第九十八話 異変、脱却策
あけましておめでとうございます。
本年も武田の鬼を、宜しくお願い致します。
赤く燃えた空と、並ぶ月。
伸びる二つの影法師を先頭に、蠢く者達。
見上げる先に、聳え立つ堅城。
秀景は唾を飲む。
これが正しい選択だと、胸を張って言えるだろうか。
目指す先を見失ってはいやしないか。
本来の目的を貫くべきだとしたらと、仮説を立てる。
己に問い質したが、直ぐに馬鹿らしいと棄却した。
たとえ仮説を立てた所で、論理的な筋道を立てようともしなかっただろう。
己の決断を間違いといえる、元からそんな勇気はなかった。
何時でも己を信じたいというのは人間の性だと、そう思いたがるのもまた同じ。
「忍びによれば、一刻程前に数百もの兵が城を出たとの事じゃ、今こそ攻め時でござろう」
高田の笑みは止まらない。
気味の悪さを覚えた。目につくのは、高田の目的。
己自身の利にもならない事を秀景に薦める彼の思惑を、どうにも捕えられずにいた。
遂に秀景は問う。其方は儂に何をさせたいのかと。
「儂は唯、殿のやり方に疑問を抱いておっただけじゃ、其方もそうであろう?」
高田は一言、それだけを呟く。
確かにそうだ。だが《それだけ》では、利を捨ててまで行動する理由の説明には至らない。
他に何か企んでいるのか。そう思いつつ、秀景は訊ねることが出来なかった。
たとえ疑心を持ったとて、相手は仲間同士。きっと此れ以上の追及に意味は為さない。
合理的な解釈の末に、秀景は納得したような頷きを見せた。
「我等の戦、ここにあり」
その高田の言葉と共に、秀景は咆哮し、采配を振るう。
大軍の雄叫びを聞き、走り出す者達の背を見る。
雑念は捨てた。正解の出ぬ問いを続ける必要はない。
こうなった今、目前の光景に集中するしかない事は、彼にも分かっていた。
【内山城】
「大軍が此処へ来る為に通る、いや、通ることが出来るのは内山峠のみじゃ。
よって此処に残る兵を三つに分け、そのうちの二つは峠の麓で待ち伏せることにする。
峠から城までは少しばかり距離がある。半刻耐えてくれればよい。後は儂に任せよ」
何をする気だと、口にする者。
額に汗を浮かべる幸綱は、強かな笑みを浮かべた。
「我等がこの戦を終わらせる……!良いか、半刻耐えれば我等の勝ちだと思え!」
考える隙を与えなかった。途端に一人の男が立ち上がり、辺りを見回す。
「新参者に指揮を取られるのは釈然とせぬが……こうなりゃ信じるしかねぇ!皆、行くぞ!!」
其の言葉に応える様に一斉に立ち上がった男達は、城内を叫び歩く。
この人数差では、半刻耐える事すら難しいだろう。
だが、我等は大井貞清の守り続けた内山城を、易々と渡す訳にはいかなかった。
誰もいなくなった天守に、唯一人立つ男。
此れは、一種の賭けだ。
彼はゆっくりと歩み出した。
【山本(晴幸)隊】
「あれは……!」
陣を離れ南下し、山道を歩む俺達は、遠方に小さな影を見る。
四つ割菱の旗刺しを見て確信する。あれは上原伊賀守率いる軍勢に違いない。
「伊賀守殿、此処まで来て貰い申し訳ないが、直ぐに城に御戻り下され。
今、内山城が敵に……」
そう言いかけ、俺は気付く。
いや、俺だけじゃない。その場にいる誰もが気付いていた。
目前の男から漂う、まごうこと無き違和感に。
「……其処をどけ」
「は……?」
俺は固まった。
上原は体勢を低くし、自身の腰刀に手をかけている。
「……何を、しておる?」
俺は何が起きているのか、理解が追い付かなかった。
明らかに正気を失った目。仲間の誰も、止めようとはしない。
いや、上原が率いる者は皆、同じような目で俺達を睨んでいた。
「これはすべて《主様》の命じゃ。邪魔する者は構わず斬る」
「主様……だと?」
おかしい。この男にとっての主は、晴信に違いないのだ。
しかし、当の晴信は命令などしていない。彼の言動は矛盾している。
「晴幸殿……これは様子が変ですぞ……」
俺は上原と目を合わせながら、小さく頷いた。
彼らに何が起きているのか。聞かずとも知る方法はある。
俺はごくりと唾を飲み、その時を待った。
「どけと申しておろうがっ!!」
「っ!」
そう言って刀を振り上げる上原。
俺は瞬時に膝を曲げ、刀を引き抜く姿勢を取る。
横方向の攻撃を予測した上原は、動きを止めた。
「ぐ……!」
刀から手を放した俺は、上原に向け思い切り腕を伸ばし、微かに鎧に触れた瞬間に術を発動する。
途端に風が吹き、俺は光に包まれ、そのまま前方へと倒れた。
先程とは打って変わった、真白の世界。俺は大きく息を吐き、起き上がる。
目前に立つ一人の男。俺は彼を睨みつけた。
「其方の仕業か、幸綱……!」
其処には、無表情で立つ幸綱の姿があった。