第百一話 迷走、確信
数刻前
「殿、我が家の城は……!」
内山城が敵の援軍の攻撃を受けているという事実は、大井貞清の耳にも届いていた事は言うまでもない。
戦火を避け、自陣に赴く貞清の目は真剣そのもの。
襲撃を受けた痕跡を残す泥塗れの貞清を目前に、晴信は脇息に肘をつく。
ついたまま、何を語ることもない。
勝手に持ち場を離れたことを、晴信は言及しなかった。貞清が此処へ赴くことになったのが、起こるべくして起こった出来事だと知っていたからだろう。
大井家が数代に渡って守り抜いた内山城が危機的状況に追い込まれているこの状況から、目を背けることが出来ない彼の心情を、少なからず晴信は理解していた。
ただ同様に、貞清の為に用意された言葉など、晴信には持ち合わせていなかった。
それはつまり、晴幸が内山城へ向かっていること以外は分からない、現在起こっている状況を把握しきれていないという事を意味している。
心苦しさを覚えながら、たった数文字の言葉を言い伝える方法を模索する。
晴信の目は遂に宙を向いた。瞼で日差しを遮り、言葉を整理する。
当の貞清も、薄々は気付いていた事だろう。
徐々に目を細め、地を向く貞清。その様子に、周りの者は一種の不甲斐無さを覚える。
板垣と甘利達は未だ、志賀城攻略へと至っていない。晴信は眉に皺を寄せる。
武田陣中に、暗雲が立ち込めていた。
【晴幸隊】
「何を……」
男は苦笑する。また俺の中で少しずつ、理論が融解してゆく。
此れまでの経験からして、城が落ちれば敵将に一早く報告をする為に狼煙を上げていた。
しかし、此度はそれがない。単に自分が気付かなかっただけという可能性もあるが、例えそうだとしても、周りの者が言及しない筈が無かった。
いや、単なる杞憂かもしれない。
しかし、己の勘というものはこういう時に限って当たる。
「……姿を現せ、晴幸」
俺は目線を外し、俯きがちに呟く。すると背後から俺の肩を組む男。
良い勘を持ち始めたな。そう囁く本物に、俺は息を吐く。
「……頼みがある。
儂が志賀城へと向かう間に、内山城の様子を確かめて貰いたいのだ」
「悪いが、それは出来ぬ」
あまりの即答さに、俺は目を見開く。
晴幸によると、俺の身体から五十歩(約百メートル)以上離れる事は不可能らしい。
それ以上離れようとしても、俺のいる方向へ働く〈見えない力〉によって動けないのだという。
「忘れたわけではあるまい、儂とお主の身体は一心同体じゃ。下手に引き剥がそうとすれば、命の危険もある」
「不便な身体じゃな……」
「それよりも決断を急がねば、どちらの城も危ういぞ。晴幸殿」
こういう時だけ他人面か、と俺は小さく溜息を吐く。
内山城の件は、貞清の耳にも届いているはず。やはり俺は、貞清にひどく情を移しているのかもしれない。だがそれは味方ならば当然のことだと、俺は思いこむ。
二方向に動けない今、二つは選べない。
慎重であればあるほど、危うくなる一方だ。此れも全て、敵の策略の内だと考えるのは愚策か?
「上原殿、直ぐに志賀城へ!このままでは危のうございます!!」
上原は迷っている。恐らく一番の要因は決断を渋った俺にあるだろう。
無理もない、俺でさえ何が最善の行動か分からないのだ。
その時、再び叢から葉を擦る音がした。
「申し上げます!!」
途端に草むらから現れた男に、俺の後ろに控えていた弥兵衛は目を見開く。
「其方は……!」
「......知っておるのか?弥兵衛」
「は、真田殿の御付きの者にございます!」
「幸綱の家臣か……?」
男は鋭い眼差しで俺を見る。
「山本殿、敵勢は内山城への侵攻を止め、内山峠へと向かっております」
「何だと……?」
進行を止めた?いや、幸綱の家臣の発言ならば信用できる。
ならば、先程の男の発言は?
其の瞬間、俺の中で論理が結びつき、一つの結論が浮かび上がる。
「......そうか、やりやがったな幸綱……!!」
「山本殿......?」
俺は笑みを浮かべ、弥兵衛の名を呼ぶ。
「弥兵衛、これより策を講ずる!
上原殿と共に陣へ向かい、殿に申し上げよ!
攻撃は続行、ただし並行して兵を城の北側へ集めると!!」
俺は剛気の目で笑う。
勝利は目前に迫っている。
この時、俺はそう確信した。
俺の笑みの意味とは
そして、幸綱の生死は如何に