首を取り出す。
途端に大きな音を立て、天井の骨組みが落ちる。
炎に入口が閉ざされ、退路を断たれた。
笠原は刀を地に置き、前を向く。
「生きて見せよ。高田憲頼殿」
笠原は目を閉じ、ただ待つ。
いつかの空へと記憶を馳せ、その時を迎えるまで。
「武田兵、成敗致す……!」
目の色を変え、高田憲頼は戦う。
襲い掛かる武者は、皆口元に布を巻く。
敵は平然とした様子を変えることは無い。
息をする度に肺が苦しさが増す。それでも刀を握り、舌を噛んだ。
己を忘れまいと、天に咆哮する。
身体は優に限界を超えている。生きているのは、精神と気力だけ。
十数人を斬り倒し、燃やされる敵の躯。
酸素不足に視界がぼやけ、遂に膝をつく高田。
それでも、刀を杖代わりに立とうと力を入れる。
今にも途切れそうな深い息遣いで、見上げる。
目の前に立つ大男が、太刀を振り上げていた。
何が起きたのか、直ぐに理解出来た。
気付けば仰向けに倒れ、動けなくなっている。
温い液体が、地に広がる。
もはや痛みさえ感じない。朦朧とした感覚が、己を硬直させてゆく。
「……くぞ……こち……じゃ……!」
敵の声と足音が遠ざかる。
やはり、互いの声など届きはしなかった。
金井殿、済まない。
儂はとんだ恩知らずだったようだ。
たかが援軍の分際で命を投げ打つ、
こんな儂を、馬鹿馬鹿しいと嗤うだろうか。
硬い筒状の感触、赤く光る天井。
高田は光の失った眼で、右手を伸ばす。
天に伸ばされたのは、肘から先を失った腕。
「は……はは……」
高田は笑う。
参ったな、これでは何も掴めないではないか。
彼は笑い疲れ、力が抜けたように息を吐く。
そのまま薄ら笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。
その日、志賀城の炎は夜通し燃え続け、昼間の様な明るさを見せていたという。
明くる日になり、天守に腹に傷を負った焼死体が見つかる。
彼と語り合った男を見た者は、誰一人としていなかったという。
次回、決着。
幸綱との再会