プロローグ その二
「ええ、そうです。ではしっかとご覧ください」
女囚はそういうと、憲兵長を突き飛ばし下着を脱ぐと大股を開いた。無論、足枷のせいで満足に開けなかったが、子を産める程度には開くことが出来た。
突き飛ばされた憲兵長は、たたらを踏んでなんとか踏み堪えたものの、女囚の気迫に圧されて更に数歩後退った。
それがいけなかった。
様々な物語の岐路、或いはターニングポイントというものはほんの些細なことに過ぎなかったりする。蝶の羽ばたきが竜巻を作るわけではないけれども、しかしそれと似たようなものなのだ。
では、これはどういった岐路なのかというと、憲兵長が数歩後退ったことによって、気絶している少年の指を踏んでしまい、少年が目覚めてしまった。憲兵長がもう少し強く心を持っていたならば、こうはならなかった。
だが、現実は『もし』で進むものではない。
目が覚めた少年は広がる光景に怒髪天を衝いた。
「な、何が起こっている……? お前らぁあ! 彼女に何をしたぁ! 殺す! 殺してやる!」
憲兵たちが予め少年の横に付いていなければ、振り抜かれた拳は憲兵長を捉えただろう。しかし、そのやつれた体では本来の力が出せる筈もなく、ほんの僅かなところで少年は取り押さえられてしまった。
手足の枷を引き千切らんばかりに暴れ回り、覆い被さる憲兵たちを蹴り飛ばし殴り付けるも、六人がかりで押さえられてしまえば流石の少年もどうにも出来ない。
処刑台の床に額を擦り付け、血涙に濡れる少年に憲兵長は何を感じたのだろうか。ただならぬ怨嗟を感じたのは間違いない。しかし、それだけではない。人間が最も恐怖する、魂の根幹を侵す『蝕み』を感じ取った。
それは憲兵長の魂に噛みつくと、凄まじい速度で侵食し始めた。
「お、お前……! やはり、かの王にっ……!」
魂を侵された憲兵長が、いっそここで殺してしまおうか、どのみち処刑するのだから構いやしない、と腰に帯びた剣に手を伸ばしたそのとき、救いの手は思わぬ方向から伸びた。
「くっ……! はぁ……! わ、私は大丈夫だから……! 私に……任……せて!」
「そんな格好で大丈夫な訳あるか! おい! クソッタレ憲兵ども! 彼女に指一本触れてみろ! 八つ裂きにしてやるからなっ!」
「……お願い! 暴れないでッ……この子だけは……この子だけは助けさせて!」
「……な、何を言っているんだ!? 憲兵どもぉ! 説明しろぉ!」
少年は今にも折れそうな体を捩り、憲兵たちの拘束から逃れようともがくも、がっちりと固定された体は動きそうもない。
少年は深淵色の瞳で憲兵長を捉えた。
「ヒィッ! や、やめろぉ! こっちを見るなぁ! ああ……! 『蝕み』がっ――『蝕み』が来るぅ!」
「てめえ! 何を言っていやがる!」
少年は自身の変化に気が付いていなかった。人の魂を『蝕』めると気が付いていなかった。それは小雪の降る天気のせいだったかもしれない。薄気味悪い砦跡の断頭台という場所のせいかもしれない。
なんにしても、少年は憲兵長が急変した理由が自身にあるとは思っていなかった。
「早くっ! 早く女と小僧を処刑するんだ!」
『蝕み』に魂を侵され半狂乱になった憲兵長が、ふらつきながら部下の憲兵たちに命令を下す。憲兵たちは女囚を無理矢理拘束すると、両腕を抱きつくような形で断頭台に固定する。
「きゃあッ!」
「……お願いだ、彼女だけは助けてやってくれ……お願いだ。俺はどのように処刑されても構わない。八つ裂きでもいい。公開処刑でも構わない! だからッ……」
「今更しおらしくなってももう遅い! お前たちは処刑される! 執行人! 女を直ちに処刑せよ!」
女囚は最期まで諦めるつもりはなかった。執行人が錆びた斧を担いで隣に立っても、動じることなく小さな命を産み落とそうとしている。だが、陣痛も来ていないお腹でどうして産み落とせるだろうか。必死の踏ん張りも空しく、執行人は巨大な首切り斧を振りかぶった。
「っくぅ……! もう少し……もう少しなの……」
「女の首を切り落とせぇ!」
「うおぉぉお! その斧を退けろおおぉぉお!!」
少年の叫びも空しく、斧は無慈悲に振り下ろされた。が、錆びた斧は首を切り落とすほどの切れ味がなく、女囚の喉を潰し、首の骨を砕いただけで絶命させるには至らなかった。
「……ッグァ! ……ッゲェ! ゴポッゴポッ」
女囚が声にならない苦悶の叫びを上げ、あまりの激痛に折っていた足を、捩り、開き、閉じ、捻る。床を蹴りつけるあまりに強い力で足の爪が次々に剥がれていった。
「殺す! お前たち全員殺してやる! 裂いて、潰して、挽いて、砕いて、刺して、千切って、焼いて殺してやる!!」
少年の目尻に二筋の涙が流れ、怨嗟にまみれた顔を落ちていく。憲兵たちは辛うじて押さえつけられているが、それも時間の問題だった。というのもこの少年、何故か暴れる力が段々と強くなっていっているのだ。
ぼろぼろになった体の何処からそんな力が湧いてくるのか見当もつかない憲兵たちは、火事場の馬鹿力だと納得しようにも、どうもそんなものでは説明できないらしく、必死にそれこそしがみついて少年を拘束し続けた。
「もう一度だ! もう一度振り下ろせ!」
憲兵長が怒鳴った。少年の怨嗟と女囚の覚悟に気圧された執行人は、慌てて斧を取り直し再び彼女の首に叩きつける。しかし、まだ首は落ちなかった。完全に首の骨を砕かれ、神経を滅茶苦茶にされても尚、彼女は諦めていなかった。
ピンと伸ばされた足は、やはり子を産み落とすために肩幅以上に広げられており、尋常でないほどの力が加えられた腹はぐるぐると渦巻いている。
遂に胎児の頭が見えた。それに気がつかない憲兵長が狂気の顔で、
「もう一度だ!」
と執行人に指示し、再度振り下ろされた斧は、今度こそ女囚の首を切り落とした。彼女の体は激しく痙攣し石のように固くなったかと思うと、ガクンと弛緩し床に伏した。
そして股の間から胎児がするりと産まれ落ちた。
響き渡るのは、新しい生命を象徴する無垢な産声。母親を探すその声は、無情にも彼女に届かない。
「……ほ、本当に産んだ……」
憲兵長を始め半ば放心状態の憲兵たちは、誰かが呟いた言葉をオウムのように何度も繰り返した。視線は一点に釘付けられ、誰も動けなかった。
「うおおぉ――!」
一匹の獣の慟哭が轟いた。枯れ果てたと思っていた涙が溢れだし、処刑台の床板に薄く積もった雪を溶かしていく。押さえつけられた手足を無理矢理動かしたせいで、おぞましい音を立てて骨が折れ間接が外れた。
その時だった。
砦跡に紫色の月が昇った。
誰が何を言うでもなく、それを見る。月かと思われたのは一匹の魔族だった。凶悪に捻れた一対の山羊角とすべてを覆い隠すどこまでも深い紫色の翼。少女の姿をした魔族は憲兵たちを見下ろすと片眉をつり上げた。
「久々に美味そうな怨嗟を感じ取って来てみれば……これは一体どういう状況だ? おい……誰か説明しろ」
「…………」
放たれているのは魔王級の魔力。本来見えない筈のそれは、後光のように少女の背後に広がり、一切の反論を許さない圧倒的な存在を示している。
「おい、聞こえていないのか? ……ふん」
少女が指を鳴らした。
すると、憲兵長の左腕が吹き飛んだ。
「うがああぁあっ!」
「そこの『蝕み』に侵された哀れな男よ。二度も言わせるな。これはどういうことだ?」
「しょ、処刑です!」
「処刑か……罪状は?」
「ど、どうしてそんなことを――?」
少女が再び指を鳴らそうと手を掲げる。憲兵長は己の失態に怖じ気づいて目を瞑るも、覚悟していた痛みが来ることはなく、代わりに暖かい雨に全身を濡らした。
何かの落ちる音に憲兵長が恐る恐る目を開けると、すぐ横にいた部下の首から上が無くなっていた。憲兵長を濡らしたのは彼の血液だった。
「誰が、お前に質問を許した? 私が罪状は、と言えば、お前はそれを告げればいいのだ。わかったな?」
「は、はいぃ……」
「それで? 罪状は?」
「国家転覆罪であります……! この者たちは天帝の大恩を忘れ、至高の御方に反旗を翻そうとしていたのです!」
「たった四人で……か?」
「は、はい! いいえ、この者たちは一騎当千の強者ですので……」
「ほう……では、この者たちが強欲の魔王ドルボルデルバルを討った勇者一行だな?」
「そ、それは……」
「ふん……大体状況は飲み込めた。まさに人間だな。紛うことなく人間だ。嘲る気すら起きん。まあ、ドルボルデルバルが手を出した理由が分からんでもないな」
魔族の少女は翼を畳むとゆっくりと降下し、憲兵長と同じ高さで静止した。
「どうしてお前たち人間はそう短絡的なのだ? 本当に勇者たちを処刑してしまっていいのか?」
「――どういう意味で……?」
「どうして魔王を一人だと思う? あれか? 心の何処かにこれ以上魔王はいない筈だ、と勝手に納得している部分があるのだろう? だから、勇者一行を殺すのだろう? 勇者がいると魔王がいつか復活するのでは、と考える。それに、勇者は求心力がある。下手をすればその天帝? とやらの立場が危うくなるものな」
少女が憲兵長へ向かって歩き出し、一歩毎に指を鳴らすと、憲兵長の背後で少年を押さえていた憲兵たちの首がねじ切られていく。恐慌状態にも拘らず彼らが逃げないのは、少女の尋常ではない魔力にあてられて酔いしれているからに他ならない。
六回目の音がなったとき、魔族の少女は憲兵長の真横にいた。
「て、天帝は偉大なお方だ。勇者程度で揺らぐ権威ではない!」
「ほざけ、そして死ね、人間」
憲兵長の体が爆発四散した。