第百四話 夜明け、終止符
お待たせしました
《晴幸》が武田陣中に姿を現した頃には、既に晴信とその他数名の護衛のみであった。
弥兵衛達も駆り出されたのだろうか。周囲を確かめつつ、晴信に帰陣を伝える。
何処をうろついていたのか。内心訊ねられるだろうかと恐れていたが、案の定問われることは無かった。
《晴幸と入れ替わる》には、少々時を要する事は言うまでもない。
多量の汗や息切れ等、入れ替わる瞬間に現れる身体の異変は傍から見ても明らか。故に姿を見せる訳にはいかなかった。
恐らく普段から姿をくらませていた為に、疑問を抱くことが無かったのだろう。
何方にせよ、晴幸や《俺》にとってはありがたいことに変わりはない。
「晴幸。此度の援軍の動きについて、何か知っておるか」
安堵の感情に浸っていた晴幸に投げかけられた問い。
一瞬驚きはしたが、何も知らない者達にとっては普通の感情だと理解する。
幸綱は首を垂れながら、口にした。
「いえ、何も」
晴信は晴幸の表情を注視する。
何も分からない、それは嘘ではない。
きっと幸綱の術を、晴幸は一片たりとも理解できていない。
己の目に、偽りは映していないはずだ。
晴信は遂に頷き、そうかと口にする。
晴幸は俯きながらに考えた。儂は何度、晴信を騙しただろうか。
いつか主君を幾度と謀った大罪人として吊られても、おかしくはないな。
「儂は、笠原を侮っていたのかもしれぬわ」
晴信の言葉に、晴幸は口を噤む。
此度、我らが常に目を向けていたのは、上杉の援軍。
武田の精鋭部隊をもってしても、これ程まで耐え忍ぶとは思っていなかった。
いや、違う。侮っていたのではない。
信濃の小国ごときに苦戦することで、気付いた事だろう。
己の力を過信していた事実に。
「殿は、誰よりも先の世を見ております。
私は、この家の行く末を見たいと、そう思っております」
晴信は晴幸を見る。そのうえ一笑いし、問うのである。
「晴幸。我等の向かうべき先は何処だ」
分かり切ったことを。と、晴幸は頬を緩ませる。
一度死んだはずの身に、訪れた二度目の人生。
天は、再び儂に《抗う》事を許した。
ならば、儂のしたい様にする他ない。そうではないか?
この男はまだ未熟だ。人の世も、何も分かってはおらぬ。
今も建前を目の前に積み上げれば、見事に食いついた。
だが、それで良い。それでも力があるならば。
此の家はいずれ、天下の脅威となろう。
その時だ、その時まで待つ。
いずれ、奴が天下に名を轟かせるその時、
それは、儂が御前を《喰らう》時だ。
晴幸は、不敵な笑みを浮かべる。
此の感情を悟られてはならない。無論、《あの男》にさえもだ。
晴幸は、己だけの感情に収めようと努めた。
「其方はこれからも、儂の側にいてくれるのか」
晴幸は顔を上げる。鋭い目を向ける晴信。
そんな彼にも、優し気な笑みを浮かべるのである。
それは家臣としての礼儀か、偽りの演技か。きっと己にしか、分からぬ事であろうな。
「殿、伝令にございます。
板垣・甘利隊、敵将十四騎、敵兵三千を討ち取り、敗走」
「……大儀であった」
気付けば、空は明るくなり始めている。太陽が上り始める時を見計らい、晴幸は陣を離れた。
途端に息を切らし、頬を流れる汗を拭う。
やはり、この身体では不便だ。
晴幸は苦しげな笑みを浮かべる。
いつかお主をも、喰らう時が来る。
其の瞬間、心臓が大きく鼓動を打った。
「......っ!」
天を見上げ、《俺》は意識を取り戻す。息苦しさが嘘のように消えてゆく。
今置かれた状況を把握し、疲労感だけが残った身体で、俺は歩き出す。
陣中には、旗差が朝の風に靡いていた。
いつか望んだ、朝日に照らされた四つ割菱が。
朝日に照らされた後ろ姿に、俺は目を細める。
赤の陣羽織が、眩しい。目前の男に、俺は神々しさを覚えた。
「其の首、全て志賀城の前へ晒せ」
彼の表情は見えなかった。
しかし、きっと彼は満面の笑みを浮かべている。
根拠はない、ただそう思えるだけだ。
八月六日
其の日は、戦に似合わない快晴の日だった。