第十九話
日が沈んでもゼファーとバッカスが帰ってこないことに、村人達は動揺していた。当然、ネネもその内の一人だ。
ネネは夕方頃、いつものよう風呂と夕食の準備をしていた。しかし、いくら待てどもゼファーが家の扉を開けて帰ってくることはなかった。明らかな異変を感じて外に出てみると、村人達が森の方を見てざわついていた。中には荷物をまとめて逃げ出そうと言っている者もいた。
「旦那様……」
日が落ち、月が顔を出す時間になっても二人が帰ってくる様子はない。まさか、ゼファーは魔物との戦いで怪我をして動けないでいるのではないだろうか。それなら、迎えに行かなければならない。戦闘の経験がないネネが魔物のいる森に入ることが危険であることは百も承知だ。それでも、この瞬間にもゼファーの命が尽きようとしているかもしれないと考えると、じっとしていられそうになかった。
ネネが着の身着のままで村を飛び出そうとしたが、森の入り口近くにいた村長トキに止められた。
「ネネよ、行ってはならん」
「トキ様、でも旦那様が」
「お主がゼファーの身を案じているのは分かっておる。それはあたしも同じじゃ」
「それなら」
「じゃが、一体お主が行って何ができる?足手まといになるだけじゃと思わんのか?」
確かに、ネネが一緒にいることでかえってゼファーに迷惑をかけるかもしれない。
「それは……」
「それに、気が気でないのは皆も同じじゃ」
言葉を失って俯くネネにトキは背後をちらりと見てから言った。
「みんな?」
顔を上げて村長の後ろを見ると、大勢の村人達がいた。皆一様に森の方を神妙な顔つきで見つめている。トキも同じ様に森に目を向けながら口を開いた。
「これはゼファーには話したんじゃがな、五年前にも今と同じことがあったんじゃ。森に魔物を狩りに行った者達が日が暮れても帰ってこんかったことがな」
「その方々は、いつ帰ってこられたのですか?」
ネネの問いにトキは乾いた笑みを作った。
「三十人以上が行って、明け方に一人しか帰ってこんかった」
「一人……」
ネネがそう呟いた時、森の方から何か痛みに震えているような明らかに人間ではない生物の声がした。
それを聞いてネネは肌が粟立つのを感じた。常人では決して太刀打ちできない、一方的に奪うだけの存在があの森にいる。
「この声は……」
トキが目を見開いて声を漏らす。何かを感じたのは村人達も同じだったようで、その場がしんと静まり返る。しかし、村人達が何を感じたのかネネには分からない。
「あの」
「この声は、五年前の魔物と同じじゃねえか!」
ネネの声を遮ったのは、ゼファーがいつも魔物の素材を売りに行っている店の店主のピートだった。ネネも何度か村で顔を合わせていたので覚えている。
ピートの声にトキがゆっくりと頷いた。
「うむ、唯一の生き残りであるお主が言うなら間違いなさそうじゃの」
トキが頷いたのを皮切りに村人達は騒ぎ始めた。
「五年前は三十人以上でやってもダメだったんだろ!?それを二人でどうするってんだよ!」
「勝ち目がねえ!もう終わりだ!」
「いや、一人は中央の騎士だからな、こっちに逃げてくるかもしれねえぞ」
「じゃあ、それを追っかけて魔物がこっちに来る可能性もあるじゃねえか!」
「だから中央から来た奴なんて追い出せって言ったんだよ!」
「旦那様を悪く言うのは止めて下さい!」
ネネは我慢できずに叫んだ。村人達視線が一斉に向けられるが、構わなかった。
「旦那様は……何一つ弱音を吐くことなく毎日命懸けで頑張っています。それは、この村を、あなた達を守るためです。それなのに、どうして……」
ゼファーが中央の騎士であるだけで、どうしてここまで傷付けられなければならないのだろうか。今この瞬間も、ゼファーは必死に刀を振るっているのに。その事が悔しくて、ネネの大きな目に涙が溜まった。ここで泣いてしまえば、何だか村人達の言葉を認めることになる気がしたため、ネネは唇を噛んでぐっと涙を堪えた。
ゼファーだって頑張っている。それなのに、こんなことでネネが泣いていいはずがない。ネネは潤んだ瞳でキッと村人達を睨みつけた。
「旦那様は絶対に逃げません。そして、無事にバッカスさんと帰ってきます」
その言葉をどこか自分に言い聞かせているようでもあった。ネネだって気付いているのだ。ゼファーが逃げないということは、則ちゼファーが真っ向からその魔物と戦っているということになる。
無事である可能性は極めて低い。
「旦那様……どうか、どうかご無事で」
脳裏に眠たそうな目をした青年の顔を思い浮かべながら、ネネはそう呟いた。