第百三話 夜襲、決戦
【武田陣中】
「遅い、何をしておった」
「申し訳ありませぬ!
しかしながら殿、此度は山本殿より策を授かっております!」
晴信の元へ姿を現す上原達は、事の委細を説明する。理由こそ定かではないが、敵の援軍が内山峠を越え此方へ向かっている、その報告に晴信は頷いた。
彼の背後には蝋燭の火に照らされた、今にも泣き出しそうな、安堵ともいえる表情を浮かべる貞清の表情が浮かび上がっていた。
「今晩、敵は夜襲を仕掛けるやもしれぬ。
志賀城を攻め立てた者らに言い伝えよ。今宵の城攻めはここまでじゃ。
そのうえで、板垣・甘利隊を碓氷峠に配置する。
良いか各々、決して警戒を怠るでないぞ」
「「はっ!」」
一通り伝え終えた晴信は、遂に目を閉じた。
閉じたまま、不意に姿を現した疑問に問いかける。
勿論、敵の援軍の行動についてである。
援軍が突然攻撃を止めた事は勿論だが、注目すべきはその経緯と後の行動。
いくら夜襲と言えど、丸分かりすぎる。はったりだと思えてしまうほどだ。
「……晴幸」
晴信の口から思わず洩れた名前。意図せず発された言葉。
彼自身さえ、突拍子に晴幸の名が出てきた理由は分からなかった。
〈晴幸のことだ、何か知っているのかもしれない〉
彼の発言の根底にあるのは、そのような確実性の無い、淡い期待。
夜空には変わらず星々が輝く。
その中でも一層明るく光る星を眺めては、溜め息を吐く。
じきに、事が済む頃合いだろうか。
大声で士気を高める者、兜の緒を強く締める者。
一人一人が己を鼓舞する様を目で捉えながら、晴信は強く采配を握るのだった。
【志賀城内・天守】
「殿、上杉からの援軍が此方へ向かっております」
「おぉ……待ち侘びたぞ……!」
笠原は遂に頬を緩ませる。兵糧が尽きかけている今、援軍の存在は大きい。
今は日も沈み、敵の攻撃も止んでいる。この闇夜ならば侵攻にはもってこいだ。
敵に気付かれず城内へ迎え入れれば、後は此方のもの。
「良いか、丁重に迎え入れよ!
決して敵に気付かれてはならぬぞ!」
「はっ!!」
此処まで耐え忍んだ甲斐があったと、笠原は笑う。
笠原と晴信、二人は互いに勝機を見出していた。
【上野・上杉領】
「金井殿、誠に良いのか?」
「良いに決まっておろう、主様の御言葉じゃ。聞き入れぬ理由などない」
金井秀景は、虚ろな目で歩き続ける。
高田憲頼は彼を不審がる様子を見せながら、なお後を付いてゆく。
先程から、どこか金井の様子がおかしい。
元はといえば、敵将が単騎で我等の前に現れた時からだ。
突如陣に現れた血塗れの敵は、金井達の姿を見るや否や、決死の形相で襲い掛かった。
奴は決して刀を抜かなかった。幾度と斬り傷を受けながらも陣中を走り、呆気に取られていた金井の目の前で咆哮した。
「金井淡路守と御見受けいたす!!淡路守、我が配下と成れ!!」
途端に、奴は金井の頭を思い切り殴ったのだ。
鈍い音と共に、地に落ちる金井。荒い息遣いでそれを見下ろす男。
奴は何かを呟いていたようだったが、高田には分からなかった。
「み、皆の者!金井殿を御助けせよ!!」
その言葉と共に、奴は逃げる様に我々に背を向け、ふらつくまま叢へと消えていった。
奇妙なことだ。突如として内山城攻めを止めたのも、その直後である。
あの出来事から何を口にしても、《主様の御言葉だ》と、その一点張り。
「金井」
高田の声に、金井は振り返る。
彼の向ける、光を失った漆黒の瞳に、吸い寄せられる錯覚を覚えた。
闇夜の中で高田は唾を飲み、恐る恐る問いかける。
「其方の言う主様とは、誰のことを指しておる……?」
まさか、あの男のことではあるまいな。
金井は不敵な笑みを浮かべた。
「知らずとも良い。
じきに其方も、我らと同じになる」
「は……?」
其の瞬間、背後からの視線に、背筋の凍る心地がした。
振り返れば、先程まで普通だった者達が、光を失った目で高田を睨んでいた。
「何が……起きておる……」
其の瞬間、高田は激しい頭痛に襲われる。
同時に頭の中に響く、男の声。
《我が配下と成れ》
「っ!?」
その声が、その言葉が、徐々に高田の脳を埋め尽くす。
高田は顔を歪ませ、頭を抱える。
首を左右に振り、我を忘れまいと歯を食い縛る。
乾いた叫び声が、辺りを木霊した。
悲痛な声は、誰にも聞き届けられる事はなかった。
彼はそのまま膝から崩れ落ち、地にうずくまる。
周りは、沈黙のまま彼の悶える姿を見ている。
幾ら足掻いても、踠いても、叫んでも抗えない。
そうやって、皆も変わり果ててしまったのだと気づく。
望まぬ仕官。『洗脳』という名の暴挙。
欲することのない、苦痛の対価。
抗えぬまま、遂に思考回路が塗り替えられた時、高田の叫びは止まった。
彼はうずくまったまま、小声で呟く。
「主様の……御言葉ならば……」
光の灯らぬ瞳を向けながら、高田はゆっくりと顔を上げるのだった。
【志賀城北側・碓氷峠】
城の北側へ集められた兵たちは、優に五千を超える。
同じく其処で待機する、板垣と甘利。
直ぐにでも動ける様にと片足立ちで地に座り、音を立てずその機を待つ。
遠くで何かが揺らいでいるのが見え、甘利は固唾をのんだ。
揺らめく火が、彼等の待つ地へと向かってくる。
来る。
碓氷峠を超え、佐久郡の地に足を踏み入れた瞬間、板垣は立ち上がった。
「行くぞ!!板垣隊、一斉にかかれぇ!!」
板垣率いる大軍は、雄叫びと共に敵目掛けて走り出す。
一月にわたる小田井原合戦。
決戦の火蓋は、この小田井原の地に切って落とされた。
次回、夜明け