第九十六話 孤独、進行
幸綱が内山城を訪れる数刻前。
上野から出陣を為した援軍は、列を為し山道を進んでいた。
「……まさか、籤引きとはなぁ」
上杉家家臣、金井秀景は男を横目に手綱を動かす。
目指すは唯一点のみ、大軍は歩む速度を落とさない。
此度の憲政の決定に反論の余地を与えられなかった業正は、一人城に残る。その中で告げられた突然の決定に急遽籤引きが行われ、先鋒に選ばれた上杉家家臣、倉賀野為広の名代として、彼の家臣である秀景が援軍を率いる事となったのである。
生ぬるい風が、木々を揺らす。
統率する秀景の心情から溢れ出す不安を、彼は決して口にすることは無い。
長丁場となりつつある戦に、長野業正の出陣拒否。当に《あの時》と似た状況。
其れこそが、秀景が抱える不安の正体である。
「そう言えば、内山城が武田の手に落ちた様じゃな」
明後日の方向を向く男の瞳に映る、内山城の姿。
峠(山頂)となる地を踏みしめた男と秀景は立ち止まった。
「あの城、我らが奪えばどうなる」
「それはならぬ。
笠原殿の援軍として参った我らが奪えば、両家の関係に溝が出来てしまう」
「ならば笠原家が城を奪い取る様を、黙って見ておれというか」
突然の声色の変化。男の言葉に生じる違和感。
それは秀景の中に芽生え、次第に大きくなってゆく。
「我等の身を守る事こそが、第一であろう」
「高田、殿?」
その男、高田憲頼は不敵な笑みを浮かべていた。
好機だ、此れ以上の好機は無い。
今、敵の目は志賀城に向いている。ここで笠原殿の口を塞ごうが塞ぐまいが、我々は最小限の被害で城を得られるのだ。
「まさか、初めからそのつもりであったというか」
「全て、業正殿の言葉じゃ」
業正。その名に秀景は口を噤む。
出陣前、業正は高田に言い伝えていた。
此度の戦は、我が身を守ることに専念すべきだと。
〈其方も思うていたのではないか?〉
高田の言葉に、秀景はひどく動揺する。
「どうする、金井殿。
此処で奪えば、其方が城主よ」
城主。鎧を纏う身体にじとりと汗が滲み、秀景は拳を握る。
「如何致しましたか、金井殿」
後方に続く大軍から発される声。
それを遮断するかのように、秀景は俯く。
(この男の言い分も、一理ある)
そう思った、いや、そう思い込もうとした。
丁度いいのかもしれない。此度の憲政の決定に、疑問を感じていたのは確かだ。
秀景は再び城に目をやる。
規模の小ささに反した壮観さが、彼の心を打つ。
あの上に、立てるならば。
秀景は振り返る。数千の兵を眺め、その壮大さを実感する。
今、秀景は皆の命を抱え、此処に立っている。
その命を救うも救うまいも自由だ。そうだろう?
秀景は決意した様に、大きく息を吸った。
「我らの目指すべきは内山城!皆の衆、今戦、勝ちたくば付いて参れ!!」
一瞬の咆哮の後、秀景たちは突如として進路を変え始める。
彼等の矛先は、内山城へと向けられていた。
【内山城天守】
「それで、真田殿……先程は何を……」
「いえ、大したことはしておりませぬ」
内山城の守護を任された幸綱は、指示通り城内に残る。
そんな幸綱は唯一人、〈居心地の悪さ〉に襲われていた。それは此処に残る者が、己が見せた行為に対して動揺を隠せていない事からも分かる。転生者以外に術の説明が出来ない以上、所謂《危ない》奴だという印象を持たれるのは当然だろう。
術を使わずとも、そう思われている事は自明。
この術を使う度に、己の孤独さを痛感する。
相手を掴まずとも術自体は発動できるのだが、その効力は微々たるもの。
〈頭に触れる〉ことこそが、最も術の効果を生み出すというのは、過去の経験から明らかなのだ。
仕方がないとしても、やはり使うべきでは無かったか。
他人の思考を操作出来ることが、どれ程恐ろしいことかを理解している自分にとっては、至極厄介な力でしかない。
そのせいで、私はー
幸綱は首を振る。
忘れろ。ここに来るまでの事は、全て過去に葬ってきた筈だ。
幸綱は忘却に縋ろうと務めた。
その時、天守に一人の男が飛び込んでくる。
「お伝えします!!
敵の援軍が、内山城に向かっております!!」
「っ!?」
突然の報告に、城内に残る者は動揺を露わにする。
当の幸綱は、その言葉に立ち上がった。
「......それは誠か?」
「は!急遽、志賀城から進路を変えた模様!」
どういうことだ、此れ程の防衛線を引いたというのに。
もしや、此方が手薄なのを敵に知られたか?
いや、そんなことはどうだって良い。
その言葉が本当なら、間違いなく我等は総崩れだ。
幸綱は眉に皺を寄せる。
考えろ、どうすればいいか。
「真田殿!!これはどういうことだ!?
援軍は来ぬと申したではないか!?
どうしてくれるのだ!このままでは我等は全滅じゃ!!」
一人の男が幸綱の前に立ち、怒りの表情を見せる。
幸綱は何も言えぬまま、歯を食いしばる。
その通り、内山城に援軍は来ない。
それが史実通りなら、だ。
そこにあるのは、史実と異なる現実だけ。
次回、幸綱の決断。