僕の名前はマリスヴェル
僕は『オドロの森』で師匠の言いつけ通り、修行――今日の夕飯にするため――の狩りをしていた。
届かない陽光、手を伸ばしても絶対に届かない葉っぱの天井、仄暗い森の底、僕がいるのはそんな場所だった。
一見すると、生き物なんていなさそうな森の最深部だけれども、それは大きな間違いで僕が知っているだけでも、百種以上の生き物たちがこの森の最深部に暮らしている。
例えば、暗闇にしか生えない花や、木々の間をランタンの光のように浮遊する大きな蝶、サルもいれば、狼もいる。
よし、今日の夕飯はあれにしよう。キツキザルは食べる部分は多くないけれど、それでも僕と師匠分が食べられる量はある。
それに、キツキザルは耳が良い分、大きな音を鳴らされるとびっくりして気絶するから、ゆっくりと近付いて魔法で大きな音を出せば簡単に捕まえられる。
僕は早速忍び足でキツキザルのいる木に近付くと音響魔法を、サルの近くで炸裂させた。大きな破裂音が森林内を木霊し、ややをしてサルが落ちてきた。
ナイフを抜いてサルに止めを差す。大して重くないため、背負うことにした。
「これで今晩のご飯はバッチリだ。後は薬草と幾つかの木の実を採取して……と思ったけれど、薬草も木の実もこの辺りには無いから少し遠出しないといけないな」
具体的には、『オドロの森』の出口付近、陽光の届くところまで行かないといけない。
僕は、ポケットから師匠がくれた眼帯を取り出し、左目に着けた。師匠が言うには、僕の左目は人に見せてはいけないらしい。そして、人に出会ったら何も聞かず、何も答えず、黙って逃げること、と念押しされたことを思い出した。
理由を聞いても教えてくれなかった。
まあ、師匠が言うのだから間違いはないはずだ。僕はあまり深く考えずに森の出口へ向かうことにした。
森は出口に近付くとすっかり明るくなった。薄葉に透かした太陽が木陰を作り、木漏れ日が揺れ動く。生えている木も背丈が小さくなり、僕でも登れそうなものが沢山あった。
あちこちに生き物がいるせいで自慢の耳が役に立たなかったけれど、まあ僕には目がある。右目だけでも十分だ。
……十分だけど、僕はどうしても不安を取り除くことが出来なかった。誰かに見られたらどうしよう、きっと僕みたいな子供が、一人でそれも森の奥にしかいないサルを担いでいたら怪しまれるに違いない、とびくびくしていた。
だから、背の高い葦に囲まれた沢で薬草を採取していたとき、後ろから水を掻き分ける音が聞こえたのには、心臓が飛び出るほど驚いた。採取した薬草と木の実を取り落とし、それを拾おうと足を滑らせて沢に落ちてしまった。
「そこにいるのはだあれ?」
僕の立てた水音に暢気な問いがかけられる。
「あっ、えっ――」
逃げないと!
僕は師匠の言葉が脳裏にありありと浮かんだ。
ざぶざぶと誰かがこちらに近付いてくる音がすぐ向こうの葦の影から聞こえてくる。
立ち上がろうとしても、水底の滑りに足を取られて上手く立てない。何とか立ち上がって沢の淵に足をかけたとき、僕は背負っていたキツキザルが沢に沈んでいることに気が付いた。急いで沢に飛び込んでサルを引き上げる。
「なんだよまったくもう!」
思わず口をついた悪態に反応して、葦の向こうの人影がクスクス笑った。
「男の子? あなたもここで遊んでいるの?」
ひょっこりと葦の隙間から顔を出したのは、僕と同じくらいの年の、腰まで届きそうな真っ赤で長い髪で、体にワンピースがぴったりと張り付いた、大きなくりくり両目の、笑顔の似合う人間だった。
この日、僕は初めて師匠以外の人と出会った。それまで師匠に聞いていた恐ろしい人とは違って、この沢の水と同じように透き通るような何かを感じた。
けれども、僕は師匠の言いつけを守れなかった罪悪感と、聞かされていた人間像と実物との乖離に気が動転してしまって、すっかりパニックに陥っていた。
「し、師匠が……! 人と話しちゃ駄目だって……」
「師匠? あなたの? それにその目はどうしたの?」
「に、逃げないと……逃げないと師匠に怒られる……!」
引き上げたキツキザルを背負って、その辺りに生えていた薬草を何本かひっ掴み、慌てて逃げ出そうとした。
しかし、僕の裾をその人間はしっかりと握っていて、僕は逃げられなかった。
「ねえねえ、その目はどうしたの? 怪我したの?」
「え!? これ? 怪我じゃないよ。見られちゃいけないから師匠が着けなさいって……あっ! 他の人間と話しちゃいけないんだった! どどど、どうしよう。師匠に怒られる!」
「どうして目を見せられないの? 君、面白いね。名前は? 何処に住んでるの?」
初めて見る人間は、たじたじの僕に沢山質問を投げ掛けた。でも、師匠の言いつけで頭が一杯の僕は、大きなくりくり両目の人間から少しでも距離を取ろうと後退りしていた。
向こうもそれに気付いているようで、僕が下がった距離を正確に詰めてくる。僕らは奇妙な躍りを踊っているようだった。相変わらず、にこにこ笑顔の絶えない人間は僕の左目をずっと見ていて、僕はとっても恥ずかしかった。
そのとき、遠くから誰かの声が聞こえた。
「おーい、お嬢様? 何処に行かれたのですかー? 奥の方まで行くと危ないですので帰ってきてくださーい」
しめた!
どうやら、この人間を呼んでいるようだ。くりくり両目の人間が向こうを向いた隙に、僕は脱兎の如く駆け出した。濡れた服が張り付くのもそのままに、キツキザルを背負い、薬草をポケットに突っ込んで、木の実は……あれは諦めよう。
兎に角、僕は逃げ出すことに成功した。多分、師匠には怒られるだろうけれど、でもきちんと逃げることが出来た。
僕は脇目も振らずに家を目指した。徐々に周りの木々の背が高くなっていき、陽光も届かなくなった。ほとんど暗闇だったけど、へっちゃらだった。
師匠と僕の住む家は、『オドロの森』の一番深くて誰も知らない、葉っぱの天井が一ヶ所だけぽっかりと切り抜かれた、ドーナツの穴みたいな所にある。
師匠が昔、ここに住んでいたドラゴンを手懐けて譲り受けた場所だと言っていた。そのドラゴンは何処に行ったのかというと、しっかりと我が家の門番として仕事をしてもらっている。
いつもは寝ているだけだけれど、時々眠そうに起きて僕の遊び相手をしてくれるので、僕はこのドラゴンが大好きだった。
僕の家は別に大きな物じゃあない。僕と師匠の二人が暮らすのに丁度良いくらいの大きさの家だ。蔦に覆われたレンガの壁、いつ作ったのかもよく分からないくらい苔むしてボロボロになった日陰のベンチ。側に大きな木が立っている。
師匠が言っていたんだけど、ここに引っ越してきたときはもっと酷かったんだって。ドアとか窓の蝶番なんて、錆びて押せば向こうに落ちたって言っていた。
おんぼろの家だけど、僕はこの家が堪らないくらいに好きだった。くすんだシーツのカビ臭さとか師匠のローブの臭いがしたし、地下室で僕の背丈よりも高く積み上がった書物の間をすり抜けるのは、冒険しているみたいで楽しかった。
僕は全身びしょ濡れのまま家に飛び込んだ。
「師匠! 師匠! 僕、人と会った!」
「おお……お帰り、マリスヴェル。そんなに慌てて何事じゃ?」
師匠は、居間のテーブルで虫眼鏡を使って大きな魔導書に書かれた小さな文字を読んでいた。
「だから、人間に会ったんだって! 真っ赤な髪がこーんなに長くて、くりっくりっのまん丸両目の人間だった!」
僕が身ぶり手振りであの人間のことを伝えると、師匠は静かに虫眼鏡を置いた。
「きちんと言いつけは守ったのか?」
「ええーと……服を掴まれて……それで色々聞かれて……」
「答えたのか?」
「少しだけ……」
師匠の眉がみるみる内に吊り上がり、しわしわの手が白くなるほど握り込まれた。
怒られるっ……。
僕は目を瞑って肩を縮こまらせた。
けれども、師匠の雷はいつまで経っても落ちてこなかった。薄目で師匠を見ると、苦笑しながら長い顎髭をしごいていた。
「お、怒らないの?」
「ああ……怒らん。怒ろうと思ったが怒れん。わしはお前さんのためを思って言い聞かせてきたつもりじゃった……じゃが、その顔を見るにどうやら間違いだったようじゃな」
「どういうこと?」
「桶に張ってある水でようく見てみい」
僕は、言われた通り台所の側に溜めてある桶を覗き込んだ。そこには、によによとほっぺたを緩ませた僕の顔が映っていた。
「あれっ? 僕……」
どうして笑っているのかわからなかった。僕は今まで人を怖いものだと教えられていたから、笑っている理由が思いつかなかった。つねってみても、つついてみても、つまんでみても分からなかった。
多分、理由になりそうなのはあの赤い髪の人間だけど、それでもあの人間がどうして僕を笑顔にさせたのかはさっぱりだった。
「これは……僕の人生の中でも最大級の謎かもしれない」
「ふぉっふぉっふぉっ、それはどうかのう。お前さんは、たった十三年ぽっちしか生きとらんのだから、そう決めつけるのは早計じゃなかろうて?」
「早計?」
「気が早いということじゃ」
「なるほど……早計、そうけい。僕は早計なのか……じゃあ師匠の人生で一番の謎は何?」
「わしか? そうじゃのぉ……わしの一番の謎は何じゃろうなぁ?」
ふざけてしてみた質問だったけれど、師匠は思いの外真剣に悩んでいた。確かに師匠みたいに長生きしている人は僕と違って難しいのかもしれない。
「師匠はいくつなの?」
「何じゃ藪から棒に。わしは今年で……今年で……うむ、忘れた」
「でも、そんなに長生きしてたら、謎も沢山ある筈でしょ?」
「それもそうじゃな、ふぉっふぉっふぉっ。のおマリスヴェルよ、今晩の夕飯は何じゃ?」
「今晩はキツキザルの肉団子だよ! それと薬草のお浸しに堅焼きパン」
僕は床に放り出されたままのキツキザルの体を拾って、一度家の外に出た。これからこのサルを捌くのだ。サルを側の木に逆さまに磔にし、師匠からもらったナイフを抜いて、まず首を落とす。
師匠が窓からひょっこりと顔を出した。
「おうい、マリスヴェルや。明日から本格的に魔法と剣の修行を始めるぞう! よいな!」
「えええっ!? 藪から棒にどうして!?」
「何となくじゃ!」
「そんなぁ……」
師匠は気まぐれな人なのだ。
こうなった諦める他ない。
僕は溜め息を吐いてキツキザル解体に戻った。