第二十一話
人間の体ほどの太さを持った魔物の腕が空気を切り裂いて迫ってくる。普通の人間なら、簡単に潰されてしまうようなその攻撃をゼファーは難なく躱し続けた。そして、黒刀を振るって魔物の体に幾つもの傷を刻みつけていく。
魔物の攻撃を避ける際に耳に入ってくる音は凄まじいが、当たらない攻撃など全く怖くない。というか、今のゼファーには当たる気がしない。
『力が戻ってきた』
先程魔物に吹き飛ばされたとき、ゼファーは死を覚悟した。ここで立ち上がっても勝機はあるのだろうか。そう思った。
それは決して怯えなどではなく、冷静な分析だった。
その時、唐突にゼファーの本来の力の一部が戻ってきた。このままでは死ぬと感じて本能がそうさせたのか、偶然なのか定かではないが、力が入り体が軽くなった。
ゼファーは五年間を牢獄の中で過ごしたため、当然ブランクはあった。しかし、遂にそれを払拭することができたのだ。ゼファーの急速な戦闘力アップの原因はそれだった。
「だが、そろそろ限界だな」
そう口にしながら魔物の肩口を大きく斬り付けて、魔物が怯んでいる隙に距離を取る。
体が焼けるように熱い、呼吸が乱れる。
ゼファーは確かに強くなった。しかし、遅すぎた。この傷だらけの体ではこれ以上自分の思い描いた動きができそうにない。もう一発も攻撃を受けられない今の状況では、その頭と体の少しのズレが命取りになる。そのため、もう闇雲に攻撃を仕掛けることはできない。反撃を受けて死ぬだけだ。
「本当に、こんな化け物をどうやって倒してたんだろうな」
ゼファーは自嘲気味に笑ってそう呟いた。
昔のゼファーは例え第Ⅲ種の魔物であっても、大して脅威とは思わなかった。しかし、今はその、昔は歯牙にもかけなかった相手にゼファーは苦戦しているのだ。
いくら切り刻んでも、この猿形の魔物は倒れてくれない。恐らく、我武者羅に向かっていっても先に根を上げるのは魔物より遥かに体力がない人間であるゼファーだろう。だから、頭がまだ冷静な今のうちに逆転の一手を打たなければならない。その一手を、ゼファーは既に思い付いている。
しかし……
「俺の体が、保つのか分からないな」
魔物がおびただしい量の血を大きな体から垂れ流しながらも、ふらつくことなく近付いてくる。きっとこの魔物はもうそんなに速く動くことができないだろう。ゼファーの攻撃が避けられる可能性は小さい。
「まあ、腕が取れてもまだ足がある、か」
ゼファーそう言うと、動かない左腕を何とか痛みに堪えながら上げて、頬の傷から流れる血を親指に付けた。そして、服の袖を歯で噛みちぎり、露わになった右腕にその血である紋様を描いていく。
王都では、凶悪な犯罪を犯して牢獄に入れられた者にはその強力な力を抑えるための術式が施される。普通、釈放される際にその術式は解除されるのだが、ゼファーは力を抑えられた状態のままだった。そうさせることを予期していたゼファーは五年間、この術式の解除法を模索してきた。そして、発見した。
「『逆転の術式』発動」
ゼファーの言葉に反応して、右腕に描かれた紋様が蛇のように蠢き始めた。ゼファーの右腕に、かつての力が戻ってくる。
「ぐっ」
右腕に伝わる刺すような痛みにゼファーの顔がゆがむ。
ゼファーの体の状態はかつてのそれには遠く及ばない。しかも、この解除法は正規のものではなくゼファーのオリジナルのものなので、反動もあれば副作用もあるのだ。
「う、ぐうっ……はあ、はあ」
手に持つ黒刀を強く握ることで、ゼファーは何とかその痛みに耐えた。顔を上げなくても、魔物が目の前まで来ていることが分かる。
「キイイヤアアア!」
「うおおおお!」
奇声を上げながら右腕を振り上げる魔物に対して、ゼファーも左腰に黒刀を構えて吠えた。
暗闇の森に、二つの声が響き渡り、互いの渾身の一撃が交差する。
ゼファーは一心不乱に黒刀を振った。右手に感覚がなく、出血多量で目もかすんでいるため、斬撃が魔物を捉えたのかも分からない。
ちらりと目を上に向けると、星々が輝く夜空に何かの腕のようなものが飛んでいた。
ゼファーの腕だろうか。それにしては、やけに大きいように見える。
「ガアアア!」
叫び声のした方に目を向けると、魔物の右腕の肘から先が消えていた。飛んでいたのは魔物の右腕だったようだ。感触はなかったが、ゼファーが斬り飛ばしたのだろう。
ドンと魔物に一歩踏み出す。すると、魔物が一歩後退した。明らかにゼファーに対して恐怖を抱いている。右腕を斬り落とされたのだ、当然だろう。すっと黒刀を肩の高さまで上げて構えてみせると、また一歩後退する。勿論ゼファーの構えはハッタリだ。もう刀を振る力は残っていない。
暫く無言で睨み合っていると、突然魔物が踵を返して逃げ出した。
それを追うことなく、ゼファーは片膝を着いて呼吸を整える。
「終わった……ようだな」
ひとまず、当面の危機は去った。しかし、ここは魔物達が住む森の中だ。まだ安心は出来ない。横になってしまいたい気持ちを我慢して振り返ると、仰向けに意識なく倒れたバッカスと血を流して絶命している狼形の魔物の姿があった。
「あの魔物の手下より、俺の同僚の方が上だったみたいだな」
そう言いながら落ちていた鞘を拾い上げてそれに黒刀を収め、バッカスの大きな体を背負う。身長の差がありすぎて少し足を引きずってしまうが、堪えてもらうしかない。
「帰るか」
バッカスはアルムの村の貴重な戦力だ。ここで失う訳にはいかない。それにしても、脱力した人間は重いと言うが、本当に重い。額に汗を浮かべて時折ふらつきながら村を目指していると、ここ最近の戦闘によって荒れ果てた地面に、一輪の小さな白い花が咲いているのが見えた。その健気な姿を目にして、ゼファーは一人の少女のことを思い出した。
「ネネ……」
その少女の穏やかな微笑みを思い浮かべると、何故か背負っているバッカスの体が少し軽くなったような気がした。




