第百二話 術の、正体
「は、はっ!!」
弥兵衛は一瞬惑いながらも、猛勇さながらの目付きで応える。
彼は呆然と立ちすくんだ上原に語りかけ、俺の発言通り志賀城へ向かうよう促した。
だが、機に乗じて場を去ろうとした男を、俺は見逃さなかった。
「待て。其の方、武田の者では無いな」
俺が呼び止めたのは、最初に叢から姿を見せた男。
周りの者は動きを止め、男の方へと視線を向けた。
男は誰をも寄せ付けぬ鋭い眼差しを向ける。
俺はそんな彼に向け、してやったりの笑顔を浮かべた。
「残念だが、城はまだ落ちておらぬ様だ。
行き急いだな、上杉の間者よ」
男は舌打ちながら、何も言わず叢へと姿をくらませた。
「晴幸殿、追わずとも良いのですか?」
「良い。何方にせよ、志賀城へ向かう事には変わりなかったのだ。
それよりも、急ぎ陣へ向かえ。儂も直ぐに後を追う」
その時、馬を引き連れた男達が上原に乗馬を促す。
俺と幸綱の家臣は、夕暮れ空の下で侵攻を始めた彼等の黒い背中を、目で追い続けた。
「幸綱から頼まれたのか」
遠のく姿を見送り、俺は問い掛ける。
烏と蜩、蝉の声が耳を刺し、多少の五月蠅さを覚えた。
「源太左衛門(幸綱)様は私を呼び、これから敵陣へ向かうと申しておりました。その旨を山本殿に伝える様に促されたのでございます。
それに、何やら覚悟を決めた笑みで、〈戦を終わらせる〉とも呟いておりました」
間違いない、幸綱は術を使ったのだ。
彼の術によって敵を志賀城へと誘導した、そう考えるのが妥当だろう。ならば幸綱が術を使った相手とは、全軍に指示を出し、かつそれが聞き入れられる人物。それが出来るのは一人しかいない。幸綱は援軍の大将相手にあの術を使ったのだ。
そして、援軍が今も変わらず志賀城へと向かっているのだとしたら、現状幸綱が生きている可能性は高いといえる。何故なら主従関係とは、主君と従属が共に存在する(生きている)状況において成り立つはずだからだ。ならば術を使えるのは一人だけ(上原の術が解けたことによる)で、術の効果を受けた人間から何らかの形で周囲に伝染する、という説はまかり通る。
無論、幸綱が死に、術が独り歩きしているという可能性も考えられる。俺が第三の術で視た幸綱は、少なくとも自身の術に慣れた様子ではなかった為、もし術が複数人に併用できるもので、幸綱自身が術の解き方を知らなかったのだとすれば、既に死んでいるという説もあり得る。
ただ、それは隣に佇む男に聞けば良いだけの話。
それだけだ、それだけなのだが、俺にはそんな勇気が無かった。
この男の態度は本心からか、それとも装ったものか。そういうのも、幸綱ならば瞬時に分かるのだろう。
俺の見せた笑顔すらも、所詮は気休め程度のもの。
本当は、不安でたまらなかった。
「……一つ訊ねても良いか」
俺が幸綱の安否を聞く前に、訊ねたかったこと。
彼の術は、相手の身体に触れる事が発動条件。
ならば如何にして、敵将の身体に触れることが出来たのか。
俺は訊ねる。幸綱は、誰と敵陣へ向かったのかと。
「いくら私が諫めようと、無駄にございました。
あの御方は、たった一騎で敵陣に向かっておりました。
味方を散らばせ、戦乱の最中に紛れつつ、馬を走らせておりました。
〈ここで死ぬ儂ではない〉と、そう言い残して」
「幸綱は……幸綱は、無事なのか……?」
「御安心くだされ。
もし無事でなければ、私は此処におりませぬ」
全身の力が抜けた。強張っていた身体が、微かに震える。
大きく息を吐いた俺は、笑い出す。
「あやつに伝えておけ、其方は誠の愚か者だと」
俺は笑いながら、天を仰ぐ。
幸綱はたった一人で、正面から敵陣に突っ込んだのだ。
〈このような場所で死ぬ儂ではない〉
俺の術を信じて、ただ無心に馬を走らせていたのだ。
零れそうな涙を、抑えようと必死だった。
陽が沈む。俺の背に、微かな寒気を感じた。
身体が火照り始めるのを感じ、俺は汗ばんだ拳を握る。
これで、俺達の役目は終わった。
後は任せたぞ、晴幸。
そう己に言い聞かせながら、
俺は静かに目を閉じるのだった。
第三章、いよいよ終盤へ