第九十九話 幸綱という、男
幸綱は答えない。
黙ったまま、表裏なき表情を現す。
何をしたのかと口に出す必要など無い。沈黙の中で俺は察していた。
「何も言うな、晴幸殿」
嘘偽りのない瞳を向けながら、幸綱は薄ら笑みで遠方を見る。
其処には霧が晴れる様に大木が現れ、上原伊賀守がその下で眠っていた。
間違いない。上原は幸綱の持つ術の影響を受けている。
俺は唾を飲み、胡坐をかき眠る上原を黙視する。
心地良さ気な寝顔が、俺の中に奇妙な感情を植え付けた。
此の男の持つ第三の術。大体の察しは付いている。
全貌こそ定かではないが、上原の異変を見れば、敵に回すと厄介な術であることは確かだ。
幸綱はゆっくりと上原の許に歩み寄り、肩に手を置く。
「......っ!」
途端に上原の身体が反応し、険しい顔を浮かべ始める。
息を荒げ、次第に大量の汗が吹き出す。唸り声を上げる上原に囁く幸綱。
「……其方が苦しいのは百も承知じゃ。ただもう少しで良い。
儂に従ってくれ、伊賀守殿」
歯を食いしばりながらも、上原はこくりと頷いた。その様子に俺は気付く。此処で起こって居る事が、恐らく上原を縛り上げている術の正体なのだと。
心では抗おうとするも、身体では抗うことができない。
それは、一種の拷問に近似した、服従の形。
ただ、その苦しさは一方的なものではなかった。
上原を縛り付けている幸綱も、同じように贖罪に縛られているのだ。
望んでもいない服従を誓わせ、かつ不幸へと陥るのが己自身であるとは、何と酷なことか。
「......此れまで如何程の人間が、其方への服従を誓った」
「そんなもの、数え切れぬわ」
手を放せば、上原は何事もなかったかのように眠り始める。
「其方は、何故武田に参ったのじゃ」
「……史実上の行為であると申せば、納得するか」
訊ねられずにいた問いの答えは、この通り至極単純なものであった。
ならば少なくとも、この時代へ飛ばされる経緯だけでも訊ねておきたいと思った。
幸綱は語る。
その日、彼はいつも通り自室のベッドで眠っていた筈だった。
しかし、暑さと煩さに目を覚ませば、床に仰向けで倒れている。
気付けば、辺りは合戦の真っ只中であった。
当人さえも詳しくは語ろうとしない。
ただ七年の月日を経た今も、己が得た力を恐れている事を自白する。
術を使えば、誰かが不幸になる。
俺にとっても、幸綱にとっても同じ。最も苦しい思いをするのは、決まって自分自身だ。
天を突き破らんとするかのように、大木は伸び続ける。
俺は見上げる。力強く伸び続ける様子は、まるで己の力を抑えられずにいる幸綱自身の心にも思えた。
理解を示す必要などない。
この木の成長を促す為に、俺は何をすべきか。
転生者である俺が、誰よりも理解できる筈だった問い。
今では、その道筋さえも見えなくなっている。
俺はふと我に返る。
草の生い茂った地面に向け首を垂れた俺は、気配を感じる。
見上げれば、《目前の存在》は俺目掛けて刀を振り上げていた。
「晴幸殿っ!!」
後方からの声。ただ俺は目を逸らさなかった。
逸らさぬまま、何もしない。
目の色を変えた上原を、俺は一心に睨む。
この術は伝染する。
主となる一人から、何らかの理由で周りに影響を及ぼしている。
そんな彼等には、術を逃れる一切の猶予も与えられない。
為す術のない彼等の苦痛を理解しているのは、この場で俺だけだと知っている。
上原は葛藤している。味方を殺したくはないと、心の内で叫んでいる。
「どけと......っ、申しておろうが......あ゛......っ」
其の瞬間、上原の身体が硬直した。
目を見開き、数秒間の硬直の末、ゆっくりと辺りを見回す。
「......ここ、は......?」
上原は自身が刀を握っている事に気付き、驚嘆する。
そのまま手から滑り落ちた刀は、軽い音を立てながら地に落ちた。
後方に立つ男達も、この状況を呆然と眺めていた。
俺は眉をひそめたまま、悟る。
なんだ?術の効果が切れたのか?
いや、違う。内山城で、何かが起きたのだ。
次回、百話目。
次回更新は木曜日以降となる見込みです。もう少しお待ちください。