プロローグ その三
プロローグはここまでです。次回から本編になります。本編は今のところグロデスクな表現はないので、ご期待に添えない方がいらしたらごめんなさい。
「おい、勇者よ。お前はいつから芋虫に称号を変えた?」
「……」
死屍累々、阿鼻叫喚、地獄絵図。この場を言い表す言葉はそれで事足りた。その中で勇者を見下ろす魔族の少女と、女囚の産んだ赤子を目指す勇者の少年は、悲しくなるほど絵になった。
「哀れな勇者よ、そのような手足で何処へ行こうと言うのだ?」
「……」
砕かれた手足は動かない。それでも勇者は女囚の産んだ子を目指して、芋虫になっても這い続ける。
「おい、無視をするな。余は何処へ行く? と聞いておるのだぞ? お主は勇者だから多少の無礼は許してやろうと思うが……三回目はないからな?」
「……」
「ほう……中々いい度胸だ。流石勇者なだけあるな。余の威圧をものともしないとは……だが、そこまでだ」
少女は手から氷の槍を創り出すと、勇者の折れた足に突き立てた。
「うがあああぁ!」
「おお……いい声で哭くのだな。流石勇者だ。それで? 何を目指している?」
「……誰がお前なんかに……!」
「その反抗心……! 実にそそられる。存外、勇者というものは魔を討ち滅ぼす者ではなく、誰にも屈しない不屈の精神を持っている者のことを指すのかもしれんな」
「……うるさい! 早くこの槍を抜け!」
「…………」
少女は勇者の頭を踏みつけた。恐ろしい力が加えられ、彼の頭骨が悲鳴を上げる。それでも勇者は歯を喰い縛って、女囚の産んだ赤子から目を離さなかった。
「今のは腹が立った。余としたことが、たかだか勇者の言葉に腹を立ててしまった。すまない。だが、お前も悪いのだぞ? さっさと言わないからこうなったのだ。それで? お前の先にあるのは女の死体だけ。そこに何かあるのか?」
少女は勇者の頭から足を離すと、つかつかと女囚の死体の元まで来て、感嘆の声を上げた。
「おおおぉ! これは……! 何とも! お前はこれを目指していたのか!」
「……その子に触るなぁ!」
勇者は半濁の瞳を必死に開き、外れた間接が、折れた手足が悲鳴を上げようとも一切耳に貸さず、子を守るという執念のみで少女の元まで這ってきた。
「……その子触るな!」
「余に命令するな……と言いたいところだが、面白いものを見せてもらったお礼だ。今のは不問にする」
「……その子から離れろ」
「イヤだ。余はお前と話がしたいのだ。この赤子がそれを邪魔するのならば、まず最初にこの赤子を殺そう」
その瞬間、勇者の怨嗟の感情が爆発的に大きくなり、それに驚いた少女が半歩後退りした。
「その怨嗟! やはりお前のものか。ではこうすればどうなる?」
少女は赤子を踏み潰そうと片足を上げた。
「……や、めろ……!」
膨れ上がった怨嗟は『蝕み』に変化し始めた。勇者の背後に薄暗いオーラが出現し、それは徐に広がっていく。しかし、少女は『蝕み』を意に介することなく、手の一払いで吹き飛ばしてしまった。
勇者は倒れ伏した。
「ふうむ、そこまでしてこの赤子を守りたいのか? 何故だ? 何故なのだ? お前の美味そうな怨嗟の感情を喰らうつもりでいたが、その前に気になることが出来た。どうせこの赤子は何処の誰ともわからない輩に孕まされたものであろう? お前がこの女を愛していたのなら、寧ろ殺せと懇願すると思うのだがな」
勇者は答えない。
「この赤子にはどんな意味がある? 死にかけているんだぞ? いいか? 死にかけだ。へその緒も切らず産湯にも浸けてもらえない孤児だ。親はここに死んでいる女であってお前ではない。それをどうして守ろうとする?」
勇者は答えない。
「まさか、愛していたからこそとは言うまいな。女を愛していたのだから、その子も愛すとは言うまいな?」
勇者は答えない。
「おい、勇者よ……」
勇者は答えない。
勇者は答えない。
勇者は答えなかった。
「これではお前の美味そうな怨嗟の感情が喰えなくなるではないか」
少女は、勇者の今にも消えそうな魂を抜き取ると、何処から取り出したのか真っ黒な茨のランタンの中に仕舞い込んだ。
「ここに入っておけ。お前の怨嗟は失うには惜しい。しばらく療養し回復したら余が頂くとしよう」
ランタンの中の魂は淡い蛍の光のように飛び回り、赤子の方へ行こうと何度も何度もガラスにぶつかった。時に暗く、時に目映く輝く勇者の魂は、蛍の光のように何度見ても飽きない不思議な輝きを持っていた。
「なあ、勇者よ。お前の魂は実にいいものをしている。怨嗟に駈られ『蝕み』を撒き散らすより、ここでじっくりと熟成させるのだ」
通常、魂は明滅などせず一定の輝きを持っている。人となりでその光度は変化し、聖人なら目も覆い隠すようなほど強い光を発し、一般人なら少し暗い程度の光を発する。勇者は魂を『蝕み』によって侵食されているので、このような明滅が起きるが、これは尋常ならざることなのだ。
魂は人間に限らずあらゆる生き物の最も純粋な『生』の証として象徴される。これが無くなれば死に、これが吹き込まれれば生きる。
一方で、『蝕み』は魂を侵食し不純なものに変える。これに侵食された者は、生死の概念の外に弾き出され、『蝕みの王』の従僕として第三の状態に置かれる。つまり、『蝕み』に侵された者は生きても死んでもいない、生ける屍になるのだ。
では、勇者はどうなるのかというと、『蝕み』の侵食に抵抗していた。故に勇者の魂は明滅する。苦しみもがく。勇者の高潔さと『蝕み』の不浄さ、それらが相克しあいのたうち回る。
魂という最も脆く無防備な状態でのそれは、決して常人には出来ない。
「さて、この赤子はどうしてくれようか。余の目的はこの怨嗟なのであって、赤子などどうでもよい……しかし、この勇者がこれほど執着しているところを見るに、相応の意味がありそうだ。なあ哀れな勇者よ。お前はただの子煩悩ではあるまい?」
茨のランタンの中の勇者の魂は、ガラスを破ろうとコツンコツンとぶつかる。赤子の元へ飛んで行こうとする。
「では、一興だ。こうしよう」
少女はそういうと、赤子を魔法で持ち上げ自分の近くまで引き寄せた。そして、凍えて息も絶え絶えな赤子の片瞼に実に魔の者らしい指を乗せて宣言した。
「堕ちた聖女を母に持つ赤子よ、名も知れぬ男を父に持つ忌み子よ、誰にも祝福されない哀れな人間よ、世界はお前を見殺した。お前は絶望に愛され希望に見放された。しかし、余がお前を生かそう。お前の死を余が否定しよう。お前の死は余が塗り替えた。まず、百日間業火に焼かれようとも、百日間氷獄に閉ざされようとも消えることのない魂の灯火を与えよう。次に、『蝕み』を拒絶し、『蝕み』を喰らう凄みを与えよう。最後に、何者にも屈することのない鋼の心を与えよう……ここに暴食の魔王イルトルベルガルが聖女の子に加護を与えたことを宣言す」
少女の……いや、暴食の魔王イルトルベルガルの指が淡く光った。同時に赤子の片瞼から血涙が溢れ出し、痛みに耐えかねた赤子が身を捩る。しかし、イルトルベルガルは気にかける風もなく、静かに赤子の瞳に自らの証を刻み付けた。
何処から取り出したのか赤子を簡素な毛布に包み、処刑台の床へ下ろしたイルトルベルガルは、雪雲を一睨みすると、片手を空へ向けて魔法を放った。
それは、尾を引きながら打ち上がると花火のように爆発した。菫色の花が雪雲の下に開花し、寒空に不釣り合いな温もりが広がる。
「名もなき赤子よ、勇者がお前を守ろうとした理由を示せ。お前が何者であるのか余に示せ。折角余が加護を与えたのだ。失望させるなよ?」
無垢な赤子は既に眠ってしまっている。イルトルベルガルは赤子の血涙を指で拭うと、ぺろりと舐めた。
「ふん。如何にも人間の味だ」
その言葉を最後に、暴食の魔王イルトルベルガルは姿を消した。
◆◇
それから一時間が経った頃、砦跡地にひどく場違いな風貌の男がやって来た。
足首まである長いローブと、笑えるくらいつばが広く天辺の折れたとんがり帽子、腰まで届くかと思われる立派な髭を持ち、老人とは思えないほどしっかりとした足取りで処刑台を一直線に目指している。
彼は主のいなくなった馬車を見留めると、更にその足を早めた。そして、墓穴に葬られた少女と大男の死体、至るところに転がる御者と憲兵の死体、そして首を惨たらしく切り落とされた下半身裸の女とそれに手を伸ばして息絶えたと思われる少年の死体を確認すると、嘆かずにはいられなかった。
「おおおっ! なんということだ。ここで何が起こったのだ!? こんな、こんな惨い仕打ちを誰がしたというのだ!?」
そのとき、老人は何か動くものがあることに気が付いた。この惨状に気を取られて見落としていたが、よく見ると、少年は女に手を伸ばしているのではなく、女の股の間に置かれた毛布に包まれた何かに手を伸ばしているではないか。
そして、その中には一人の赤子が寒さをものともせず、小さな寝息を立ててすやすやと眠っているのだった。
「空に打ち上がった魔法をあてに来てみれば……よもやこんな惨状の中に命が芽吹いているとはのう……むむっ!この男は!? この少年はまさか……!?」
痩せ衰えて姿が大きく変わっていても、老人は息絶えている少年を知っていた。
「おお……勇者アルベルデよ……お前はここにおったのか……ここで処刑されたのじゃな……ということはこの女性は聖女マリージュか……? 墓穴の大男は戦士ガルモン……少女は魔術師シェンテスじゃな……? おお……おお……」
老人は毛布を抱え、風の当たらない所へ置くと防寒の魔法をかけ、物言わぬ者たちの埋葬に取りかかった。
葬られていたガルモンとシェンテスの遺体を墓穴から持ち上げ、その穴に憲兵たちを埋葬し、新たに魔法で四人分の墓穴を掘ると、その穴に四人の遺体を丁重に埋葬した。
再び雪が降り始めた。今度の雪は牡丹雪だった。それはあっという間に処刑場の痕跡をひた隠し、あたかもそこには最初から砦跡地しかないように見せた。
「この雪は……もしやお前たちはここでのことを他言無用だというのか……? 虐殺されてたった一人の子を遺しておいて誰にも告げるな、と言うのか?」
墓石は何も語らない。
静かに雪に埋もれていく。
老人は瞼に溜まった涙を拭うと、赤子を抱えて砦跡地を後にした。