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桜咲く頃

作者: 長谷川るり

「生涯で最後の人」と思っていた人との別れから、あなたはどの位で立ち直れますか?そして、何があれば立ち直ろうと思えますか?

「閉まるドアーにご注意下さい」

金曜の夜8時過ぎ。車内アナウンスが混み合った車内の隙間を均等にする。品川から乗っている桜咲子ささこは吊り革につかまり、窓に映った疲れて冴えない顔の自分に 心の中で溜め息を吐く。仕事帰りの電車では、ボーッと外の夜景を眺めるのが日課になっている。多摩川の上を渡る高架線を走る車内から見える景色は毎日同じ様だが、それが桜咲子には心地良かった。金曜の夜とあって、程々に混み合っていて、いつもより聞こえてくる会話が明るい気がする。お酒のせいだろうか。それとも土日休みのサラリーマンやOLの週末に向かう解放感のせいだろうか。派遣社員とはいえ自分も会社勤めの身でありながら、あんな陽気な会話をする気持ちになれないのは何故だろうと、どうでもいい様な事を一人 頭の中で考える。

 電車が川崎に停まり、沢山の人が下り、また沢山の人達が乗ってくる。桜咲子の斜め前の席が空いたのに気が付いた時には、もうすでに男性が座ろうとしているところだった。ぼんやりと余計な事を考えていたからだと、桜咲子は再び心の中で小さく溜め息をつく。新しい靴を一日履いていたせいで、靴擦れが出来て痛い。空席にいち早く気付けなかった自分を悔やみながら、しばし足を解放すべく、そっと片足だけ靴を脱ぐ。その途端、発車の為に揺れた車内も人がドッとよろめき、桜咲子は重心のバランスを崩す。靴を脱いだ足がとっさに床についたつもりが、誰かの靴を思いっきり踏んづけた。

「ごめんなさい!」

慌てて足を上げて踏みつけた靴の主に目を向けると、それは先程空席に腰を落ち着けたサラリーマン風の紺のスーツの青年だった。思いっきり踏んづけた筈なのに、その青年は嫌な顔一つせず、『いえ』と相槌だけ打って、目を瞑って下を向いた。30代前半のさほど自分と年代が変わらなさそうな見ず知らずの青年の足に裸足で体重を掛ける様に踏んづけてしまった事を恥ずかしく思い、熱くなる頬と耳をマフラーで隠して、慌てて靴を履いた。

 横浜駅で人が下りたら、この近くを離れようとそればかりを考えて桜咲子が乗っていると、意外にもサラリーマン風の青年の横の席が一つだけ空く。靴擦れの痛さが そこへ座ってしまえと誘惑するが、桜咲子は慎重に周りの様子を窺い、他の空席を探す。しかし空きが無いばかりか、ドアから人が乗ってきてしまう様を見ると、その心の誘惑の声に背中を押される様に、身を縮める様にして 席に座った。足の痛みは少し解放されたが、何となく居心地が悪い空間から逃れる様に、桜咲子は鞄からさっき不動産屋で貰ってきた物件表を取り出して目を通す。最低限の条件は満たしてはいるが、可も無く不可も無くといった物件だ。無意識に小さい溜め息を吐くと、隣の青年が眠っていた筈の顔を上げた。何となく手元に視線を感じた様な気がするが、確認は出来ない。桜咲子はそのコピーを少しすぼめる様に持って、もう一枚に目を通す。こちらは50点の物件だ。家賃は少し安いが駅からが遠い。見に行く程でもなさそうだ。

 桜咲子は車内の人の隙間を縫って外の景色を見ると、あと少しで駅に到着だと知る。下りる時には、隣の青年にもう一度謝ってから下りようと心に決めて、息を吸う。下り際に『さっきはすみませんでした』と頭を下げて、サーッと下りてしまおうと計算を立てて、鞄を握りしめる。すると、その一息先を越す様に、青年はすっと腰を上げて席を立ち、桜咲子の先を歩いて下りてしまう。まさか同じ駅で降りるとは・・・。そんな計算外の出来事に驚いている自分が半分と、こういう事態になっても別に何の不思議もないと思う自分とが半分入り混じっていた。しかし一言謝ろうと決めていた自分が心の中で桜咲子をせっつく。ホームからエスカレーターに乗った青年を追いかける様にエスカレーターを歩いて上がる。靴擦れなんか気にしていられない。改札を出た辺りでようやく追いつき、後ろから声を掛けた。

「あの・・・」

しかしその青年は気付かずに歩き続ける。桜咲子は思い切って腕の辺りをそっと叩いた。

「あの・・・っ!」

ようやく振り向いた青年に、桜咲子が予定してた台詞を吐いた。

「先程は、すみませんでした」

キョトンとした顔をしているその青年の顔に気が付いたのは、桜咲子が頭を上げてからだった。

「あっ、さっき電車の中で思いっきり足を踏んづけちゃって・・・」

「あぁ・・・」

ようやく思い出した青年は、そう相槌を返した後に、もう一度目を見開いた。

「それを言う為にわざわざ?」

ハッとする桜咲子。まるでストーカーの様に勘違いされていると焦る。

「私もこの駅に住んでるんです。そしたら、丁度同じ所で降りられたので・・・もう一度謝ろうと思って・・・」

「そうでしたか。わざわざすみません。そんな気にしないで下さい」

そう言うと、青年は軽く会釈をして前へ向き直り歩いて行った。ようやく肩の荷が下りた様な気になり、ほっと安堵の息を漏らしていると、前を歩いていた青年がもう一度振り返って立ち止まった。

「あの・・・もしかしてお部屋探してますか?」

自動的に桜咲子の足は止まったが、不意を突かれて言葉が出ないでいると、青年はスーツの内ポケットから名刺を取り出した。

「僕不動産屋に勤めてます。もし何かお力になれる事があれば、ご連絡下さい」

そう言って手渡された一枚の名刺には『日東ホーム 品川支店 板倉風太いたくらふうた』と書かれていた。


 桜咲子が帰宅して、真っ暗な部屋に電気をつけストーブにもスイッチを入れる。そしてベランダの冷たくなった洗濯物を取り込んでカーテンを閉める。ここまではいつものルーティ-ンだ。やかんにお湯を沸かしながらカップ麺のパッケージを開ける。お湯を注いで蓋をしている間、先程駅で板倉という青年から貰った名刺を取り出す桜咲子。暫くそれを眺めた後、電話の前のコルクボードにピンで留めた。


 土曜日、桜咲子は洗濯物を干し、仏壇に手を合わせて独り言の様に『行ってきます』と呟く。ベランダに咲いた鉢植えの花をビニール袋に入れ、玄関を出て行った。

 

 品川にある病院の入口を入り エレベーターを待つ間に、鞄から取り出したパールの指輪を左手にはめる桜咲子。病室の母はいつもの様に点滴を受けている。6人部屋の入り口側のベッドに寝ている母に笑顔で顔を出す。

「匂い桜咲いたよ」

ビニール袋に入った鉢を掲げて見せる。母もぱぁっと明るい表情に変わる。

「いつもありがとうね」

床頭台の上に置かれた鉢植えを見て、母はしみじみと言った。

「あんたは本当に上手に育てるわね」

「そんな事ないよ。病院に鉢植えなんて 本当はあんまり良くないんだろうけど、切り花買うと高いから・・・節約」

柔らかな眼差しで微笑む母に、桜咲子がトーンを切り替える。

「ちゃんと食べてる?残してない?ご飯」

「大丈夫よ」

母がふっと桜咲子の薬指の指輪に視線を落とす。

「中西さん、いつ帰って来るか まだ決まらないの?」

「・・・うん」

「仕事が出来る人だから、向こうで重宝されてるのかしらね」

「・・・そうかもね」

「このまんまずっと向こうで、なんて事もあるのかしらね。そしたら 籍入れてあんたが向こうに行くって事もあるわよね?」

「それはどうかな・・・」

首を傾げながら、桜咲子は話題を変えた。

「そうそう。お家ね、今探してるからね」

「無理しなくていいよ」

「だって今ん所じゃ坂が急だし、出歩くのに不便だもん。同じ様な家賃でってなると少し狭くはなるけど、駅から近くて平らなら お母さん退院してきても暮らしやすくなると思うんだ」

「ごめんね・・・何から何までやらせちゃって」

「やぁだ。そんな気にする暇あったら、早く元気になって」

母は笑顔で小さい溜め息をついた。


 日東ホームの前を通りながら、中に昨日の板倉の姿を探す桜咲子。しかしカウンターの見える位置には居ない様子で、桜咲子はそのまま駅へ向かった。


 家に帰った桜咲子は、はぁと大きく溜め息を漏らし床に座る。鞄にしまった指輪をしまおうと引き出しを開けると、そこにある一枚の絵葉書きに目を留める。触れてはいけない物の様に感じていたその葉書きを恐る恐る手に取って ひっくり返してみる。

『好きな人ができた。ごめん。桜咲子の所には戻れない。中西良一』

切手の所には9月の消印が押されている。9月にこの葉書きが届いた時に見て以来、久し振りに目を通した桜咲子だった。自分の気持ちに耳を澄ましてみる。やはり悲しい気持ちが込み上げる。やり切れない様な、簡単すぎてかえって笑えてしまう位の虚しさもある。やっぱり見なければ良かったと後悔しながら、その葉書きを桜咲子は引き出しの奥にしまった。そしてコルクボードに留めた板倉の名刺を眺めて、電話を手に取った。

「日東ホーム 品川支店 柳瀬でございます」

「藤枝と申します。恐れ入りますが板倉さん、お願いできますでしょうか?」

すんなりと取り次いで貰い、板倉が電話口に出る。

「お電話替わりました、板倉です。藤枝様・・・?」

聞き覚えのない様子が、ありありと伝わる。

「あっあの・・・昨日駅で名刺を頂いた・・・」

「はい・・・」

まだ伝わっていない様子だ。

「電車の中で足踏んじゃって・・・、それで同じ駅で降りてから・・・」

「あぁ!」

ようやく伝わった様子だ。

「お名前伺っていなかったもので・・・」

「あ・・・そうでしたね。すみません」

「で、賃貸物件をお探しですか?」

「そうなんです。条件に合う物があるかどうか、調べて頂けないでしょうか?」

桜咲子の挙げる条件を板倉はメモに書き取る。

「早速お調べして、ご自宅にFAXさせて頂きます。内覧ご希望の際は、遠慮なくお申し付け下さい」


 日曜の早番の仕事を終えた後、日東ホームに立ち寄る桜咲子。昨日探してもらった物件の内 2軒を見せてもらいに行く予定だ。板倉の運転で早速空き物件へと向かう。運転席から、時々後部座席の桜咲子の方へ顔を向けながら話し掛ける板倉。

「早速にご連絡頂いて、ありがとうございました。お引っ越しはいつ頃のご予定ですか?」

「まだはっきりとは・・・。実は今母が入院中でして、退院してきた時に生活しやすい場所を探してるんです」

「お母様、ご病気でしたか・・・」

「はい。心臓を患っちゃったもので・・・今の所は急坂を昇らないといけないので、ちょっと負担になるんですよね」

「それで駅近で平らな所、なんですね」

会話の合間に、板倉がウインカーを出して右折しながら説明する。

「これから行く物件は、駅から5分で近いです。でも一階ですので少々日当たりを気にされる方もいらっしゃいます。3階にも空きがあるんですが、エレベーターがないので・・・」

「そうですかぁ・・・」

到着した物件は鉄筋のマンションだが築年数が経っているのが窺える外観だった。中へ入り、雨戸を開ける板倉。

「一階なので小さなお庭が付いてます。ただ正直、目隠し用の植木で日当たりがいまいちなんですが・・・」

「母は植木やお花が好きなので、小さくてもお庭があるのは嬉しいと思います。これって南向きですか?」

「はい。日中はもう少し日が当たってます。日当たりという点で言えば、やはり3階がお薦めなんですけどね・・・。ベランダいっぱいに陽が当たるので」

植え込みの高さを見て、桜咲子が言った。

「そうでしょうね・・・」

「あと 築年数は経ってますが、室内がリフォーム済みなので、バリアフリーに近い状態にしてありますので、お母様には移動しやすくなっているかと思います」

部屋の境目の床を見ながら、ゆっくりと頷く桜咲子。


 帰りは品川駅まで車に乗せてもらい、駅までの道を確認する。駅のロータリーに車が停まると、板倉が言った。

「また目ぼしい物件が見つかりましたら、FAXさせて頂きます」

しかしそれから暫く、新しい物件の情報が桜咲子の元に届く事はなかった。


 今日も仕事帰りに母の病院に寄り、いつもの様に疲れた体を電車に乗せる桜咲子。空いた席に体を沈め 目を瞑ると、夢の中へ落ちていくのにそう時間は掛からなかった。駅に到着した事を知らせる電車の揺れとアナウンスで慌てて降りる桜咲子。階段やエスカレーターに電車から吐き出された人達が集まる。その中に見つける見覚えのある人影。寝起きのぼやけた頭に板倉の驚いた顔が突き刺さる。

「同じ電車だったんですね」

「・・・そうみたいですね」

「この間は、お役に立てずすみませんでした」

「いえ、こちらこそお世話になりました」

エスカレーターに乗って後ろを向くと、二段下に乗っている板倉と丁度いい目の高さになる。思った以上に近い距離感に驚いて、桜咲子の心臓が一瞬跳ねた。寝起きの衝撃だからだろうか、それとも久し振りに男の人と近付いたからだろうか。そんなどうでもいい分析をしながら、桜咲子は自分を落ち着ける様に前を向いた。微妙な距離感で歩きながら改札口を出ると、板倉が言った。

「藤枝さんはどちらですか?」

「私、こっちです」

そう言いながら西口の方へ指を指す。

「板倉さんは?」

「僕こっからは自転車なんで、あそこに止めてあります」

駐輪場の方を指さす板倉。

「遠いんですか?」

「弥生橋の方です。藤枝さんは?」

「私は富士見台です」

「あ~、確かに坂の上ですね」

桜咲子はふっと笑って頷いた。そのまま会話が途切れたところで、板倉が言った。

「じゃ、気をつけて」

「あの・・・っ」

『はい』と言うつもりが、桜咲子の口から別の言葉がこぼれて、自分でも困惑していると、呼び止められた板倉が次の言葉待ちをしている。こうなってしまうと、何か話を繋げないといけない雰囲気になっている。必死に無い知恵を絞り出す桜咲子。

「この辺で・・・どこかいいお店知りませんか?」

「お店・・・?」

「少しお酒も飲みながらご飯食べられて・・・一人でも入れそうなお店」

「僕もあんまり知らないんですよね・・・」

「ですよね。すみません、変な事聞いて」

取り繕う様に笑ってみせる桜咲子。

「・・・ですけど・・・一軒だけ知ってるお店、あります」

ベラベラ喋り出さない雰囲気を感じて、桜咲子は黙って事の成り行きを待つ。

「ここから3分位の所にある飲み屋なんですけど、ちょっと道説明しずらいから・・・」

あまり人に教えたくない大事なお店なのかもしれない。そう桜咲子が感じると、手を横に振って、作り笑顔を付け足した。

「大丈夫です。ごめんなさい、変な事聞いちゃって。まっすぐ帰ります」

「・・・良ければ、ご案内しましょうか?」


 思いがけない流れになり、板倉に導かれるまま桜咲子は一軒の居酒屋ののれんをくぐる事になった。カウンターに数席と座敷にはテーブル席が二つある こじんまりとした店だ。入るなり明るい声のママさんが出迎える。

「あら、いらっしゃい。ごめんねぇ。今日カウンターいっぱいなの。お連れ様もいらっしゃるからこっちでもいい?」

そう言って座敷を指さす。カウンターを一人客が埋めているのを見て、『一人でも入れそうなお店』というのに納得する桜咲子。お座敷に向かい合って座ると、早速整ったテーブルにママがおしぼりを持ってくる。

「何お持ちしましょうか?」

板倉は桜咲子の方を向いた。

「何飲みますか?」

「私、生で」

「尾崎さんは?」

ママのその一言に、キョトンとする桜咲子。

「尾崎さん?!」

桜咲子が不思議そうな顔で板倉とママの顔を交互に見ていると、わっはっはとママが笑った。

「前ね、ここのカラオケで尾崎豊歌われたの。それから私が勝手に『尾崎さん』って呼んでるの。名前知らないからね」

「あ~そうだったんですか」

納得した顔を見て、板倉が『いつもの』と注文する。

「お腹は?空いてる?」

「今日のお通し、何?」

「おでん。少し多めに持って来てあげようか」

そんなやり取りを見ながら、桜咲子はおしぼりで手を拭く。ママがカウンターの中に戻ると、桜咲子が口を開いた。

「良く来られるんですか?」

「う~ん・・・たまにね。そんなに飲み歩く方でもないから。疲れた時とか・・・そういう時に寄ります」

頷いている桜咲子に板倉が質問する。

「藤枝さんは一人で飲みに行かれたりしますか?」

くるくるの筒状に丸めたおしぼりを振って、それを否定する。

「いえいえ。一人ではご飯も外で食べません」

「へぇ~、じゃあ今日はまた何で?」

桜咲子は首を傾げた。

「何ででしょう・・・。何だかちょっと色々疲れちゃってたのかも。自分を変えたいっていうか・・・変われない自分が嫌だっていうか・・・」

そこへ生ビールと酒ライムが届く。お通しの筈のおでんが煮物の鉢に盛られている。二人 グラスを遠慮がちに合わせて、それぞれ一口喉を湿らす。

「それ、何ですか?」

板倉の飲んでいるグラスを指さす。

「酒ライムって言って、日本酒のライム割」

「へえ~初めて聞いた」

「ここで初めて僕も飲んで、これ定番になっちゃいました」

「美味しそうですね」

「味見ますか?」

グラスを桜咲子の方へ少し差し出す板倉だが、桜咲子が両手でそれを止めた。

「いえいえ。次、頼んでみます」

「あっ・・・ですよね。すみません」

お互いに会話が途切れ、変な間を埋める様におでんに箸をつける。そこへママが幾つか小鉢を運んでくる。

「はい、これもどうぞ。サービス」

ほうれん草のお浸しと蓮根のきんぴら、それと切り干し大根の煮つけだ。

「野菜不足解消の為ね」

ママがそう言って笑顔を二人に振り撒く。そこへカウンターの客が振り向きながら言った。

「ママ、おあいそ」

高らかに返事をして、テーブルを去るママ。すると早速に桜咲子が言った。

「素敵なお店ですね。ママさんも気さくだし、雰囲気もアットホームで。もうここ、長いんですか?」

「2年・・・位かな。たまたま仕事帰りにひょいっと入ったら 落ち着いちゃって。何よりママに変な色気が無いのがいいよね」

そう言い終えると板倉は酒ライムを一口ごくりとやる。

「お腹空いてるんでしたよね?ここのチゲ鍋美味しいんですよ。辛いのいけますか?」

鍋の注文をカウンター内のママに済ませると、板倉がお浸しを一口口へ放り込んでから話し始めた。

「さっきの・・・自分を変えたいけど変われない自分も嫌っていうの・・・分かる気します」

ビールを飲んでいた桜咲子の目が板倉に釘付けになる。

「・・・そうですか?何だかそんな風には見えないっていうか・・・」

板倉は目を逸らしたまま、ふっと笑って口を開いた。

「懸命に生きれば、その分傷も背負いますよ」

板倉の瞳の奥に暗い影を見た様で、桜咲子は目を離せなくなっていた。すると、話題を切り替える様に板倉が言った。

「おでん、冷めないうちにどうぞどうぞ。遠慮しないで」

おでんの大根を口に含めると、染み込んだ出し汁が口の中いっぱいに広がり、大根がほぐれる。

「お袋の味っていうんでしょうね。やっぱりこういうの、ホッとします」

「普段は自炊ですか?」

桜咲子は少し照れた様に笑って、言った。

「お恥ずかしい話、インスタント物ばっかりです。自分だけの為にご飯作る気しなくて。母も入院中ですし、父も五年前に亡くなってますしね」

「そうでしたか・・・」

「板倉さんは?お一人暮らしですか?それともご実家?」

「・・・一人です。うちも母がもう亡くなってるので、横須賀で父が一人暮らししてます」

「それも・・・ご心配ですね」

しんみりとしてしまった空間を、時々他の客のカラオケが埋める。

 そこへグツグツと煮えたチゲ鍋がテーブルに届く。ママが取り皿を配りながら言った。

「お姉さん、このお近くの方?」

「はい。富士見台に住んでます」

「そう。尾崎さんがどなたかと一緒なんて珍しいから」

すると板倉が弁解する様に話し始める。

「お客様です。さっき駅に降りたら、バッタリお会いしたもんで」

「私が、この近くでいいお店知りませんか?って伺って、連れて来て頂きました」

「あらぁ、尾崎さんの『いいお店リスト』に入れて頂いてるなんて嬉しいわ。いっつもお一人でカウンターの端で二杯飲んで帰られるから」

「二杯?」

「そう、二杯。きっちり二杯飲んでおしまい。酔っぱらったところも見た事ないし、綺麗に飲んですっと帰るって感じ」

桜咲子は板倉の顔を時々見ながら、ママの話を聞いた。

「さっきカラオケで尾崎豊歌ったって。良く歌うんですか?」

伏せ目がちに首を横に振る板倉の代わりに、ママが喋った。

「二回目に来た時にね、確か結構遅い時間でお客様も少なかったの。で、何か歌ってってせがんで一回だけ。その時の『I love you 』が妙にはまっててね。それで私が勝手に『尾崎さん』なんて呼んでるんだけど、嫌とも言わず又来て下さるから そのままあだ名になっちゃったの」

「『Ilove you 』か・・・」

そう相槌を返しながら、桜咲子は頭の中でその歌詞を引っぱり出してくる。

「熱いから気を付けて召し上がってね」

とんすいに一杯ずつ取り分けてから、ママは又カウンターに戻っていった。フーフー言いながら頬張る板倉をじっと見つめる桜咲子。そして口を開いた。

「好きなタイプってどんな人ですか?」

突然の質問に、板倉の箸が一瞬止まる。

「好きなタイプ・・・どうかな・・・」

顔を上げる事なくチゲ鍋を頬張る板倉。

「私、当ててみましょうか?」

モグモグしたまま上目使いに桜咲子を見る板倉。

「明るくて、温かくて・・・コイツのいる家に帰りたいって思える様な人。・・・どうですか?」

「そりゃあ男は皆、そういう子好きなんじゃない?どうして?」

今度は桜咲子が目を伏して答えた。

「今の・・・私の正反対」

そしてごまかす様に笑った。

「そうかなぁ・・・。藤枝さんは自分が嫌い?」

桜咲子は無言のまま、僅かな笑顔を溜め息に乗せた。返事らしい返事が無い事を確認すると、板倉は桜咲子の空になったビールのグラスを指さした。

「酒ライム頼みますか?」

板倉がカウンターの中のママに酒ライム二つを注文し終えた時、桜咲子が箸を置いて話し始めた。

「5年間付き合ってた人がいたんです。その彼が仕事で高知に二年間の出張が決まって、帰って来たら一緒になる約束をして羽田から見送りました。そしたらこの前・・・9月に一枚の絵葉書きが届いて、『好きな人が出来たからお前の所には戻れない』って、ただそれだけ。私達の5年間は、そのたった50円の切手一枚貼られた葉書きで終わったんです。それって、それだけの価値だったって事でしょ?つまり私は『帰りたい女じゃなかった』って事・・・」

「・・・・・・」

そこへ酒ライムが届く。空いたグラスも下げられていく。暗くなったトーンに少し責任を感じて、桜咲子が僅かに明るい声を出す。

「これが、噂の酒ライムですね。いただきます」

口に合うか、桜咲子の表情を待つ板倉。すると桜咲子が声を上げた。

「うわぁ~美味しい。これ、よく飲み過ぎませんね」

「日本酒通の方には邪道って言われるかもしれないですけどね」

「こんなに飲みやすくて美味しいお酒があって、なんとも居心地のいいお店を 毎回二杯だけできっちり帰るなんて、板倉さんは意志が強いんですね。流されないっていうか・・・」

「そんなんじゃないですよ」

またふっと悲しい表情をする板倉を、酒ライムを一口飲みながら見る桜咲子。

「さっき、『懸命に生きてれば、その分傷を背負う』って言いましたよね?あれ聞いて、なんか板倉さんの事 もっと知りたいなって・・・」

もくもくと食べる板倉に対し、話を続ける。

「あっ、変な意味じゃないです。何て説明したらいいか・・・自分でも不思議なんです。あんなフラれ方してからまだ3ヶ月しか経ってないし、それに私、決して惚れっぽい方でもないから」

弁解が弁解になっていない事に桜咲子自身気が付いて、ハッとする。

「ごめんなさい。私ばっかりベラベラ。もう酔っちゃったかな。ちょっとお手洗い行ってきます」

席を立つ桜咲子と入れ替わる様にして、ママが近付く。

「珍しいじゃない。誰かと一緒なんて」

「そうですね・・・」

「少しは心の荷物が軽くなってるのかなって、安心したわ」

「いや・・・なかなか・・・」

首をひねりながら、ごくりと一口流し込む。

「どれ位経つ?」

「二年です・・・」

「即答できるって事は、まだ過去に縛られてる証拠ね」

「・・・・・・」

苦笑いの板倉にママが言った。

「人ってさぁ、どれだけの時間 自分をいじめたら気が済むんだろうね」


 店を出て、駅までの道を歩く二人。

「今日のお礼に、私もお薦めの場所教えちゃいます。もう少し付き合って下さい」

駅からの坂を上る二人の吐く息が白い。駐輪場を過ぎ、更に続く階段を踏みしめる。昇りきった所に広がる横浜の夜景。ベイブリッジ、ランドマークタワー等、港の光が揺らめいている。頭上には星が瞬いている。柵に寄り掛かり、桜咲子が独り言の様に呟く。

「品川に引越したら、この景色も見られなくなっちゃうんだな・・・」

「元々横浜?」

頷く桜咲子。

「板倉さんは横須賀出身なんですよね?」

「横須賀の汐入」

それを聞いた桜咲子が目を丸くする。

「えー!私、高校汐入でした。いやぁ懐かしい」

「今は駅前とかだいぶ綺麗になったんですよ。どぶ板通りとか、行きました?」

はしゃぐ様に頷く桜咲子。

「お正月には帰るんですか?」

板倉も柵に寄り掛かりながら頷く。

「小学校3年の時に母親が事故で亡くなって、僕が24の時に家を出てから、親父はずっと一人で暮らしてる」

時々ですます調でなくなる辺りに、桜咲子は少し縮まった距離を感じていた。

「兄弟は?」

足元の砂を蹴飛ばす仕草の板倉。

「4つ上の兄貴がいて結婚して子供もいる。一緒に住もうって言ったらしいけど、親父の方が『俺は一人でも平気だ』って突っ張ってる。そういう頑固なとこ、自分とそっくり」

遠い目の板倉の横顔を見つめる桜咲子。その視線の先には磯子の丘の上に建つホテルの明かりがぼやける。

「私、板倉さんに 同じ匂いを感じるのかも・・・」

「ある意味・・・そうかもしれないね」

板倉から目を離せないまま、マフラーに顔をうずめる桜咲子。それに板倉が気付く。

「寒い?」

桜咲子は首を横に振った。

「板倉さんこそ。こんな吹きっさらしに連れて来ちゃって・・・」

「僕は自転車だから、酔い覚ましに丁度いいよ」

下の駐輪場を指さして笑う板倉。いつの間にか、下に見える道路の人通りも減っている。板倉が時計に目をやって言った。

「送ってこうか?」

「大丈夫です。私の事襲う人なんか誰もいないから」

そう言って悲しく笑った。


 帰宅した板倉が真っ暗な廊下を抜けリビングの電気のスイッチを入れると、オレンジ色のカーテンが変わらず明るく出迎える。鞄を無造作に床に置いて、スーツのまま寝室のダブルベッドに仰向けに寝転がる。黄色いストライプのベッドカバーが、板倉の疲れた体を受け止める。枕元の写真には、少し若い板倉と優しい笑顔の女が寄り添って映る。背後には眩しすぎる程の青い海が広がっている。

「美帆・・・」

そう呟いて、板倉は写真立てを伏せた。


 いつもと変わらずに、仕事帰りに母の見舞いに行くという日課をこなして品川駅で電車を待つ。すると背後から声がする。振り返ると そこには板倉の姿があった。

「あ・・・この間はどうも」

「また、会いましたね」

「いつもこの位の時間なんですか?」

「はい。藤枝さんは今日もお母さんの病院の帰りですか?」

「面会時間の最後まで居ると、この時間になっちゃって」

ひとしきり挨拶程度の世間話を交わすと、話題がそれ以上続かない。そこへ電車が滑り込んでくる。少しホッとした気持ちを抱え、電車に乗り込む桜咲子だった。意外にも車内は混雑していて、ドア付近の背の高い吊り革を恨めしく眺めては諦める桜咲子。そんな小柄な桜咲子より頭一つ分程度背の高い板倉が、車内の奥を眺める。

「奥もいっぱいですね・・・。吊革、つかまらなくて大丈夫ですか?」

「はい・・・」

「僕に・・・つかまりますか?」

腕を僅かに差し出した様にも見える。しかし桜咲子は首を振った。

「じゃ・・・揺れたら・・・つかまらせてもらいます」

意外と近い距離感に気まずさを覚え、ひたすら下を俯いて その時間をしのぐ桜咲子。板倉もあえて会話を持ち出さない。

「やっぱり時々揺れますね」

等という会話位しか思い浮かばない。桜咲子から腕につかまる事はなかったが、時々の大きな揺れに 板倉が桜咲子の肘の辺りにそっと手を添える。

「お母さん、具合いかがですか?」

「相変わらずです。もう少し体力がついたら手術できるそうなんですけど・・・」

「お見舞い、毎日ですか?」

「母は毎日来なくてもいいって言うんですけど、気になるし・・・今はもう日課になっちゃって」

次の駅に停車して人が動く。

「もう少し、中入っちゃいましょうか」

立っている人の間を縫って車両の真ん中に入って行く板倉の後に続く桜咲子。ようやく手の届く吊り革にあり付けそうな場所にスペースを見つける。その時、近くにいたOL風の女が声を上げた。

「桜咲子?!」

顔を上げて振り向いているその人を見ると、そこには大学時代の友人が驚いた顔で立っていた。

「聡美!」

「いや~、久し振り。元気?」

「まぁね。聡美は?」

「元気よ。今、仕事の帰り?」

「うん。聡美は?」

「私は今日はオフ。映画観てきた帰り。やっぱ平日の映画館は空いてていいわぁ~」

「今も横浜のデパートに勤めてんの?」

「うん。桜咲子は?」

「私は今、派遣で通販の受注業務してる」

「テレオペ?」

「そう」

そこで初めて桜咲子の隣の板倉の存在に目を留め、聡美は会釈した。

「どうも。ごめんなさい、急に割って入っちゃって」

「いえ・・・どうぞどうぞ」

『お気になさらずに』という言葉が聞こえてきそうな表情の板倉を見てから、聡美が小さな声で桜咲子に聞く。

「こちら・・・会社の方?」

はっとして答える桜咲子。

「あっ近所の方で・・・品川で偶然バッタリ」

「そうなんだぁ・・・」

そうは言ったものの、桜咲子の様子をじっと見つめる聡美。そして桜咲子は慌ててもう一つ付け足した。

「こちら不動産屋さんでね、引っ越し先探して頂いたりしてて・・・」

「引越し?あ!新居?中西さんとの」

「いやいやいや。中西さんとは・・・別れちゃったの」

「え?!そうなの?・・・ごめん」

「ううん、いいの。実は今母が心臓患って入院しちゃってて。今の所だと急坂とかあって大変なんだよね。だから退院してきても生活しやすい所探しててね。病院にも職場にも近い品川で探してるの」

「心臓か・・・心配だね。うちの父もさ、去年癌の手術して。ま、初期だったから転移もしてなかったし良かったんだけど、暫くは病院通いだよね。段々そういう歳になってきたって事だよね」

少ししんみりとした空気を一掃するかの様に、聡美が鞄の中をあさりながら言った。

「そうだ!水族館なんて、行く?」

「水族館?」

聡美が探していたチケットを鞄から取り出して見せた。

「これ優待券なの。会社の関係で貰ったんだけど、今月末までなのよ。私行ける時なくてさぁ・・・。無駄にしちゃうの勿体ないから、使ってくれない?」

そう言ってチケットをずらして二枚ある事を知らせる聡美。そして隣の板倉に顔を向けた。

「本当に無理なお願いと承知で頼みますけどね。一人で水族館っていうのもかわいそうなんで、一緒につき合ってやってもらえませんか?」

「・・・僕・・・ですか?」

すると桜咲子が聡美の腕を引っぱる。

「何言い出すの?!急に。板倉さん迷惑でしょ」

「そうよね。こういう事は最初に確認しておかないとね。この子と行くと、こじれる様なお相手いらっしゃいますか?」

直球の質問を投げ込んだ聡美の腕を叩く桜咲子。すると桜咲子が何か言う前に、聡美が畳み掛けた。

「だって『この子と行きたいですか?』って聞いたら答えにくいでしょ?『行きたいです』って言うもの変だし『行きたくないです』って言うのも角が立つしさ。だからご迷惑でなかったら一緒に行って、この券消化してもらえませんか?っていう 私なりの気遣いなんだけど」

そこまで言った辺りで車内アナウンスが流れ、もう間もなく横浜に到着する事を知らせる。

「あ~、もう着いちゃう。とにかくあげるから。良かったら使って!宜しく。じゃあね。お母さんお大事に。どうも」

最後に板倉に会釈をして、慌ただしく下りて行った後は、まるで台風が去った様な呆然とした空気が二人の間に残されていた。手に握らされた二枚のチケットのやり場に困って、桜咲子はそれを眺めながら呟いた。

「急にこれ勿体ないから使ってって言われても・・・ねぇ。なんだか、すみませんでした」

「いえ・・・」

「あっ!もしどなたかと行けそうだったらどうぞ。私一人じゃ、きっと行かないで無駄になっちゃいますから」

そう言って二枚とも板倉の前に差し出した。それを一枚だけ抜き取って、板倉が言った。

「せっかくですから・・・行きますか?一緒に」

「え?」

「きっと藤枝さんに気分転換してもらおうと思ったんじゃないですかねぇ?」

「私に?」

まさかの言葉に、桜咲子の目が見開いたままだ。こう言われてしまうと、聡美のこの好意を無駄にする訳にはいかない気持ちになってくるのだった。


 駅の改札で板倉と桜咲子が待ち合わせるが、お互いに何ともぎこちなさ漂う挨拶を交わす。スーツ姿ではない板倉に妙な新鮮味を覚える。

「僕の仕事の休みに合わせてもらっちゃって、すみませんでした。お休みって自由に取れるんですか?」

「自由って程でもないですけど、まぁ私一人居なくて困る仕事じゃないですから。人手人足の一人でしかないですから、人数が足りなくならなければ休めます」

決して盛り上がらない話題。終われば沈黙が訪れる。それをどうする事も出来ずに申し訳なく思う桜咲子が言った。

「せっかくのお休みにしたい事も色々あるでしょう。ごめんなさいね、付き合わせちゃって」

「大丈夫ですよ」

入口で館内の案内図を貰い、眺める二人。

「どこから見ましょうか?」

「・・・どうしましょうか・・・」

「イルカショーの時間まで、その近く回りますか?」

板倉の言われるままについて行く桜咲子。水槽の前で説明を読みながら時々補足する板倉に、桜咲子が聞いた。

「詳しいですね。もしかしてダイビング経験者ですか?」

一瞬目の奥に影が落ちる。しかし板倉は表情を変えずに答えた。

「横須賀育ちですから、子供の頃から海には馴染みがあって・・・」

「へえ~」

「それに子供の頃、海の生物の図鑑が好きで良く見てました」

「そうなんですか。子供の頃の記憶って残ってるものですよね」

「藤枝さんは水族館なんて、あんまり興味ないんじゃない?」

「そんな事ないですけど、あんまり来る機会もないから・・・」

周りを見回して、続けた。

「板倉さんはデートで来たりします?水族館」

「・・・代表的なデートスポットだもんね」

周りを見回して、はははと笑いながら言った。

 それから大きな水槽の中を悠々と泳ぎ回る魚達を見て回り、トンネルの水槽の中をゆっくりと泳ぐ亀やエイの姿を眺めては足を止めた。

「泳いでる亀とかエイのお腹見る事なんてないから、面白い」

「なかなか見る機会ないもんね」

段々とお互いの存在に違和感を感じなくなった頃、二人はイルカショーでの水しぶきに少し服を濡らし笑い合った。あっという間に感じたショーに興奮冷めやらぬまま、二人は昼食を摂る為レストランに入った。オーダーを終えた二人がメニューを置くと、途端に沈黙が通り過ぎる。その沈黙を埋める様に、お互いお水に口をつける。それでも尚続く間を持て余し、桜咲子が口を開いた。

「今日、お天気も良くて暖かくて良かったです」

「そうだね」

困った時は天気の話題に限る、そうどこかで聞いた事があるからだ。しかし板倉は相槌のみで終わってしまう。仕方なく、もう一度話題を引っぱり出す。

「板倉さんはお休みの日、何してるんですか?」

「・・・寝てるかな。・・・藤枝さんは?やっぱりお母さんの病院?」

「掃除して、洗濯して、母の病院に行って・・・」

そこまで言って、クスッと笑う。

「話せば話す程、地味な生活がバレますね」

「皆似た様なもんだよ。そうそうドラマみたいな生活してる人いないんじゃない?」

「それにしても私のは酷い・・・」

恥ずかしそうに笑って、話した事を後悔している桜咲子に板倉が言った。

「親しみ持てるけどね」

桜咲子の頬が少しほぐれる。

「まさか・・・からかわないで」

そう言いながらも嬉しそうな桜咲子。


 駅に戻ってくると、桜咲子が品川の方を指さした。

「私、こっちなんで」

「うん」

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ、どうもありがとう」

別々のホームに足を進めて、線路を挟んだ二人は少し気まずさを残しながら会釈をしてみせたりする。品川方面の電車が駅に入って来るのを見て、反対側のホームにいる板倉に桜咲子は遠慮がちに手を振った。すると、板倉も手を肩の辺りまで上げ 返事を返す。車内から下りホームの板倉に、思い切ってそっと手を振ってみる。すると板倉も、それに片手を軽く挙げて合図した。


 母の病院のエレベーター待ちをしながら、薬指にパールのリングをはめる桜咲子。桜咲子が病室に入ると、点滴のパイプに繋がれベッドに横になってボーッと天井を仰ぎ見る母。

「あら、どうしたの?今日は。早いじゃない」

床頭台の上の時計は5時を示している。

「早番だったの。今日は特別」

母の点滴に、いつもと違う見慣れぬ袋がぶら下がっている。

「どうしたの?これ」

「あぁ、そうそう。今日の午後からこれが一本増えたのよ。丁度良かった。家族が来たらこれからの治療法について話がしたいって先生が。ちょっと行ってみて」

見慣れぬ点滴が気に掛かるが、笑顔を母に返す桜咲子だった。


 ナースステーションで主治医がカルテを広げ、目の前には母の心臓のCTフィルムが煌々と照らされている。神妙な面持ちの桜咲子の周りでナースが動き回る。そんな中、医師と桜咲子の空間だけが止まって見える。時々頷きながら医師の話に耳を傾けていた桜咲子が、合い間を見つけ口を開く。

「その手術は難しいんでしょうか?」

淡々と医師は続けた。

「心臓外科では珍しくない手術です。年明け頃を予定していますが、術後の経過次第ですが、順調に回復すれば春には退院の可能性も出てきますよ」

「・・・・・・」

CT写真を見つめたままの桜咲子。

「手術と聞くと 慎重になられるご家族の方のお気持ちも良く分かります。その上私達も万が一の可能性の説明責任がありますから、先程の様な話をしなければなりませんからね。でも手術が出来るという事は、それだけお母様の病状も安定して体力もついてきたって事なんです。実際手術を受けたくても、他の合併症等の既往症があって、出来ない方もいらっしゃるのが現実ですから」


 多摩川に架かる橋の上を 桜咲子の乗る赤い電車が過ぎていく。川の両岸に見える明かりが、夜の闇に映える。真っ暗な川面に 走る電車がぼんやりと映っていた。


 寂しげな部屋の中で、いつもの様にストーブの前で暖を取りながら、天井を見上げて溜め息をつく桜咲子だった。


 次の日の仕事帰りに寄った母の病室で、昨日からの新しい点滴を受けている母の横で、いつもの様にベッド脇の丸椅子に腰掛けている桜咲子。

「希実子にも話したの?手術の事」

「昨日、電話でね」

「あんた達の方が心配でしょうね。ごめんね」

それまで極力笑顔を作っていた桜咲子の顔がゆっくり変わる。

「お母さんこそ・・・不安でしょ?」

桜咲子の淋しげな眼差しに、母はにっこりとした。

「お母さんなら平気。まな板の上の鯉。後の成り行きは、先生と・・・天にお任せ」

桜咲子の眉が寄る。

「こんな事言ったらかえって心配するかもしれないけどね。もし万が一これで何かあってもね・・・いいの。だって・・・お父さんとこ行けるんだもん。お父さんと結婚して、娘二人に恵まれて、一生懸命家庭を守ってきた。お父さんが亡くなる時だって、家族皆で見送ってあげる事できたし。それからの何年間かも 久し振りに社会人として働く事だって出来て、娘達ももうすっかり一人前に育ってくれた。希実子の花嫁姿見る事もできたし、孫だって抱けた。これでも結構幸せな人生だったのよ。あんた達から見たら、惨めな人生に見えるかもしれないけど」

胸がつまって言葉が出ない桜咲子は、笑う母の布団を軽く拳で叩いてみるのだった。


 職場のロッカールームで、一人椅子に腰掛け昼食のパンをかじる桜咲子。そこへ同僚の横山が現れる。

「これからお昼?」

ロッカーの中からカップ麺を取り出して見せる横山。それにお湯を注ぎながら桜咲子に話し掛けた。

「最近桜咲子、欠勤多くない?」

パックの牛乳をすする桜咲子が、目だけ横山を見る。

「今度の水曜も休み取ってるでしょ?人員カットされるってのに、こんなに立て続けに休んじゃ 印象悪くない?・・・お母さんの病院?」

パンを口へ運びながら、一拍置いてから首を横に振る桜咲子。

「じゃあ何よ。就職活動でもしてんの?」

『まさか!』と言った様子で、目を見開き顔の前で手を横に振る桜咲子。

「私用。でも覚悟はしてるよ。そりゃあ、この時期に休むんだもん」

時計を見てからカップ麺の蓋を開け、桜咲子の横に座る横山。歯で割り箸を割り、ズルズルと麺をすすった。


 『サニーレイン』のポスターが大きく正面に掲げられている映画館の中で、並んで座る板倉と桜咲子。二人の顔にスクリーンの光が反射している。


 映画館を出て歩く二人の頭上には、昼間だがどんよりと厚い雲が広がっている。

「今日も付き合って頂いて・・・すみませんでした。ありがとうございました」

「良かったね、終わる前に観られて」

「31にもなって一人で映画館に入れないから一緒に観に行ってもらえないか・・・なんて、ほんと駄目っていうか・・・失礼ですよね」

照れた様に笑って頭を下げる桜咲子に、板倉は笑顔を向けた。

「僕も映画久し振りだったんで・・・楽しかった。誘ってもらって良かったですよ」

「どうしても観たいなんて映画、そうそう無いんですけどね・・・。これはDVDじゃなくて、映画館で観たいなって・・・」

「確かにスクリーンで観た方が良い映画でしたよ」

「そう言ってもらえると、少しホッとします」

街中の華やかに飾られたイルミネーションが、クリスマスが近い事を知らせる。デパート入口の大きなツリーや、赤や緑のリボンを施されたショーウィンドウが 更に街の雰囲気を盛り立てる。

「クリスマスですね・・・もうすぐ」

桜咲子の口から、ため息まじりにそうこぼれた。

「周りばっかり賑やかで。僕の仕事はクリスマスとは無縁なんで、平日と何ら変わんないですよ」

「今さら聞くのも変だけど・・・」

歩道の真ん中で、ふと足を止め 板倉を見る。

「・・・一人ですか?」

少し進んだ所で気付き、立ち止まる板倉。

「・・・一人ですよ」

その背中がやけに淋しげに映る。慌てて駆け寄り、再び歩調を合わせる桜咲子。

「ごめんなさい。急に変な事聞いて。ただ・・・板倉さんの事何も知らなくて。もし奥さんとか・・・彼女とかいたら悪いなって・・・」

ただひたすら前を見たままゆっくりと足を進める板倉が、少ししてから無表情に言葉を吐き出した。

「決まった人がいても、こうして他の人と会う奴に見えるんだ?」

「いえ・・・そういう意味じゃ・・・。ただ単純に・・・」

言い訳をし始めた桜咲子の方に、くるりと向きを変える板倉。

「前の彼氏に裏切られたから、男は皆そんなもんなんだって思っちゃう?」

いつもより少し強めの口調と、挑発的な語尾に口をつぐむ桜咲子。二人の周りを、仕事帰りの人達が行き交う。

「そりゃあ多少は・・・男性不信になってるのかも。・・・多少じゃ・・・ないかな」

苦笑いをしてみせる桜咲子に、バツの悪い板倉が頭を下げた。

「ごめんなさい。意地悪言いました」

もう一度気をつけの姿勢で、軽く頭を下げる板倉に対し、桜咲子は笑顔で首を横に振った。しかし二人の間には 先程の様な無邪気な会話は無くなっていた。そこへ桜咲子の電話が鳴る。母からの着信を知らせている。

「こっち雪が降ってきたから、今日は病院来なくていいよ。帰れなくなったら大変だもの」

空を見上げる桜咲子。今にも雪が落ちて来そうな程どんよりと暗く厚い雲で覆われている。

「まだ会社だった?」

「うん・・・」

「こっちは平気だから、心配しないで。ちゃんと夕飯も食べるから」

「しっかり食べて体力つけてよ」

母との会話を終え、後ろめたい気持ちのまま 電話をしまう。

「お母さん?」

頷く桜咲子だった。


 日も沈み、真っ暗な多摩川の土手をゆっくりと歩く板倉と桜咲子。後ろには、橋を渡る馴染みの赤い電車が音を立てて行き過ぎる。

「ごめんね、連れ回して。雪が降るかもしれないってのに」

微笑んで首を横に振った桜咲子が、急に川の向こう岸を指さす。

「あっちの公園」

いつの間にか満面の笑みの桜咲子に視点を合わせる板倉。

「学生の時、友達と飲んだ勢いであそこの橋を渡って、向こうの線路沿いの公園まで行ってブランコ乗ってみたり・・・懐かしい。そしたら同年代位の男の子達が声掛けてきて、皆であの草っ原走って逃げたの」

遠い目をして無邪気な笑顔を浮かべる桜咲子。

「ナンパか・・・」

そう言われ、鼻でクスッと笑うと又付け足した。

「一緒に居た友達にね、可愛い子がいたんです。男の子にウケるっていうか。その子と一緒だと、大抵静かに飲めなかったなぁ」

「こっち狙いだったかもよ?」

親指で桜咲子を指さす板倉も対し、両手を振ってめいっぱいそれを否定した。

「ありえない。私はいつも引き立て役。そういうとこも昔と変わってないの」

おどけて見せる様に笑う桜咲子の顔に雪が舞い落ちる。

「あっ・・・」

空を仰ぐ無言の二人に、あっという間に雪が包む様に降り始める。時折電車が橋を渡る。再び遠い目をする桜咲子。

「二年前のクリスマス、雪が降ったの・・・覚えてますか?」

「・・・うん」

板倉も遠い目をしている。

「あの日私、羽田空港で彼を見送ってました。出発ロビーでね、彼言ってくれたの。『二年待ってて。淋しい思いさせるけど、帰ったらその分いっぱい幸せにするからね』って。『一緒になろうな』って・・・。それで私に指輪をはめてくれたの。よりによってどうしてクリスマスに出発しなくちゃいけないのって思ってた私に、あの言葉が最高のプレゼントだった。でも今思うと、クリスマスに別れなきゃいけないなんて、やっぱり縁が無かったのよね」

遠い目の板倉。その後ろには車内に煌々と明かりの点いた電車が橋を渡っている。

「ごめんなさい。又私の話しちゃった。惨めな思い出話。雪見たらつい・・・」

「・・・・・・」

「いっつも板倉さんの話聞こうと思うんだけど・・・。沈黙に負けちゃうのかな」

板倉が桜咲子を見る。

「ほら、前も言いましたよね?自分に自信が無いから、黙ってられると怖くなるっていうか。私との時間に退屈してるんだろうなって。だからって気の利いた話も出来なくて、結局つまらない私の話ばっかりしちゃって」

「自分で思ってる程、魅力無くないよ」

二人の目が合う。板倉の手がそっと桜咲子の手を包み込んだ。俯く桜咲子に板倉が呟く様に言った。

「冷たい・・・。寒い?」

首を横に振りながら顔をそむける桜咲子。目からはポロポロと涙がこぼれ落ちる。

「どうしたの?」

引きつった笑顔のまま首を傾げる桜咲子の手から、板倉の手が離れる。

「ごめんね、急に・・・」

首を振り続ける桜咲子に、雪は次第に本格的に 川面に吸い込まれる様に深々と降り続いた。


 共に駅まで帰って来た二人が、改札を出て 駐輪場の手前で足を止める。

「駅前のお花屋さんに寄るから、私今日こっち」

下に続く階段を桜咲子が指さしながら言うと、板倉は頷いた。

「積もってはいないと思うけど・・・自転車気を付けて」

「今日、自転車じゃないから」

「歩き?」

「もう雪も止んだし、のんびり行くよ」


 もう9時を回っているのに、まだ店先に沢山の鉢が並ぶ花屋の前で、桜咲子が板倉の方を向いて立ち止まる。すると板倉が先に口を開いた。

「どうぞ。待ってるから」

既に束ねられた三百円の花束を二つ持って、レジに行く。床に落ちている枝や葉を掃いていた女の店員が桜咲子の顔を見て笑顔で言った。

「いつもありがとうございます」

勘定を済ませ出てきた桜咲子の手に持つ花束を見て板倉が言った。

「やっぱり女の子だね。部屋に飾るの?」

桜咲子は恥ずかしそうに笑って首を横に振った。

「お父さん」

「お父さん?」

そしてクスッと笑って、言葉を足した。

「仏壇」

驚いた表情の板倉に、買ったばかりの小さな花束二つを鼻に近付けにっこり笑う桜咲子。

「仏壇に飾るんじゃないみたいでしょ、この花。母がずっとこうしてきたから。お父さんはもう居ないんだって思いたくないのかもね」

曲がり角に差し掛かり、立ち止まる桜咲子。

「私、こっちだから」

先程から急に顔を強張らせていた板倉が、桜咲子の花束をじっと見つめて口を開いた。

「僕は・・・藤枝さんに自分を重ねてるのかもしれない」

花に注がれた視線に気付く桜咲子。

「あ・・・お母さん?悪い事思い出させちゃった・・・」

「いや。藤枝さんのお母さんのその気持ち、僕分かる気するな。藤枝さんだってそう思うから、その花束買い続けてるんでしょ?」

桜咲子は再び、板倉の目の奥に暗いものを見つけた。


 今日は八景島シーパラダイスに、姉の希実子とその子供達と来ている桜咲子。5歳の雄大ゆうだいと3歳の和花のどかは芝生の上にレジャーシートを敷き、弁当を広げる。姉の希実子の手作りのおにぎりや卵焼き、唐揚げなどが弁当箱にぎっしりと詰まっている。

「本当にここで寒くない?中行かなくていいの?」

弁当を目の前に早速大口を開けて頬張っている子供達は、首を振った。

「子供は寒くないんだね・・・」

そう桜咲子がぽつりと言うと、雄大が空を思いっきり指さして言った。

「お日様も出てるし、あったかい」

桜咲子もにっこり笑顔を返した。

「そうだね。今日お天気良くて良かったね」

そして子供達はおにぎりの中味で盛り上がったりしている。その後ろには海に突き出したジェットコースターのレールが見える。

「ゆうは嫌いな物ないの?」

「ピーマン!でもね、この前幼稚園で スパゲッティに入ってたの食べられたんだ」

自慢げな表情の雄大。

「でもお兄ちゃんね、サラダのきゅうり残したんだよ」

すっかり口の達者になった和花。

「食べないとサンタさん来ないんだよ。ね?ママ」

「違うよ!5回の内3回食べたらいいんだよ」

子供達の掛け合いも、希実子にとっては日常茶飯事で、反応も鈍い。

「じゃ、のんは嫌いな物ないの?」

時々桜咲子が合い間に入る。

「こいつ、トマト!」

答えたのは雄大だ。

「のん食べたよ。オムレツに付いてたやつ食べたもん」

「バカ!あれはケチャップですぅ」

「バカって言わない!」

こういう時だけ希実子の声が鋭く飛ぶ。

「あれもトマトだって、ママ言ったもん」

子供達の言い合いに、希実子が溜め息混じりに桜咲子を見る。

「いっつもこんな。嫌になっちゃうね」

「私には羨ましいけど」

そう話す間にも、和花がムキになって、手に持っていたおにぎりが半分潰れて落っこちる。

「あ~もう!食べてる時は喧嘩しない!」

希実子の一喝で、子供達暫く大人しく食べ終える。おしぼりで手を拭いて靴を履いて芝生を駆け回る。すると、希実子が弁当を食べながら聞いた。

「出張に行っちゃった彼氏、いつ帰るんだっけ?」

「・・・帰んない」

「え?結婚の約束してたんじゃなかったっけ?」

「・・・なし、なし」

笑ってごまかす桜咲子。

「別れたの?」

駆けずり回る子供達を眺めながら、桜咲子は頷いた。

「お母さんには内緒なんだけどね」

そこへ和花がマフラーを外して置きに来る。そして又すぐ雄大の元へ駆けて行く。

「子供は風の子だ」

ふっと微笑みながら言う桜咲子。マフラーを鞄の上に乗せながら希実子が言う。

「ま、でも良かったかもよ。結婚して子供でも生まれたら、毎日こんな調子なのよ」

子供達を指さす。

「お母さんは、それを楽しみにしてるのよ」

二人で弁当の残飯整理をしながら、希実子が言った。

「今は?誰かいるの?」

はっきりとした返事を避ける様にお茶を飲むと、希美子が口を拭きながら言葉を続けた。

「正直ね、あんた結婚したら お母さんどうなっちゃうのかなって心配してたんだ。ほら、心臓やっちゃったでしょ。一人ってのは心配じゃない?だからって私は長男の嫁で、そろそろマイホーム買って同居って話も出てんのよ。そうなるとさ、あんたが婿養子取るか、一緒に住んでも文句言わない男探すとなるとさ、なかなか大変だもんね」

たくあんを奥歯で噛みながら続ける希実子。

「ま、桜咲子の事だから、ちゃんと考えてくれてるとは思ってるけどさ。急に『嫁に行きます』なんて言われてもさ、困っちゃうから」

慌ただしく弁当箱を片付ける希実子。

「うちは長男が居ないから、どっちか出来る方が親の事考えていかないと」

桜咲子、静かに溜め息をついた。


 八景島で半日遊んだ後、そのまま4人は母の病院へと向かった。ベッドの周りが珍しく賑やかだ。母も孫達に会えて笑顔が絶えない。

「雄大、幼稚園楽しい?」

「うん。今度のクリスマス会でハンドベルやるんだよ」

「ハンドベル?」

「ほら、こんな形した・・・」

希実子がゼスチャーで説明する。

「幼稚園でそんなのもやるの。楽しみだね。頑張ってよ」

「のんもママと一緒に見に行くんだよ」

「お婆ちゃんも行きたかったなぁ。『お兄ちゃん頑張れ』って、お婆ちゃんの分まで応援して来てね、のん」

「お婆ちゃんも一緒に行こうよ」

ねだる様に言って手をひっぱってみせる和花を、今度は雄大がひっぱった。

「バカ!お婆ちゃんはご病気で行けないんだよ」

「こら!バカって言わない!」

希実子が雄大のおしりをバッグでポンと叩くと、今度は和花だ。

「バカって言った人がバカなんだよ。ね?ママ」

「お前も今『バカ』って言った!」

雄大も妹に負けまいと必死だ。

「よしなさい!のんもそういう事いちいち言わないの」

希実子がそう言った後に、ハアと大きく溜め息を吐く。すると母が床頭台の下を指さす。

「この中にジュースが入ってるから、あげて」

リンゴとオレンジの紙パックのジュースを賭け、子供達はじゃんけんを始める。雄大がリンゴ、和花がオレンジのジュースにありつく。

「お婆ちゃんにありがとうは?」

「ありがと」

ストローに口をつける子供達を制する希実子。

「いただきますしなさい」

「いただきま~す」

ようやく静かになる病室。


 エレベーターの前まで子供達を見送りに来た母に、まず希実子が言った。

「じゃ、お大事にね」

「またね、お婆ちゃん」

雄大に続いて和花も手を振った。

「バイバイ」

「なかなか来られないけど、なるべく来る様にするから」

「無理しないでいいから。一真かずまさんに宜しくね」

「うん。ほら、お大事にって」

希実子がそう促すと、子供達が声を揃えて言った。

「お大事に」

エレベーターの扉が閉まるまで手を振っている子供達に、笑顔で手を振る母の顔は、いつになく嬉しそうだ。点滴をガラガラと押しながら病室に戻った母がベッドに再び横になるのを見届けた桜咲子は、丸椅子に腰掛けて言った。

「疲れた?」

しかし母はゆっくりと笑顔で首を横に振った。

「子供ってどんどん大きくなるわね」

「ほんと。のんなんかすっかり一人でご飯食べたり 靴履いたり、上手にコートのボタンはめてみたり。びっくりしちゃった」

「お喋りも上手になっちゃってね」

クスッと思い出して笑う母。

「羨ましいでしょう?あんたも早く中西さん、帰って来るといいわね」

桜咲子の指輪をチラッと見る母。さりげなく左手を隠しながら話題を変える桜咲子。

「お母さんもあの子達に会うの久し振り?私も・・・夏以来かな・・・」

「子供の3,4カ月は大きいわよ」

「ほんとだね。迷いなくどんどん前に進んでるもんね。駄目だね、大人は成長が遅くって」

顔では微笑みながら、後ろ手にそっと指輪を触る桜咲子だった。


 オペレーターの声が入り乱れた桜咲子の職場で、今日も変わらずにブースの中で パソコンの手を忙しく受注業務をこなしている。

「藤枝がお受け致しました。ありがとうございました」

腕時計を見てヘッドセットを外し伸びをする桜咲子に、後ろから横山が肩を叩く。

「次、桜咲子の番」

桜咲子は背もたれに寄り掛かる様にして振り向いた。

「時間通りだね。どうだった?面談。主任と一対一?」

頷く横山。

「私は結構要領のいい方だからさ、『この仕事にやりがい感じてます』みたいな、まぁそんなやる気見せといたよ」

自信に満ちた笑顔でピースサインをしてみせる横山だった。


 緊張した面持ちで応接室の扉をノックして名前を告げて中に入る桜咲子。勧められるままに腰掛けた向かい側には主任が座っている。今まで仕事上必要な時だけしか会話を交わした事のない30代半ばの主任という存在。改めて向かい合うと、妙に緊張が増す桜咲子だった。主任が暫し書類に目を通している間、桜咲子は目の前の主任を見ながら暇つぶしに色々思う。ワイシャツやネクタイからセンスの良さが滲み出ている。短髪で爽やかな印象だ。シャツにしわ一つ無い。結婚しているのだろうか。きっと几帳面な奥さんが居て、彼を毎朝気持ち良く仕事に送り出しているのだ。例えば小さい子供もいたりして、家に帰れば『パパおかえり!』等と玄関を開けたら笑顔が溢れて来そうな家庭があるのだろう。・・・しかし指輪は無い。結婚指輪をしていない。こういう家庭を大切にしそうな男の人は、普段から結婚指輪を外していたりしないだろうに・・・。そんな桜咲子の思考を止めたのは、主任の声だった。

「お母さんの具合どう?」

書類を手にした主任の視線が真っ直ぐに桜咲子へ注がれる。

「お陰様で今は安定しています。年明けに手術する事になりました」

「そう。心配だね。最近休みが増えたのも、それでかな?」

「あぁ・・・すみません」

「噂で聞いてるかもしれないけど、今回20名のカットを会社は考えてる。それで出勤態度、つまり欠勤の多い者からチェックが入る。藤枝さんもその20名に引っ掛かりそうなんだ」

俯く桜咲子。

「藤枝さんは派遣だから、再就職は心配ないのかな?何か資格持ってたっけ?」

「いえ・・・」

「そう・・・。でもOA全般OKでしょ?」

「いえ・・・」

「そう・・・。じゃ次見つけるのも大変だな・・・」

まるで独り言の様に呟いて、主任は書類を睨んでいる。

「でも私、こうなる事も覚悟してましたから。母の手術もありますし、どうしてもお休み頂く事になりますから」

心配顔の主任。

「何か次、当てでもあるの?」

「いえ、全く。でも・・・大丈夫です」

そう答えて、桜咲子は笑顔を向けた。すると主任が一旦書類を置いた。

「結婚の予定でもあるの?」

キョトンとする桜咲子だったが、次にクスッと笑った。

「いえ。そういう意味の『大丈夫』ではないです」

すると両手を膝の間で組み、少し身を乗り出す主任。

「今、話を聞いてくれる人はいるの?」

「え?」

と小首を傾げる桜咲子。

「力になりたいんだ。何かあったら、いつでも言って。遠慮しなくていいから」

そう言って優しく微笑んだ。


 街中の大人も子供も何となくふわふわ浮足立っている様に感じるクリスマスイヴ。今日も定時まで仕事をこなし、タイムカードを押す桜咲子。

「お疲れ様でした。お先、失礼します」

廊下に出てエレベーターの『↓』のボタンを押して待つ間、桜咲子は鳴らない携帯を眺めた。その時背後でドアが開き、足音が近付く。

「今日、飯でもどう?」

隣に並んだ主任を見上げる。

「これから母の所に・・・」

「いいよ。待ってる。何時?」

「いえ・・・。急ぎですか?」

「いや。分かった。じゃ、又今度にしよう」

エレベーターに乗り込んだ桜咲子が恐縮して頭を下げるが、廊下でにっこり笑う主任。

「お疲れ」

ドアが閉まった後で、主任は廊下で溜め息をついた。


 病院からの帰り道。品川の街でほろ酔いのOL、学生、サラリーマン達とすれ違う。やはり今日はカップル率が高い。腕時計は8時20分を指している。桜咲子は日東ホームの方へ足を進めた。店の前で立ち止まる。店内に明かりは点いているがブラインドは下り、ドアには『CLOSED』の札が掛けられている。小さい溜め息を漏らすと、桜咲子は駅へ向かった。


 いつもの電車に揺られ、吊り革につかまりながらぼんやりと窓の外の景色を眺める桜咲子。

「空港線ご利用のお客様は・・・」

突然聞こえてきた車内アナウンスに、桜咲子の記憶が2年前へと飛んだ。


 羽田空港の出発ロビー。スーツに紺のPコートを着た中西が少し若い桜咲子の手を握る。

「二年待っててな。淋しい思いさすけど、帰ったらその分いっぱい幸せにしてやるからな」

涙でびっしょりの桜咲子を、中西は優しく引き寄せて抱きしめた。

「一緒になろうな、絶対」

コートのポケットから取り出した指輪を、桜咲子の左手の薬指にそとはめた。

「これ、二人の約束のしるし」

左手の甲に桜咲子の涙の雫が一粒落ちた。


 次の日桜咲子は仕事の休憩時間に、誰も居ないロッカールームで携帯を取り出す。アドレスから『日東ホーム』を探し当てて耳に当てる。

 一方日東ホームにはカウンターに何名かの客がいる。その接客をする従業員が2人。板倉は奥でパソコンをいじっている。そこへ鳴った電話に、板倉が近くの受話器を上げた。

「はい、日東ホーム品川支店、板倉です」

「藤枝です」

「あぁ、どうも」

明るい声を出す板倉。

「お忙しいところ、すみません」

「いえ、大丈夫ですよ」

「何か良い物件・・・ありました?」

「探してはいるんですが、なかなか。でももう少しすると物件が動く時期になるので、もう少しお時間頂けますか?」

店に客が訪れる。板倉は会釈をしてカウンターの椅子を勧める。板倉の耳に当てた電話からは、藤枝の声が続く。

「年内、お仕事いつまでですか?」

「年内営業は29日迄です。年明けは5日から営業致しますので、又宜しくお願い致します」

手の空いた女性社員に、板倉はデスクからプリントを一枚渡し、ゼスチャーでコピーを一枚取る様指示を出す。

「あの・・・又・・・お休みに入ったら・・・」

「わかりました。又ご連絡させて頂きます」

その時、誰も居なかったロッカールームのドアが急に開いて横山が入ってくる。桜咲子も心なしか背筋を伸ばして、受話器に言った。

「では又良い物件がありましたらFAXにでも、連絡下さい」

電話を終える桜咲子の背後で、横山は自分のロッカーを開けながらそれを気にしている。

「家探し?」

「うん」

携帯をしまいながら桜咲子が返事を返す。

「仕事が切れるかもしれないってのに、引っ越しなんて余裕じゃない」

「そういう訳じゃないけど。母親の帰って来る場所作っとかないと。今ん所じゃ、ちょっと厳しいんだ」

「大変なんだね。桜咲子は結構貯めてんだ?」

驚いた表情でそれを否定する。

「まさか。毎月の医療費って結構馬鹿になんないもん。今は母親のお給料も無いし、保険から出る給付金で助かってる位・・・」

手にしていた煙草に火を点ける横山。

「じゃあ尚更ここの人事、深刻だね」

空気清浄器に煙を吹きかける横山。

「まぁね。でも主任が力になってくれるって言ってたし」

「え?」

「今度ゆっくり話でもって言われてるんだ」

「ふうん・・・」

怪訝な表情で桜咲子を眺める横山だが、それに気が付いてはいなかった。


 街の商店街があちこちで活気を帯びる。年末の買い出し客で賑わう。福引所にも人の列が出来たりしている。魚屋や八百屋の威勢の良い呼び込みの声が響く。そんな雑踏から逃れる様にして、今日は

板倉と桜咲子は野比海岸に来ていた。海岸沿いの遊歩道を歩きながら、板倉が言った。

「暫くぶりに来たけど、随分整備されて綺麗になったなぁ。昔は何も無いただの海岸だったのに」

「子供の頃?」

「大人になっても ちょいちょい来てたよ。とにかく昔っから海が好きでさ」

立ち止まって、愛おし気に海を眺める板倉。

「砂浜、下りてみていい?」

砂に少々足を取られながらも二人は、砂浜を踏みしめて歩いた。時折吹く12月の海風が、二人の体温を奪っていく。無言のまま歩いていると、急に桜咲子がフッと笑った。

「また自分の話 しそうになっちゃった」

「いいよ」

いたずらな笑顔の板倉に対し、桜咲子は首を横に振った。

「板倉さんが自分の話しないのは・・・私だからかな?それとも・・・」

「そんなに喋ってないかなぁ?自分の事」

軽い口調の板倉に、つられて笑う桜咲子。

「私が立ち入ろうとし過ぎなのかな」

返事は無い。そのまま板倉は水辺に近付いていった。

「人って、知らない方がいい事もあるよ」

淋しい目で海の向こうを見る板倉。弧を描く三浦海岸の景色が広がり、対岸には内房の山並みも薄っすらと輪郭を現す。

「それでも知りたくなるのが人でしょ?」

その場にしゃがみ込んで、砂をいじる桜咲子。

「結構つっ込むね」

おどけて見せる板倉が、足元の貝殻を拾う。

「ほら。子供の頃こうやらなかった?」

そして貝を耳に当ててみせる。

「どうして海の音が聞こえるんだろう?」

同じ様に貝を耳に当てて、桜咲子は板倉を見た。二人の間の隙間を埋める様に、寄せては返す波の音が続く。どこか遠く感じる板倉をごまかす様に、桜咲子が言った。

「ここにこうして居ると、年末の慌ただしさも忘れちゃう」

「昔はよく時間を忘れて、ずっと居たな・・・」

桜咲子は、板倉の横顔を見つめる。

「いつから・・・板倉さんの中で時が止まってるんだろう・・・」

「海自体、2年振り・・・」

立ち上がって伸びをする板倉を、桜咲子は見上げて聞いた。

「海に・・・悲しい思い出があるの?」

「いや逆だよ。海には楽しい思い出しかない。前も言ったけど・・・ダイビングと同じ。自分から取り上げたんだ」

桜咲子は言葉を選ぶ様にして話を続けた。

「ストイックな人なんだ・・・。何だか違う人みたい」

「違う人?」

「さっき貝を耳に当てて『海が好きだ』って話してくれた優しい顔の板倉さんと、まるで別人だなと思って」

桜咲子の手の中にある先程の貝殻を見つめていると、それに板倉が手を伸ばし、感慨深げに眺める。

「この海岸だって変わったんだもんな。自然と変わっていかなきゃいけない事もあるね、きっと」

すると桜咲子もそれに共感する。

「頭じゃ分かってるんだけど」

手で砂をすくってサラサラとこぼしてみる桜咲子。板倉は足元の砂を軽く蹴飛ばしながらぽつりと言った。

「体が言う事聞かねえんだ」

少し悔しそうな表情の板倉を見上げてから、桜咲子は黙ったまま砂遊びを繰り返す。板倉の心の奥にある影の正体は何なのか、こんな時どんな言葉を掛けたらいいのか戸惑う桜咲子だった。すると隣にすっとしゃがんで、板倉は桜咲子のこぼす砂の下に手を差し出した。

「もうそろそろ現実を受け入れなきゃって、思ってはいるんだけど・・・」

「うん・・・」

独り言の様に頷く桜咲子が、ついで板倉も海の水面に視線を飛ばす。小さな凪が立っている。板倉が手の中の砂を握り潰す仕草をし、その下に出来ている砂の山をもみくちゃに崩した。

「過去ん中に閉じこもってる自分を持て余してるんだよ」

険しい表情の板倉を、波の音が包み込んだ。


 白い木造の海岸沿いのレストランで、コーヒーとココアのカップから湯気が立ちのぼる。大きくと取られた窓からは、まるで絵画の様に海が映える。少々西日が当たっている水面に陽がキラキラと反射している。その景色を挟む様に座る窓際の席の二人に会話は無く、食器の音だけがする。コーヒーを一口すする板倉が、ちょっといたずらっぽく言った。

「ほら、自分の話してよ」

少し口を尖らせ、すねてみせる桜咲子。

「しません!」

「違うって。聞かせてよ」

「急に言われても何話したらいいか・・・。軽い話出来ないし・・・」

「いいよ。重くて」

ココアを一口飲んでから、桜咲子は鞄からパールの指輪を出して見せる。

「私、母にね、会う時だけしてくの」

そしてゆっくりと、板倉はその指輪を指して言った。

「彼を待つ女の子を演じる為?それとも、やっぱりまだ過去に出来ない?」

今度はゆっくりと桜咲子が首を傾げて言った。

「正直、過去にしたい・・・が本音かな」

「ちょっとこれ貸して」

板倉の手の中に指輪が包まれる。窓の外の赤く染まり始めた海を見てから言った。

「ちょっとおいで」

急に席を立ち、桜咲子の腕を掴んだ。


 板倉に腕を引っぱられる様に歩道を走る。桜咲子のコートがなびいている。そして海岸道路沿いの一軒の店に勢いよく駆け込んだ二人を、入口のドアベルがカランと どこか懐かしい音色で出迎える。貝殻やシーガラスを用いた雑貨が所狭しと並ぶ店内で、指輪を物色する板倉だ。まだ桜咲子の息も上がったままだが、板倉の腕も桜咲子を掴んだままだ。板倉が手に取った小さな貝殻の付いた指輪を、桜咲子の前に差し出す。

「指・・・いくつ?」

ボケッと呆気に取られている桜咲子を、板倉がせっつく。

「ほら、ここ。サイズ」

左手の薬指を指している。若い女の店員が近付いてくる。

「サイズ、お探ししますよ」

にっこり店員に微笑まれ、桜咲子もようやくハッとするのだった。


 今買ったばかりの指輪が桜咲子の指にはまっている。再び海岸道路を歩き始めた二人を、西に傾いた真っ赤な夕日が照らしている。桜咲子の頭と気持ちが整理されていない。何がどうなって、今の状況なのか。嬉しいのか。板倉はどんな意味でこれを買ったのか。次々と頭の中で押し寄せる疑問も消化しきれない桜咲子がいる。すると、振り返って立ち止まり、パールの指輪の穴から桜咲子を覗く板倉。

「これ、預かっててもいい?」

指輪が自分の手元から離れていこうとしている事に不安を覚えた桜咲子が手を伸ばそうとすると、顔の前から一瞬にしてその指輪が消えた。

「鍵は・・・預かっとくよ」

そう言って、片方の手の平に握り隠した板倉の目が、しっかりと桜咲子を捕らえていた。


 帰りの電車に揺られ、車内アナウンスがもうすぐ板倉の下りる駅が近い事を知らせる。

「これから品川か。大変だね」

母のお見舞いに行く桜咲子を車内に残して下りる板倉に、桜咲子が真剣な眼差しを向けた。

「ねぇ・・・」

シートから腰を浮かそうとしていた板倉が、立ち上がるのをやめた。

「私にも・・・板倉さんの鍵、預からせてもらえない?」

「・・・・・・」


 次の日の夜明け前、桜咲子は高速道路の上を渡る橋の上からぼんやりと景色を眺めている。こんな朝早くから高速を通る車は意外にいるものだ。桜咲子の吐く息が白い。首にぐるぐるに巻かれたマフラーに、更に顔をうずめる。桜咲子が昨日貰った指輪をしげしげと眺めていると、そこへ板倉が現れる。

「おはよう」

ゆっくりと桜咲子に近付いてくる。

「こんな早くに、ごめんね」

ゆっくりと首を振る桜咲子。

「こっち」

桜咲子が板倉の後について歩いていくと、マンションに到着する。

「ここ」


 板倉の住むマンションの屋上に上がってくる。

「こっち」

板倉はそう言って東の方角へ桜咲子を案内する。空が白々と夜が明けかけている。板倉は時計を見てから言った。

「あと5分位かな。ここから朝日が昇るの見えるんだ」

二人共ただ黙ったまま、遠くの空へ視線を投げる。徐々に赤く染まり始める空。そして雲からぽっかり生まれた様に鮮やかで輝かしい朝日が姿を現す。暫くの間無言のまま、朝日が東の空へ昇って行く様を見つめる。

「凄い。綺麗・・・」

板倉がどこか悲しい目をしている。それに気付きながらも、あえてそこには触れない桜咲子だった。

「私 夕日はよく見るけど、朝日は数えるくらいしか見た事ないから、感激しちゃった」

ようやく桜咲子に顔を向け、にこりとする板倉。

「こっち来てみて」

西の方角へ桜咲子を連れて行く。

「あそこ。ほら、見える?富士山」

板倉の指さす先をじっと見つめると、桜咲子の顔がパアっと明るくなる。

「へぇ。富士山まで見えちゃうんだ」

笑顔で頷く板倉。

「もう少し時間が経ってからだけど、朝日に照らされてる富士山って綺麗なんだよ。知ってた?」

首を振る桜咲子。

「夕日に染められた富士山しか見た事ない。私、あの景色大好きなんだ」

「また おいでよ。こっからならバッチリ見えるから」

どんな意味で言っているのだろうと、桜咲子は目の前の板倉の表情を注意深く見つめるが、まるで気に留める様子のない板倉に、そこに深い意味がない事を知る。そして屋上をぐるりと歩いて回る桜咲子。

「山下公園の方も見えるんだぁ。あっ、じゃあ花火大会 ここからも見えるの?」

親指を立てて頷く板倉。

「ここの人達、椅子とかビール持ってきて結構見てるよ。穴場だね」

桜咲子が再び東の空の朝日を見つめた後、くるりと板倉の方を振り返る。

「今日は・・・これを見せてくれようと思ったの?」

「いや・・・」

急に顔から笑みが消え、顔をそむける板倉。

「板倉さんの鍵って・・・」

板倉はさっき上がってきた非常階段へと足を進める。

「こっち・・・」

深く息を吸ってから後をついていく桜咲子。そのまま階段で6階に下り、エレベーター脇の部屋の玄関に鍵を差し込む板倉。ドナルドダックのキーホルダーが揺れている。びっくり箱が開くのを待っている様な気持ちで、桜咲子の心臓が音を立てて脈を打つ。

「上がって」

靴を脱いで上がったフローリングの床が足に冷たい。短い廊下を抜け通された部屋には、オレンジ色のカーテンと同系色のソファカバーが掛かっていて、TV台等至る所にディズニーキャラクターの小物が置かれている。桜咲子のそれまで知っている板倉とディズニーのイメージがどうしても一致せず、想像以上の内容が待っている様な怖い気持ちになるのだった。

「ごめん。散らかってるね」

床に無造作に置かれた新聞を拾い上げテーブルに置き、脱ぎ捨てたパジャマなのかトレーナーとスウェットを掴んで寝室へ投げ込む板倉。ドアの開いているその部屋から、黄色いストライプのカバーがダブルベッドの上でぐちゃぐちゃになっている様子が桜咲子の目に飛び込む。そしてインスタントコーヒー片手に、キッチンから板倉が声を掛けた。

「今コーヒー入れるから、適当に座ってて」

手作り風のカバーのついたクッションを両手で丁寧にどかし、桜咲子はフローリングの床に腰を下ろす。キッチンで板倉が声を上げる。

「あ、コーヒー飲まない人?」

カップにはもう既にインスタントの粉が入っている。

「大丈夫。頂きます」

「砂糖とかミルクは?・・・って言っても牛乳だけど」

湯気の立つカップを両手に運んでくる板倉。

「ごめんね。紅茶もミルクもなくて。俺いつもブラックだから」

「平気。気にしないで。コーヒー、ブラックでも飲めるから」

精一杯の笑顔を返す桜咲子。するとすぐさま板倉が言った。

「冷えきっちゃったでしょ?ごめんね。朝っぱらから呼びつけて」

正座でコーヒーをすする桜咲子の足元に気が付いた板倉が、慌ててカップから口を離した。

「床冷たいでしょ?ソファ、座って」

「ありがとう。でも・・・大丈夫です」

二人掛けのソファに目をやる事なく、桜咲子は頭を下げた。すると今度は板倉が急に立ち上がった。

「あっ、エアコンか。ごめん、気利かなくて。寒いよね」

リモコンを押し 元の位置に座っても、何か落ち着かない様子の板倉。それを見て桜咲子が肩を震わせて笑った。

「何だか・・・よく喋ってる」

「そう?」

上目使いに板倉を見て、また吹き出す。

「まるで別人みたい。双子の兄弟がいるって言われたら、信じちゃいそう」

板倉は首を傾げながら言った。

「緊張してんのかな。・・・裸の自分見られてるみたいで」

桜咲子の表情がすっと真顔になる。すると板倉は両手を広げて見せた。

「これが俺の過去。・・・全て」


「どう?調子は?」

母の病室に 手にビニール袋を提げて入ってくる桜咲子。

「せっかくのお休み、毎日来てもらって悪いねぇ」

桜咲子は笑顔でそれを受け流すと、ビニール袋から鉢植えを取り出す。

「お母さんのサクラソウ、ベランダで咲いたから 一つ持ってきちゃった」

ピンクの小花が小さく揺れる。床頭台の上を整理しながら花を置く場所を作る桜咲子。その様子をじっと見ながら母が声を掛けた。

「ねぇ・・・」

「ん?」

「あんた、中西さんから頂いた指輪どうしたの?」

ドキッとして一瞬手が止まる桜咲子。

「昨日から気付いてたんだけどね・・・。どうしたの?その指輪」

板倉に貰った指輪を見つめる桜咲子。

「何かあったの?中西さんと」

「お母さん・・・あのね・・・」

椅子に腰掛ける桜咲子の横を、突然看護師が通り過ぎる。

「藤枝さん、点滴変えますね。あ、こんにちは」

点滴を交換する手を動かしながら、看護師が母に話し掛ける。

「いいですね。毎日娘さん来て下さって。あら、綺麗。それ・・・サクラソウ?」

「そうなの。ベランダで咲いたからって、持ってきてくれたの」

「あらぁ、いいじゃない。やっぱりお花があるだけでパッと明るくなりますね」

桜咲子も加わる。

「植木は母の唯一の楽しみなんで」

「じゃお家にはいっぱい?」

母は笑いながら説明した。

「狭いベランダなのにね、ちょっとずつ買ってたら 気が付いたら溢れる位になっちゃって」

「いいじゃない。順番にここに持ってきてもらったら?」

空いた点滴を持って、看護師は病室を出る。

「それで?何、どうしたの?」

桜咲子はとっさに目を逸らし、作り笑顔を絞り出す。

「別に。この間ちょっと久里浜の方に遊びに行ってね。可愛いから買っちゃったの。どう?」

不必要に妙にはしゃいで、指輪をしている手を広げて見せる桜咲子。しかし心配そうな母の顔は変わらない。

「中西さんから連絡あるの?」

「またその話。大丈夫だから、心配しないでって」


 大晦日の夜。こたつでカップ麺を年越しそば代わりに食べながら、ぼんやりと紅白歌合戦を見ている桜咲子。


希実子はおせち料理の支度に追われている。夫はソファに腰掛けビールを飲みながら時々テレビのチャンネルを変える。子供達はパジャマ姿で、その周りを走り回っている。


 消灯後の病室で 枕元の電気だけが灯っている真っ暗な病室。カーテンで囲われたベッドの上で、眼鏡をかけ本を読んでいる母。しかし間もなく本と眼鏡を置き、電気を消す。床頭台の上のサクラソウをぼんやりと眺める母。


 横須賀の繁華街では、大晦日の盛り上がりが街中を賑わわせる。飲み屋をはしごする者。テンションの高い米軍基地のネイビー達。奇声を発する者など。雑踏の中に板倉がいる。男仲間数名と、笑いながら歩いている。


 日本中の所々で除夜の鐘が響き渡る。夜の街にこだまする。桜咲子は相変わらずこたつに入り、テレビをぼんやりと眺めている。テーブルにはむきかけのみかんと携帯電話。愛おしげに指輪を見つめ、チラリと鳴らない携帯に視線を落とす。そして静かに溜め息を漏らした。


 元日の昼食が母の病室に届く。テーブルの上に置かれたメニューを、桜咲子がまじまじと覗き込んだ。

「へぇ~、病院でもおせちみたいな献立出るんだぁ」

すると母は黒豆の器を差し出した。

「食べる?あんたどうせ、おせち食べる機会ないんでしょ?」

 母が綺麗に食べ終えた食器を桜咲子が下げ、病室に戻るなり母が言った。

「近所の観音様でいいから、お母さんの分まで初詣行っておいてね」

「あ・・・そうだね」

「どうせ一人だから、初詣なんかいいやって思ってたんでしょ?」

苦笑いの桜咲子。

「あんたも、せっかくのお休み、お友達と出掛けたら?何日かここ来なくたって お母さん変わんないから」

桜咲子はサクラソウを指で触りながら言った。

「皆忙しいのよ。田舎に帰ったり、所帯持ちは親戚に挨拶回りだし、独身貴族は海外旅行だしさ。だから私は、のんびり気ままなお正月を過ごすって決めたの、今年は。ここ位来る所ないと、引きこもりになっちゃうから」

笑ってみせる桜咲子と反比例の母の表情。

「中西さん、お正月も帰って来ないの?」

「去年だって戻らなかったじゃない」

そして鉢を持って立ち上がる。

「お水あげてくるね」

心配顔の母は、桜咲子が戻って来るのを待ち構えて言った。

「高知に会いに行ったら?」

「何言い出すのよ、急に」

花びらから落ちた雫をティッシュで拭う桜咲子。

「だってあんた、一度も自分から会いに行ってないでしょ?」


 帰りの電車の中で、母の言った『だってあんた、一度も自分から会いに行ってないでしょ?』が桜咲子の耳の奥でこだまして離れない。今日も変わらない景色の中、桜咲子を乗せた電車は多摩川の橋を走り抜けていった。


 正月二日目、母に言われた通りに観音様に初詣に来た桜咲子だった。大勢の人でごった返している。長い列に並び順番を待つ。ようやく回ってきた順番に、桜咲子は深呼吸をしてからお賽銭を入れ、鈴を鳴らし手を合わせる。やはり何よりも一番のお願いは母の手術の成功だ。人の流れに乗って進み、お守りの前で立ち止まる。身代わり厄除けのお守りを手に取るが、健康祈願に持ち替える。

「すみません、これ一つ」

待っている間に、恋愛成就のお守りにも目が留まる。しかしすぐさま桜咲子の頭の中にモヤモヤとした重たいものが打ち消しに来る。母のお守りを受け取ると、慌てて向きを変え、家から持って来た去年のだるまを奉納の箱に入れ、新しい小さなだるまを買う。しっかりと片目だけ入っている。帰り際、おみくじの前で足を止めた。するとその時、桜咲子を呼ぶ声がする。

「こんにちは」

振り向くとそこには、人混みの中に驚いた顔の板倉が立っている。そして横には、初老の痩せた男が少々弱々しく立っていた。

「一人?」

「あ・・・母に頼まれて・・・」

少しバツの悪い心地を隠しながら、桜咲子の目線が初老の男へと飛ぶ。

「父です・・・」

慌てて背筋を伸ばして、桜咲子は頭を下げた。

「初めまして。藤枝です」

すると父親は桜咲子をじっと見て会釈を返した。妙な間を板倉が埋める。

「店のお客さん。たまたま同じ駅で・・・」

すると父が頭に被っていたベレー帽を脱ぎ、深々とお辞儀をした。

「息子がいつもお世話になってます」

桜咲子ももう一度深く頭を下げた。

「こちらこそ、お世話になってます」

すると今度は板倉が、桜咲子のだるまの入った手提げ袋に目をやり、

「もう帰るところ?」

頷く桜咲子。そこへ父が急に口を開いて、元気な声を上げた。

「おお風太。俺のお守り、何か適当に買って来てくれよ。並んで待つの面倒臭えや。ここに居っから」

「凄い人出だから迷子になるぞ」

二人のやり取りを見ていた桜咲子が、口を開いた。

「あ、じゃあ私、ここに居ましょうか?」

「頼みます」

そうすぐに返事を返したのは、板倉ではなく その父だった。

「何だか悪いな」

「いいから、お前は早く買ってこい」

父は板倉を急かす様に、追い払う手つきをしてみせる。そして時折人混みに押されながら待つ父と桜咲子。

「横須賀からいらしたんですか?」

「ああ。聞いてますか?」

「はい。以前ちらっと」

「お嬢さんとうちのは、もう長いんですかね」

「え?いえ、あ・・・先月・・・」

「変な事聞いてすんませんねぇ。俺もあいつの事は気に掛かってるもんで」

神妙な面持ちで頷く桜咲子。

「あいつの話・・・息子から聞いてますか?」

「いえ・・・詳しくは・・・」

「そうですか・・・」

溜め息と共に父は足元を見つめた。行き交う人達が砂利を踏みしめる音が響く中、父が決して大きくない声で言った。

「あいつも・・・大っきな荷物、背負ってるもんでねぇ・・・」

桜咲子の頭の中で、先日の板倉のマンションでの光景が再生される。オレンジのカーテン、手作りのクッションカバー、ダブルベッドと黄色いカバー。そして至る所にあるディズニーキャラクター。

『これが俺の過去・・・全て』

板倉の言葉を思い出しながら、桜咲子は父の横顔をじっと見つめた。


 初詣から戻った父親は、マンションの部屋の床にあぐらをかいて座り、部屋中をキョロキョロ見回した。そんな事も知らず、花柄の急須でお茶を入れ、父の所へ運ぶ板倉。

「お疲れ。くたびれただろう?」

板倉もあぐらをかいて座り、TVをつける。TVからは箱根駅伝が流れる。そして父が言った。

「この部屋も相変わらずだなぁ」

「毎日仕事忙しくて、寝に帰るだけの部屋だよ」

父はテーブルに置かれた花柄の急須を見ながら言った。

「まだ忘れられんか?」

TVからは興奮した実況中継が流れる。

「親父は、母さんの事 もう忘れた?」

「・・・・・・」

「そう簡単じゃないよ」

父はポケットから煙草を取り出して聞いた。

「灰皿あるか?」

灰皿を取りに立ち上がると、父は煙草に火を点けた。そして戻った板倉に、

「今日のお嬢さんには・・・話すのか?」

板倉が一度父の顔を見て、又目を逸らした。

「ただの友達だよ。ただ・・・何となく俺と似てるとこがあるっていうか・・・ダブって見える時がある。それだけだから」

TVの画面が煙草の煙で霞む。

「まぁでも、ここに住んでるのは良くねぇな、やっぱり」

首をひねる父。奥歯を噛みしめる板倉。

「親父だって、あの家引越さないじゃないか!」

「俺とおめえは違う」

短くなった煙草をもみ消しながら、父は続けた。

「おめえはまだ若い。子供もいねぇ。きっと美帆さんも分かってくれる」

板倉はそっぽを向いて、あからさまに不機嫌な顔をした。


 三浦半島の西側に位置する荒崎公園へ向かう板倉と桜咲子は、バス停に降り立った。漁村の風景に正月4日目、人通りは少ない。お休みの間にもう一度会えないかと、桜咲子から電話をした事がきっかけとなっていた。先日板倉の家で見た過去について、とてもそれがどういう事なのかを聞ける雰囲気ではなく、曖昧になってしまっていた。それを今日こそはしっかり聞かせてもらおうと、覚悟を決めて桜咲子は誘っていたのだった。聞いたところで、果たして自分に受け止められるだけの器量があるのか自信は無かったが、板倉の心の鍵を預からせてもらえないかと言ってしまった以上、中途半端に向き合う事を避けてはいけないと思う桜咲子だった。

 二人が歩いて行くと次第に、白い頁岩と黒い凝灰岩が織りなす大自然の造形美が姿を現す。険しい岩肌に圧倒されながら、桜咲子は板倉の背中を見ながら後を追った。公園内の芝生に覆われた広場や展望台が見えると、ようやくちらほらと人が見え始める。入り江に近付き覗き込む二人。

「ここ、どんどん引きって言うんだ」

「どんどん引き?」

「ほら」

目の前の入り江に、打ち寄せた海水がどんどんと引いていく。

「ここも、海水が岩を侵食して出来たんだ」

暫し、打ち寄せては引く潮の様に見とれる桜咲子。岩場の海岸沿いを歩きながら、板倉が言った。

「小さい頃、この辺はよく親父に連れて来てもらったんだ。良く覚えてる」

「本当に海で育ったんだね」

歩きながらの会話が続く。

「この間母親に、遠距離の彼に・・・会いに行ったら?って言われちゃった」

「会いに・・・か」

「私この2年間、一度も自分から会いに行ってないの。ただ待ってるだけで。今まで捨てられたみたいに思ってたけど、その元を作ってたのは私の方だったんだよね」

少し言葉に詰まる桜咲子の横顔を板倉が遠慮がちに見る。すると、少しして又言葉がこぼれ出す。

「会いに行きたかったけど・・・そりゃあ何度も何度も会いに行きたかったけど・・・、重たい女になりたくなかった。仕事で頑張ってる彼の負担になりたくなかった。遠くから健気に支えてる可愛い彼女っていうのに、必死でなろうとしてたんだと思う。今思えば、淋しい思いもきっと沢山させちゃったし、自分の気持ちも伝えて来なかったんだと思う。私は自分が淋しいって事しか考えてなかったけど、彼の方が知らない町で戦って・・・心細かったし孤独だったんだと思う。酷い事しちゃったなって・・・遅いけど、今頃気付いた」

力無く笑ってみせる桜咲子に、傾きかけた日が差していた。


 園内の夕日の丘から、板倉が海の向こうを指さす。

「ほら、富士山」

ダイナミックな夕日に目を細め、暫く富士山を見ながら立ち止まる。

「又私の話だけど・・・」

「いいよ」

板倉が桜咲子に笑顔を向けた。

「うちの会社、今首切りしててね。私、もしかしたら危ないの」

「あれ?派遣じゃなかった?」

「そうなんだけど、私、何の取り柄もないから、首切られたら 次の仕事見付かるか分かんないの。だからね、将来の為に何か資格でも取ろうかと思うんだけど・・・恥ずかしい話、私この年になって自分のやりたい事も分からないの」

「そんな急に、目標なんて見つかるもんじゃないよ。しかも ついこの間まで、結婚して家庭の奥さんになろうと思ってたんだし」

「男の人には分からないのかもね。女が30過ぎて結婚の予定もなく、仕事のキャリアもない心細さなんて」

夕陽が刻一刻と沈みかけている。板倉の顔が急に桜咲子の目の前に重なる。そして二人の唇が重なった。相模湾に沈んでいく夕陽が、富士山をオレンジに浮かび上がらせる。空も色を染めている。二人が離れた頃には、夕陽はもう半分以上姿を消していた。無言の二人。俯く桜咲子。その様子をチラッと見てから、板倉が海を見つめながらボソッと呟いた。

「ごめん・・・」

「・・・どういう意味・・・?」

悲しい瞳で桜咲子は板倉の横顔を見つめた。しかし返事をする事なく、板倉はずっと海の彼方を見つめている。今のキスは藤枝桜咲子という一人の女性に対しての愛情表現なのか。それとも板倉の中の過去の幻影の身代わりなのだろうか。それとも惨めな今の話に同情したのだろうか。『ごめん』とは、気持ちも無いのに急にキスしてごめんなのか、身代わりにした事へのごめんなのか・・・。桜咲子は真相を探る様に板倉を見つめるが、すぐそこにいる筈の板倉がとても遠くに感じてしまって、分厚い壁の前に、桜咲子は心の中で溜め息をついた。

「そうだ」

そう声を発する板倉の方へ、桜咲子は再び顔を上げた。

「今の家、小さい頃から住んでるの?」

「お父さんが亡くなった後、移ったの」

「じゃあ、お父さんの思い出は そこには無いんだ?」

空を仰ぎ見る桜咲子。金星が瞬いている。

「そうね。でも・・・私の場合、心の中にいる感じかな、お父さんは」

「もう完全に思い出なんだね」

すっかり沈んだ夕陽。桜咲子は慎重に言葉を出した。

「お母さんの事・・・まだ思い出に・・・ならないの?」

暫しの間の後、板倉は笑顔を桜咲子に向けた。

「思い出になってるよ。とっくにね」

刻々と辺りが暗くなる。

「じゃ・・・えっ・・・過去って・・・」

そこまで聞くと、板倉が腕時計を見て、声を上げた。

「やばい!最後のバスが出ちゃう。走ろう!」

慌てて走り出す板倉の後を、必死で追う桜咲子。バス停までの道のり、時折桜咲子を振り返り、半分面白がって手招きをする板倉だった。

 走ってバスに乗り込むと、息を整える間もなく、席につく二人。

「こんなに走ったの久し振り」

苦しそうだが、笑顔の桜咲子。

「お互い、運動不足解消だね」

からかう様に笑う板倉が、桜咲子の手首を掴んだ。

「脈拍200いってるな」

はしゃぐ二人だけを乗せた路線バスの車窓からは、左手に相模湾の景色が流れている。


 桜咲子はいつも通りに職場のブースに座り、ヘッドセットをしてパソコンを叩いている。

「藤枝がお受け致しました。本日はご注文ありがとうございました」

一本の電話の対応を待っていたかの様に、桜咲子の背後から肩が叩かれる。振り返ると、主任が立っていた。

「あっ、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」

笑顔で会釈を返す主任が、廊下に出る様合図する。それを横山が不審な目つきで見ていた。桜咲子が廊下に出ると、主任が口を開いた。

「今夜どう?時間取れそう?」


 母の見舞いを済ませ、すっかり外来の電気も消えた暗い病院のロビーを抜け、夜間出入り口から時計を気にしながら足早に出る桜咲子。そしてプリンスホテルへと向かった。普段縁のない場所に少々緊張しながら自動ドアに吸い込まれると、優雅なBGMの流れるロビーでソファに腰掛けている主任の姿が見える。小走りに駆け寄る桜咲子の姿を見つけるなり、主任は片手を挙げてにこやかに合図を送った。その後エレベーターに乗り込む二人を、そっと見送る横山がいた。

 高層階の夜景の見渡せるフレンチレストランで予約済みのテーブルに通され、主任のエスコートで借りてきた猫の様にちょこんと腰掛けている桜咲子。グラスには赤ワインが注がれ、オードブルがテーブルには並ぶ。

「腹減ってるだろ?まず腹ごしらえだ」

店内のBGMと食器の音だけが二人の間を埋める。

「この間はすみませんでした。今日も遅くなってしまって・・・」

ワインを一口飲んでから主任は口を開いた。

「クリスマスだったもんな。あの後予定あった?」

「いえ・・・そういう訳では・・・。母の病院に行っただけです」

主任はオードブルの最後の一口を口に運んだ。

「おう、そうだ。お母さんの具合どうなの?手術するんだよね?」

「はい。2週間後に。今日、決まりました。又その日、お休み頂きます」

言いにくそうに肩をすぼめる桜咲子。ウェイターが主任の空になった皿を下げる。

「遠慮しないで早く食っちゃえ。それとも、こういうの口に合わない?」

慌てて首を横に振り、ナイフとフォークを手に取る桜咲子。

 食事も進み、デザートとコーヒーを目の前にして主任が 片手で桜咲子にデザートを勧める。

「女の子だから、甘いの好きでしょ?」

桜咲子がスプーンに手を伸ばす。主任はコーヒーを一口すすり、背もたれに寄り掛かる。

「この前『力になりたい』って言ったの、嘘じゃないからね」

「ありがとうございます」

頭を下げる桜咲子を見て、主任は少しして吹き出した。またそれを見た桜咲子はキョトンとしている。

「俺の言った意味、分かってないんだろうなぁ」

ピンと来ない顔の桜咲子。

「個人的に、男として 力になりたいって言ってるんだ。支えになりたいし、傍に居てやりたいと思う」

瞬きさえ忘れた様に、桜咲子は凍りついていた。


 ロビーまで下りてきて、腕時計を見る主任。

「遅くなっちゃったね。ごめんな。俺車だから、家まで送ってくよ」

「いいえ。大丈夫です。まだ充分電車もありますから」

「そんなに警戒しないでよ。上司として責任があるんだよ。車出してくるから、そこ出たとこで待ってて」

 気まずい思いを胸に抱えたまま 寒空の元、風に吹かれて言われた通り外で待っている桜咲子。時折、駅前の横断歩道のメロディが聞こえる。駅へ急ぐ人の群れの中に紛れ、板倉がそこを通りかかる。

「どうしたの?こんな所で」

そう言いながら、桜咲子の後ろにそびえ立つプリンスホテルに目をやる板倉にハッとする。そこへシルバーのBMWが到着する。助手席の窓が下がり、運転席から主任が顔を覗かせた。

「寒かったろ?早く乗って」

桜咲子の横に立つ板倉に主任の視線が移る。そして桜咲子に聞いた。

「知り合い?」

「あ・・・」

すると板倉が桜咲子に言った。

「じゃ・・・」

駅の方を指さして歩き出す板倉。

「あっ!待って・・・」

しかしその声は板倉まで届かず、遠ざかっていく。桜咲子は車の中の主任の顔を覗き込んで言った。

「近所に住んでる人なんです。一緒に帰りますから、ご心配なく。ありがとうございました」

深く頭を下げ、その場を走り去って行く桜咲子の後ろ姿が、BMWのバックミラーの中で小さくなっていく。


 電車の中で、ムスッとした板倉と並んで吊り革につかまる桜咲子。

「うちの会社の主任なの。人員カットの件で 何とか力になりたいって言ってくれてて・・・。私の休みって殆どが母の事だから」

今までにこりともしなかった板倉が、少ししてフッと鼻で笑った。

「どうしてそんな言い訳じみた事言うの?弁解なんてする必要ないでしょ」

「そうだね・・・。ごめんなさい」

二人の乗った電車が、深夜の多摩川の上を渡っていった。


 駅で降りて歩く板倉の足が、いつもより早い。桜咲子は駐輪場に向かう板倉のその後ろから声を掛けた。

「あのね、今度の1月25日、母の手術が決まったの。それで・・・私・・・実はすっごく不安で・・・手術室の前で一人で待ってられる自信なくて・・・」

背を向けたままの板倉。

「その日・・・一緒に・・・傍に居て欲しいです」

無言の時が流れる。その間、駅からの人が自転車に乗って帰って行く姿を何人か見送る。一旦人が引いた後、板倉は自転車の鍵を解除した。

「僕等、そんな関係じゃなかったでしょ?勘違いしないで」

桜咲子の方を一度も振り向きもせず言い残し、自転車に乗って姿を消す。その後ろ姿を桜咲子は呆然と見つめる。説明のしにくい気持ちが胸の中いっぱいに広がっていく。ふと正気に戻ると空気の冷たさが肌を刺す。力なく歩き出すその桜咲子の頭上には、細い三日月がひっそりと輝いていた。


 職場のロッカールームで、横山がふて腐れ顔で煙草をふかしている。そこへ休憩時間の桜咲子が入ってくる。

「あ、お疲れ。さすがに土曜だけあって 今日は注文多いね」

首を回しながら椅子に腰掛ける桜咲子に、横山が言った。

「私、今月いっぱいだって」

「何が?・・・えっ?!」

「危なかった桜咲子が残れて、私がクビって・・・どういう事だろうね」

ロッカーをバタンと音を立てて閉める横山。

「・・・そうだよね・・・」

困った顔の桜咲子。それを横山は、チラッと横目に見やる。

「この前、夜主任と品川プリンスに居たでしょ?」

「あぁ・・・あれはね・・・」

そう話し出した桜咲子の言葉を、横山が遮った。

「桜咲子が女の武器使うとは思わなかった」

あまりに冷たく鋭い目つきと迫力に圧倒される桜咲子。口を開こうとするが、肩で風を切る様にロッカールームを出て行く横山の後ろ姿の残像を見つめる。その場に激しく扉の閉まる音だけが残った。

 定時を迎え、タイムカードを押す横山に桜咲子が近付いた。

「あのね・・・さっきの・・・」

するとその時、後ろから主任が近付いてくる。

「藤枝さん、ちょっといいかな」

その様子を横山は冷やかな目つきで見てから、ドアを出て行った。そんな事も知らず、部屋の隅で主任がシフト表を広げながら言った。

「お母さんの手術、1月25日って言ったっけ?この日は一日休みだね?」

「はい・・・すみません」

「気にしないで。手術当日だけでいいの?次の日位休んで、付いててあげたら?心配だろう?」

「いえ。基本的には完全看護なので」

仕事仲間の視線を時々感じながら、桜咲子は溜め息をついた。


 帰宅した桜咲子にどっと疲れが押し寄せる。ストーブの前で母の洗濯物をたたむ。板倉に貰った指輪を悲しく見つめ、手が止まる。指輪を外して引き出しを開けると、中西からの最後の絵葉書きが静かに姿を現す。もう一度中西からの別れの文章を読んでも、以前よりは落ち着いていられる。筆跡が懐かしいと感じる余裕さえある。それを裏返すと、清々しい山並と四万十川の清流の写真が現れる。改めて見ると、文章と絵葉書の写真が不釣り合いに感じる。何故彼は別れ話を、こんな爽やかな風景写真の裏に書いてよこしたのだろう。そんな事を桜咲子がぼんやりと考えていると、携帯がメールを受信した事を知らせている。

『久し振り。元気?この間の水族館デートの後は、あの彼と上手くいってる?』

先日ばったり電車の中で会った聡美からだ。

『残念ながら。せっかく気を遣ってチケットくれたのに、ごめんね』

そんな文章を力なく打ち込んで送信する桜咲子。すると、またすぐに返信が来る。

『まだ気が早かったかな?中西さんの事、そう簡単に忘れられないか』

その文面を読んでから、中西からの絵葉書きをもう一度手に取る。そして桜咲子はふっと笑った。

『いつの間にか中西さんの事忘れられたみたい。聡美のお陰だよ。ありがとう』

『え?じゃあ、進展してるの?』

桜咲子は、引き出しの上で今にもしまわれそうな指輪を見つめた。

『フラれた』

聡美の返信が遅い。掛ける言葉を探しているのだろう。そして続けて桜咲子が送る。

『板倉さんの方が、重い過去の思い出があるの。私じゃ、役不足だったみたい』

『そっか・・・。私、余計な事したのかな。ごめんね』

『気にしないで。それより、別れ話を綺麗な絵葉書に書く心理って、わかる?』

『そりゃあやっぱり、二人で過ごした時間を綺麗なまま思い出にしたいって事じゃない?』

そのメールを読みながら、桜咲子はもう一度絵葉書の写真を眺める。

『中西さんの精一杯の優しさかな』

結婚まで約束した二人の大事に繋いだ5年間を、葉書き一枚で簡単に終わりに出来る程度だったんだと思っていた桜咲子だったが、聡美のその言葉に 心の中が動き出す。裏返して読み返してみると、今までは感じなかった彼の淋しさや苦しさや葛藤が見えてくる。まるで止まっていた時計が動き出した様だ。すると、聡美からのメールが続く。

『そんな事言ったら、また未練が出ちゃうかな』

『分かった気がする。中西さんの気持ちも、板倉さんの気持ちも。私全然分かってなかったみたい。ありがとう。なんかすっきりした』

引き出しに絵葉書も指輪もしまって、少々乱暴に閉める。聡美に書いた言葉は嘘ではないが、少々強がって前向きな振りをしてみせる桜咲子だった。再び溜め息をついて、洗濯物をたたんだ。


 朝日が差し込むベランダで、あげたばかりの水が葉の上で朝日に反射する。窓を閉めレースのカーテンを引く。いつも通りに桜咲子は仏壇に手を合わせ、家を出る。仏壇の花が少々しおれていた。


 出勤すると、タイムカードに数名の列が出来ている。並ぶ桜咲子の横を横山が通った。

「おはよう」

そう桜咲子が声を掛けたが、目も合わせず返事も返さず 横山は通り過ぎて行った。

 昼過ぎ、横山と数名の仲間が財布片手に賑わうロッカールームに、昼食用のパンの袋を下げた桜咲子が入ってくる。一瞬笑い声が止まる。

「お昼、行こっか?」

横山は一同に声を掛け、ドアを開けようとしたところで、桜咲子が声を掛けた。

「あのね・・・この前の・・・誤解なの」

しかし横山は 立ち止まる事も目を合わせる事もなく、仲間と賑やかに出て行き、ドアだけが静かにパタンと閉まった。


 会議室に主任と少し距離を空けて立つ桜咲子。

「どうした?話って」

「あの・・・どうして私じゃなくて、横山さんなんですか?私の方が確実に休み多いし、彼女は欠勤 そんなに無いですよね?」

「会社が決めた事だからね。俺に決定権はないよ。だから、どうして?って聞かれてもね・・・」

「でも・・・私の休みの理由を、会社に口添えして下さったからじゃないんですか?」

すると、主任は軽く笑った。

「そりゃ言ったよ、多少はね。だけど勘違いしないで。力になりたいって言ったけど、クビを却下できる程、この会社で俺にそんな力は無いよ」

『勘違いしないで』の言葉が、数日前の板倉の『僕等、そんな関係じゃなかったでしょ?勘違いしないで』と重なる。あの日自転車に乗って走り去って行った板倉の悲しい後ろ姿までもが思い出されてしまう。ぼんやりと俯く桜咲子に主任は言った。

「でも、結果的に良かったと思ってるよ。だって実際、手術や引越し控えてて、仕事も無くなっちゃったら困るでしょ?」

俯いたまま口を強く結ぶ桜咲子。すると主任は軽く笑いながら言った。

「俺に甘えてくるとも、到底思えないし」


 今日も桜咲子は仕事帰りに病院に顔を出すと、母はいつもよりもベッドを少し起こしていた。相変わらず点滴に繋がれている母が、部屋に入ってきた桜咲子の顔を見て第一声を発した。

「随分疲れた顔してるわね。何かあったの?」

作り笑顔を浮かべ、顔を横に一振りする。

「ベランダにね、梅が咲いたんだ。見せてあげたいんだけど、病院にあんまり鉢物もね・・・気が引けちゃって。置く場所も無いしね」

「梅か・・・」

母は遠い目をして、少し離れた窓の外を見つめた。


 板倉はテーブルの上に置かれた桜咲子のパールのリングをじっと眺める。人差し指で軽くはじいてみる。何度か目にドナルドのキーホルダーにぶつかる。二つを見比べてみる。迷った挙句に、指輪にそっと手を被せ、そしてテーブルに突っ伏した。


 一方桜咲子もこたつの上で鳴らない携帯を見つめる。思い切って手に取り、『板倉携帯』を表示する。通話ボタンの上で親指が迷う。しかし再び桜咲子は携帯を伏せた。


 次の朝、板倉はマンションの屋上から朝日が昇るのを眺める。真剣な表情だ。そして部屋に戻り、段ボール箱に一つ一つ美帆との思い出の品を収めていく。何冊かのノートを広げる。表紙には『ふう君と美帆の交換日記』と美帆の筆跡が残る。


10月19日

最近は調子が良くて、病気の事 信じられないくらい。だからかえって風君と離れてるのが淋しく感じるよ。早く退院して、二人のお家に帰りたいよー! 美帆


数ページめくる。

12月24日

 今日はクリスマスイブ。珍しく雪が降ってきた。淋しいよぉ。不安だよぉ。風君、私から離れていかないよね?何もしてあげられなくてごめんね。早く帰りたいよー!最近痛みが酷くて、弱音ばっかりだね。弱虫美帆は風君が居なくちゃ生きていけません。 美帆


1月8日

 最近痛みが強くて、このノートもあんまり書けなくてごめんね。私、悪くなってるのかなぁ?このまま死んじゃうの?嫌だよ。風君、助けてよ。怖いよ。夜も眠れません。 美帆


ここで交換日記は途切れていた。ゆっくりとノートを段ボールの一番上にしまい、ガムテープで封をする板倉。


 桜咲子は休憩時間に 携帯を手に廊下に出る。『日東ホーム』の番号を表示させ、それをじっと見つめていた。


 日東ホームの品川支店の店内では、カウンターにカップル客が一組座っている。担当の男性社員が接客に当たっている。そこへ電話が鳴り、コピーを取っていた女性社員が受話器を上げた。

「お電話ありがとうございます。日東ホーム品川支店、村井です。・・・申し訳ありません。あいにく板倉は本日お休みを頂いておりますが・・・」

受話器を置いてメモを取る女性社員に、店長が奥から声を掛ける。

「お客様?」

「はい。板倉さんの担当のお客様からです」

「板倉今日休みだもんな・・・。珍しいな」

「1月14日ですから」

「あ・・・去年もそうだったな。あれから2年か・・・。普段は何でもない顔してるけど、しっかり覚えてるんだな、まだ」

「女性にとっては幸せですけどね、そこまで想われたら。お互い生涯の人なんて」

「いつの世も、女性は厳しいな」


 白井家の墓の前で 供えられた仏花に遠慮する様に洋花を脇に供えるスーツ姿の板倉。平日の昼間とあって、人は居ない。長い事手を合わせている板倉を、線香の白い煙が覆う。顔を上げ、まるで語りかける様にぽつりと呟く。

「お前は何て言うんだろうな・・・」

墓石をじっと見つめる。3年近く前の光景が、板倉の脳裏に鮮明に思い出される。


『私・・・もしかしたら、赤ちゃん出来たかも・・・』

嬉しそうにはにかむ美帆。板倉もパッと顔が明るくなる。

そのまま受診した産婦人科の待合室のソファで、妊婦に囲まれて待つ板倉。診察室から出てくる美帆が板倉と目を合わせると、がっくりとした顔で首を横に振った。

 駐車場に停めた車の中で、助手席の美帆が言った。

「私の勘違いだった。ごめんね。今度詳しく検査した方がいいって」

「検査?」

「子宮筋腫かもしれないからって」


あの時の落胆した美帆の表情が、今でも昨日の事の様に板倉の目に焼き付いて離れない。

「ごめんな・・・」

そう呟いて、もう一度墓石に水をゆっくりとかけ、深く一礼してその場を立ち去りかける。すると遠くでこちらを見ている美帆の父。そちらに又深く一礼する板倉だったが、頭を上げた時にはもう、去って行く美帆の父の後ろ姿になっていた。


 大きな門構えの白い3階建の家の前で板倉が深呼吸をする。表札には白井と刻まれている。美帆の実家だ。

 初めて通されたリビングの床に、板倉は頭をつけて土下座していた。

「よして下さい。もう顔上げて」

隣の和室に置かれた仏壇には美帆の若々しい笑顔の写真が置かれている。命日とあって沢山のお供え物が並ぶ。未だに続く土下座に、困惑している美帆の母がもう一度言った。

「前からも言ってる様に、板倉さんの責任じゃありませんから。板倉さんには、もう充分過ぎる程して頂きました。本当に変わらずに誠実に2年間、想いに掛けて頂きました。それに、結婚してた訳じゃないんです。もうそろそろ、あの子に縛られずにご自身の人生を歩んで欲しいと思ってたんですよ。きっとあの子も、分かってますから」

仏壇に目をやりながら、母は続けた。

「あの子の寿命だったんですね、きっと。最近ようやく そう思える様になりました」

穏やかな表情で微笑む母。土下座したままの板倉。

「でも僕が、大事な一人娘の美帆さんを あんな姿にしてお返しするなんて・・・男として・・・」

「本当に、土下座なんてやめてちょうだい。私も話しづらいから」

ようやく頭を床から離す板倉。美帆の母が少し小さい声で話し始めた。

「男と女の考え方って、やっぱり根本的に違うのね。主人も正直、ずっとそんな事言ってました。駆け落ち同然で勝手に一緒に暮らし始めて、こんな結末なんてあるかって、ずっと根に持ってました」

「当然です」

「でも、自分の中で何かが吹っ切れたら、強いのも男の人ね。スパッとしてる。主人ももう あなたの事許してるわ、きっと。ただ後は、男の意地やプライドの問題」

「まさか・・・まだたった2年です」

墓地で見掛けた父の姿を思い出す板倉。

「あの子が亡くなってからのこの2年、あなたにとって簡単ではなかった筈でしょ?」

「・・・・・・」

「自分の大事な物、全て捨てたでしょ?車も海もスキューバーダイビングも。それに・・・」

「そんな物、大した事じゃないです」

「お骨も結局うちが奪い取っちゃって・・・。あの時は感情的になっちゃって、申し訳なかったと思ってます」

「当然の事です」

母は立ち上がって、仏壇に近寄る。

「この2年、板倉さんの中で美帆は充分に生かして頂きました」

ろうそくに火を点ける母。

「どうぞ・・・」

そう言って、母は板倉を和室に招き入れる素振りをした。

「えっ・・・いいんですか?」

母は頭を下げた。初めての美帆の仏壇の前で、ゆっくりと線香をあげ 手を合わせる板倉。そして終えると、母に深々とお辞儀をした。

「これからは板倉さん自身の人生を生きて下さい。お幸せになってね。美帆もきっとそう願ってますから」

板倉は再び畳に額をこすりつける様に 深く頭を下げた。


 あの夜板倉にフラれて以来、品川から電車に乗る位置を変えていた桜咲子だった。たった2度の偶然をあの頃は少し運命だ等と感じていた自分だったが、今ではその偶然が怖い。バッタリ会ったら何と話し掛けたらいいのだろう。きっとお互いに気まずい筈だ。たった何回か出掛けた位で、たった一度手を温めてくれた位で、たった一度キスした位で、気持ちが吸い込まれていった自分が恥ずかしい。そして、重たい過去の中にまだまだ生きている板倉に、あの晩勢いづいて『傍に居て欲しい』なんて口走ってしまった事が恥ずかしい。冷静に考えたら、板倉のあの答えは当然の事だ。そんな事を言わせてしまった自分は、二日酔いの日の後悔に近い。桜咲子はぼんやりそんな事を考えながら、電車に揺られる。桜咲子の乗った電車が夜の多摩川をいつもの様に渡る。土手を見ては板倉と訪れた日の事を思い出す。手を握り包み込んでくれた光景と感触が鮮明に思い起こされる。荒崎の海に沈む夕日をバックに、突然キスされた映像も思い出される。桜咲子は小さく溜め息をついた。

 駅に着いてドッと電車から吐き出される乗客の中に、板倉の影を探す桜咲子。顔を合わせづらいと思いながらも、やはりもう一度会いたいと思う本心が入り乱れる。このまま偶然に怯えながら毎日駅を通るのか。だとしたら、もう一度きちんと会って会話をして、後味の悪いままの現状に区切りをつけた方がいいのではないだろうか。そんな気持ちに傾きながら、桜咲子は寒空の下家路へと急いだ。


 次の朝、以前板倉に案内されたマンションの屋上から、朝日が富士山を清々しく照らすのを眺める。暫く黙ってそれを眺めてから、桜咲子は602号室の玄関前に立つ。チャイムを鳴らすが返事はない。もう一度押すが反応はない。こんなに朝早い来客は迷惑だからとインターホンに出ないのかもしれないと思って表札に目をやると、そこには『板倉』の文字は無い。愕然とする桜咲子だった。

 マンションの入口まで下りてきて、郵便受けがずらりと並ぶ中の602号室に『板倉』の表札はなく、テープで口が塞がれた様子から、もうそこに住んでいない事を物語っていた。


 そのまま駅に向かう桜咲子の足取りは当然重たい。偶然を恐れ、また偶然を期待して駅を通るここ最近の自分が滑稽に思えてくる桜咲子だった。板倉が引越したのは、自分が変な告白をしたせいだろうか。私に会わない為に、それだけの為に引越したとしたら、相当嫌な思いをさせてしまったのだと思うと、悲しくて さっき朝日を浴びた富士山を見た時の勢いづいた自分はすっかりどこかに居なくなっていて、意気消沈した抜け殻の桜咲子が 品川行きの電車に揺られていた。そして板倉の最後の声が桜咲子の耳にこだました。

『僕等、そんな関係じゃなかったでしょ?勘違いしないで』


 その晩、桜咲子はこたつに入りながら通信講座の資料に目を通していた。その資料の表紙にはフラワーコーディネーターと書かれている。真剣な表情の桜咲子。テーブルの上に携帯も無ければ、電話の近くのコルクボードに刺してあった板倉の名刺も無い。


 とうとう母の手術当日がやって来ていた。入口にある手術中だと知らせるライトが点灯している。ひっそりと静かな廊下のベンチに背中を丸め座る桜咲子。待合室で待つ様にと言われたが、母の近くから離れる気に等なれなかったのだ。時計の秒針が音を立てて時を刻むのが聞こえる様な緊張感が、桜咲子を丸飲みにしていた。手術室に運ばれていく時に微笑んだ母の顔が、桜咲子の瞼の裏に甦る。と同時に、父が息を引き取った時の病院のベッドに横たわる姿も何故か同時に浮かんでくる。桜咲子の両手には、今年のお正月に観音様で買った母のお守りがしっかりと握りしめられていた。

 午後一時を過ぎた頃、姉の希実子が現れる。

「ごめん。遅くなって」

菓子パンを桜咲子の前に差し出した。

「ほら、お昼」

「食欲ない・・・」

桜咲子の隣に希実子が腰を下ろす。長く無言の時が流れる。その緊迫した空気を破る様に、希実子が口を開いた。

「家、決まりそう?」

「なかなか難しいよ・・・」

「あんた、結婚の予定は無いんだよね?退院してきたら、一緒に暮らしてもらえるんだよね?」

桜咲子は溜め息混じりに返事をした。

「結婚どころか、恋愛ももういいや。私、もう傷付きたくないから・・・」

意味深な言葉に、希実子が桜咲子の方を向くと、気持ちを切り替えた様に、今度は少し明るい声を出した。

「それよりね、フラワーコーディネーターの資格取ろうって真剣に考えてるの。実力があれば、誰かに依存しなくてもいいし、妙な言いがかり付けられる事もないし、外野の声だって気にならないだろうしね」

そう話す桜咲子をじっと見つめる希実子だったが、掛ける言葉は見付からない。

 母の手術が予定よりも1時間遅れて終わると、無事に終えた事だけを確認して、子供を預けてきた希実子は慌てて帰って行った。窓から西日が差し込んできた頃、廊下の向こうから足音が聞こえ板倉が現れる。目を疑った桜咲子だったが、無表情に頭を下げた。

「この間は、ごめん」

感情を封印した桜咲子は、俯いたままボソッと言葉を返した。

「こちらこそ、変な事言ってごめんなさい」

その後、静かに大きく息を吸った板倉の気配を感じる。

「過去、全部捨ててきた」

その言葉に、思わず顔を上げてしまう桜咲子だった。


 術後そのまま運ばれたICUでは、まだ麻酔の覚めない母がベッドに横になっている。心電図の音が聞こえ、画面から目を離せない桜咲子の傍には板倉の姿があった。


 真っ暗になった病院のロビーから、桜咲子は姉の希実子に電話を掛けた。

「お母さん、麻酔覚めたよ。私の事も分かったし、大丈夫?って聞いたら、頷いて返事してた。今晩はICUで、明日落ち着いたら、もう一般病棟だって。明日また仕事の後、先生から話聞く事になってるから、また連絡するね」

「お母さんの事、頼むね」

姉との電話を切って、ようやく一息つく桜咲子は、そのまま椅子に座り込んだ。そこへ缶ジュースを持ってくる板倉。桜咲子に一本差し出して、隣の椅子に座りながら言った。

「お母さん、手術無事に済んで良かったね」

桜咲子はこくりと頷いて、姿勢を正した。

「今日はありがとうございました。私、ここ何週間か色々考えたんですけど、もう・・・」

そこまでで言葉を遮って立ち上がる板倉。

「ちょっと、来て欲しい所がある。お願い」


 病院からタクシーで数分の所に停まる。三階建の白いマンションの前で、板倉が言った。

「新しい、住処すみか

オートロックの入口を入ろうとする板倉を、桜咲子は背後から呼び止めた。

「あの・・・っ!私・・・ここで」

さっきの桜咲子の途中までの話と、今の一言で察した板倉は、立ち止まって もう一度桜咲子の方へ向いた。

「一昨日引越したばっかり。前の家引き払ったり、何とか全てを今日に間に合わせたくて。でも遅くなっちゃった。もう、来ないと思ったでしょ?」

桜咲子はゆっくりと頷いて、重たそうに口を開いた。

「一言、言ってくれたらいいのに・・・」

「全てをゼロにして会いに行きたかった。もう傷付けたくないから・・・」

「・・・・・・」

一度気持ちに区切りをつけたばかりの桜咲子は、戸惑いの様な 嬉しい様な複雑な思いを整理できずにいた。すると、それを察した板倉が、もう一度背筋を伸ばした。

「ゼロから再スタートする所、見届けて欲しい」

躊躇するも、お互いに足かせになっていた過去を見せ合った仲だという事を思い出すと、一度乗りかかった船だからと、桜咲子はこくりと頷いた。板倉と桜咲子は無言で2階に上がり、部屋の前で足を止める。板倉がドアを開けると、まだ解かれていない段ボールがいくつか積み上がったままだ。しかしワンルームの部屋の中には、ダブルベッドも黄色のカバーもなく、カーテンすら掛かっていない。

靴を脱いで上がる板倉が、玄関で寒そうにポケットに手を入れ立っている桜咲子に言った。

「ここから新しく生きていこうと思う。・・・どう?」

「どう・・・って?」

「また現実の世界で生きなおそうと思ってる覚悟、伝わる?」

桜咲子は少し考えてから、言った。

「・・・そうね」

その返事を聞いて 少し安心した板倉は、桜咲子の方へ一歩歩み寄ろうとしたところで 見えない防御壁に阻まれた。

「私も昨日、再スタートしようって決めたの。勉強して資格取って、男の人に頼らない生き方しようって。うち女兄弟だけでしょ。跡取りの長男がいないし、退院したら母と一緒に、ずっと一緒に二人で生きてこうと思ってるの」

桜咲子は板倉の顔を見られないまま、ただ続けた。

「もう恋愛とか結婚とか・・・そういうのとは無縁の暮らししたいなって・・・」

一言一言言いながら、矛盾していないかを必死で考えている桜咲子だが、板倉もそれに負けてはいなかった。

「傍に居て欲しいって思った。これからは一緒に一歩ずつ前に進みたいって・・・」

板倉の言葉に負けそうになる前に、桜咲子が言葉を被せた。

「この前は・・・変な事言っちゃって、ごめんなさい。自分の身の振り方が決められなくて、母の手術っていう不安に負けそうになっちゃって・・・ごめんなさい。忘れて下さい」

桜咲子は頭を下げた。すると、暫しの沈黙の後で桜咲子が顔を上げるのを見て、板倉が言った。

「今までみたいな、友達でも・・・」

とても悲しい色に桜咲子の顔が染まる。そしてふっと力なく笑って、首を振った。

「私・・・そんなに精神力強くない。傍にいたら甘えたくなっちゃう・・・」

すると、黙ったまま板倉は部屋の奥に行き、何かを手に持って戻ってくる。桜咲子の目の前に差し出された手の平には、中西から貰った指輪が乗っかっていた。

「じゃあこれ・・・返さないとね」

急に虚しさの波が、すっぽりと桜咲子を覆った。板倉の手の平の指輪に桜咲子が手を伸ばしたその時、板倉が言った。

「大事な思い出の品だもんね」

そう言われて、手が止まる。驚いて桜咲子が板倉の顔を見ると、鋭い程の視線が待ち受けていた。その視線に負けそうになって、桜咲子が手を引っ込めた。

「別にそういう訳じゃないけど・・・。何なら処分してもらってもいいんだけど」

視線を逸らした分、強がりを言ってみせた桜咲子だった。

「ふうん・・・」

そう言って、板倉はその指輪をもう一度握って、おもむろに傍に置いてあったごみ袋に捨てた。

「あっ!」

思わずそう声が漏れる桜咲子。確かめる様な眼差しで板倉が見ている。桜咲子の頭には何故か、中西からの最後の絵葉書きの綺麗な風景写真が思い出される。聡美の『二人で過ごした時間を綺麗なまま思い出にしたいっていう、中西さんの優しさ』という言葉までもが浮かんでくる。無性に悲しくなり、油断したら涙が溢れて来てしまいそうな桜咲子だった。この指輪をくれた時は本物だった中西の愛情までもゴミと一緒に捨てられてしまった様で、何とも悲しくやり切れない思いになる。すると、板倉がゴミ袋の中から指輪を拾い上げて、桜咲子に渡した。

「意地悪してごめんなさい。多分・・・やきもちです」

その最後の一言が言い終わるか否かの時に、指輪が桜咲子の手の平に触れた。驚いて板倉の顔を見上げると、今度は桜咲子が聞いた。

「板倉さんは・・・捨てたの?」

「・・・写真一枚以外は・・・ね」

「凄い・・・」

「その写真も迷ってたけど、今日お母さんの病院行かせてもらって、決心出来た」

すると慌てて桜咲子は首を大きく横に振って見せた。

「駄目よ、捨てちゃ。その時の真実だもん」

「それは・・・同志としてのアドバイス?」

「・・・・・・」

「どう転んでも 彼女になる気が無いから、そんな事言えるのかな」

桜咲子は無言のまま、自問自答を繰り返していた。そしてボソッと呟いた。

「だから言ったのに・・・。そんなに精神力強くないって・・・」

「傍に居て欲しくなってきちゃった?」

すると桜咲子は、大きく溜め息を吐いた。

「からかわないでくれる?今最高に、戸惑ってるんだから」

その言い方が可笑しくて、板倉は上を見上げて口を開けて笑った。そして、そんな桜咲子を面白がる様に板倉が言った。

「もう一押し必要なら言って。グイグイ攻めるから」

その言葉に無駄な抵抗をやめた桜咲子が ふっと頬を緩めると、すかさず板倉が抱き寄せた。その腕の中で、桜咲子は言った。

「私も・・・捨てる。今日帰ったら、絵葉書」

「うん」

「彼女の事・・・忘れないであげて。心の隅にしまっておいて。それで私は時々その彼女にやきもち焼くかもしれないけど・・・許してね」

板倉の腕に力がこもる。暫くしてから、板倉の背中に回された桜咲子の右手をそっと掴んだ。

「指輪・・・どうする?」

体を一旦離し、桜咲子は手の中の指輪を見つめて言った。

「ごめんなさい。もうちょっと・・・待って。必ず、自分で捨てるから」

納得して頷く板倉が、桜咲子の手をそっと両手で握る。冷え切った部屋の中でも、心がじんわりとオレンジ色に染まっていくのを感じる二人だった。


 それからの毎日は、それまでの桜咲子の日常とは少し変わっていった。仕事を終え母の面会を済ませると、仕事を終えた板倉と品川で待ち合わせて、食事やお酒を飲みに行く事もあった。たまには板倉のマンションで二人で過ごす時もある。その部屋にも、もうブルーのカーテンが掛かり、桜咲子の薬指には、再び貝殻の指輪が収まっているのだった。


 いつもの通勤電車から眺める大岡川沿いの桜並木も七分咲きとなっている。桜咲子は今日も仕事帰りに母の病室に顔を出す。顔色のいい母が、ベッドを起こしている。

「今度の水曜、外出届出してきた。きっと桜満開だよ。天気予報では、お天気もいいみたい。暖かいといいね」

「大丈夫かしら。久し振りだから」

「その日は・・・車で迎えに来るから安心して」

「車?」

母の目が点になる。

「お母さん。実はね・・・」

そう言って椅子に座ったまま、背筋を伸ばした。

「中西さんとは去年・・・別れてたの。それで最近・・・お付き合いしてる人がいて・・・紹介したい。会ってもらえる?」

「いいけど・・・」

廊下で待っていた板倉を桜咲子が呼ぶ。母の前で板倉が深く一礼した。


 大岡川沿いの夜桜がライトアップされたさくら橋の上から、板倉は桜咲子を電話で呼び出していた。走ってきた桜咲子は、息も上がったまま言った。

「どうしたの?急に」

「うん」

「しかも、こんな所まで来て」

「急にごめん。明日お母さん お花見に連れて行く前に、どうしても言っておきたい事があって」

硬い表情の板倉に、桜咲子までも緊張する。大きく深呼吸を一つして、板倉が口を開いた。

「知り合ってまだ日も浅いし、つきあう様になったのも ついこの間なんだけど・・・結婚を前提につきあってるつもりだから」

呆気に取られた桜咲子の口が開いたままになっている。嬉しそうな顔にならない桜咲子を見て、板倉が次の言葉を探していると、ようやく桜咲子が一言 申し訳なさそうに言った。

「この間、お母さんに挨拶してもらったけど・・・無理しないで」

「・・・・・・」

「明日も車で一緒につきあってもらうけど、全然、そんな・・・変な気負いしないで」

「そういう訳じゃ・・・」

板倉のボソッとした声を、桜咲子が上塗りした。

「確かに以前お母さん、私が結婚するの楽しみにしてたけど、そういうの聞いてきたからって変に責任感じなくていいからね。私も・・・結婚とか焦ってないし。板倉さんの・・・ペースでいいから」

一旦最後まで聞いてから、板倉は首を振った。

「違う。別に、お母さんに会ったからとか、責任感じてるとかじゃなくて・・・。真剣に、将来の事考えて付き合ってるって事、知っておいてもらいたくて」

「そうなんだ・・・」

板倉が、未だに嬉しそうな顔をしない桜咲子の顔を あえて覗き込んだ。

「嬉しそうじゃないね」

「だって・・・どうしよう・・・」

「ま・・・当然か。今返事欲しいとか、そういうんじゃないから」

板倉は最後の言葉で、少し 場の空気を和らげようとした。すると、桜咲子は首を振って 遮った。

「違う。・・・怖いの」

「・・・昔の事、思い出す?」

今度は黙って首を横に振る桜咲子。板倉がじっと待っていると、桜咲子が暫くして静かに口を開いた。

「私・・・幸せに慣れてないから」

悲しくそう話す桜咲子をそっと抱き寄せ、板倉が柔らかい声色で言った。

「お互い様だよ。幸せに慣れてないんじゃない。少しの間、忘れてただけだよ」


 次の日、暖かい陽気の中、車いすの母を押して大岡川沿いの桜並木を散歩する三人。歩道に出店も沢山並んでいる。時々腰をかがめ 母と会話を交わす板倉の姿に、桜咲子の心も満たされるのだった。三人でたこ焼きをつつきながら、母は言った。

「今日は連れて来てもらって、本当にどうもありがとう。それから・・・」

母は板倉の方に顔を向けた。

「娘を宜しくお願いします」

少し瞳が潤んでいる様に見える。そんな母が、今度は桜咲子の方を向いた。

「あんたの桜も、ようやく蕾が付いたね。大事に育てるのよ。良かったね」

慈しむ様な笑顔を桜咲子へ送った。

 満開の桜の枝が風に揺れる。その度に数枚の花びらが川に舞い落ちていく。一枚の花びらが春の風に踊る様にふわりふわりと、どこまでも舞い飛んで行くのだった。

                        (完)


最後までお読み頂き、ありがとうございました

皆様にも、暖かい春の風に乗って桜の花びらが 小さな幸せの欠片と共に舞い込みますように。。。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  すごく身に沁みる話でした。それぞれに辛い過去があるのを忘れないようにしたいです。 [一言] 一ページ50000文字は長いです。
2016/03/05 13:47 退会済み
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