第十八話
目の前に危機が迫っているにも関わらず、動かないで立ち尽くしているバッカスを見て、ゼファーは言葉で自発的にバッカスを動かすのは無理だと判断した。
「くそっ」
森の先から何か得体の知れないものがこちらにやって来ている予感はあった。それなのにそこに向かおうとするバッカスを止められなかったのはゼファーのミスだ。
昔のゼファーならもっと早く気付いてバッカスに危険だと伝えられていただろう。やはり、五年間戦場から離れたせいで勘が鈍っているようだ。
しかし、今はそんなことを嘆いている場合ではない。
ゼファーは腰から黒刀を抜き放つとトップスピードで魔物とバッカスの間に割り込み、バッカスを押し潰さんと迫ってくる魔物の拳を両手での下段斬りで迎え撃った。
ジャキィンと金属同士がぶつかったような音が鳴る。やはり第Ⅲ種というべきか、魔物の拳は岩のように固く大きく、また体重が乗せられた攻撃は予想以上に重かった。そのため、魔物の腕を跳ね上げるつもりで放った斬撃はただ相手の拳を受け止めるだけに終わってしまった。
しかし、その停滞も一瞬のことだろう。とてもではないが、このままの状態を維持していられない。直ぐに力の均衡は崩れてしまいそうだ。
「くっ」
上からの重圧に耐えきれなくなった膝がガクンと沈む。腕もそろそろ限界だ。
「何をやってる早く逃げろ!」
未だに呆然としているバッカスに敬語を使うのも忘れて叫ぶと、バッカスはやっと我に返った。
「お、おう!」
バッカスが慌ててその場を離れたのを確認しすると、ゼファーは後ろに跳んで魔物の拳をやり過ごし、素早くバッカスの隣に並んだ。
「バッカスさん、足は動きますか?」
先程まで恐怖で凍り付いていたんだ、動くはずがない。それは百も承知だ。しかし、動いてくれないと困る。今はそんな泣き言を言っている場合ではない。それをバッカスも分かっているのだろう、バッカスは固い表情で頷いた。
「あ、ああ」
「なら、目だけ後ろに向けてみて下さい」
「分かった」
ゼファーに促されてバッカスが恐る恐る背後を窺う。そして、顔を凍り付かせた。
「嘘……だろ」
「残念なことに、現実ですよ」
ゼファーとバッカスの後ろには一体の魔物がいた。第Ⅱ種の狼形の魔物だ。
「どうやら、あちらさんは本格的に僕達を殺しに来たようです」
体力が減り、辺りが薄くなってきた所で前後を挟む形で現れたのが何よりの証拠だ。これまでとは一転、ゼファー達は狩る側から狩られる側になったようだ。
「あれじゃ逃げられねえ、どうすりゃいいんだ?」
「逃げられないなら、戦うしかないでしょ。前にいる猿形は僕が何とかしますから、バッカスさんは後ろの狼形をお願いします」
ゼファーの申し出にバッカスは慌てて口を開いた。
「なっ!お前正気か!?Ⅲ種の魔物を一人で相手にするなんてどう考えても無茶だろ!」
「これが最善策です。これ以外の方法で生き残る術はない」
「で、でもよ」
狼狽えるバッカスにゼファーは片頰吊り上げてニヤリと笑ってみせた。
「もし失敗すれば死ぬ。ただそれだけのことです」
そう言いながらゼファーは自分の体が熱くなっていくのを感じていた。この村に来てから、ゼファーは何度も魔物と戦ってきた。その中で、どこか違和感があった。「これじゃない」という漠然とした感覚が頭から離れなかった。そして今、その違和感の正体が分かった。
興奮だ。
今までの比較的弱い魔物を相手とする戦いでも、ゼファーは緊張感を持って戦っていた。しかし、どちらかというと自分が有利な状態での戦闘では、今のような緊張感は味わえない。
この絶望的な状況におけるひりつくような緊張感、このような中でしか幾つもの修羅場を経験してきたゼファーは興奮できない。
ゼファーは唇を一つ舐めると、魔物に突っ込んでいった。
☆☆☆
薄暗い森の中に何か固い物同士がぶつかり合うような音が何度も響き渡る。それを背中越しに聞きながら、バッカスは狼形の魔物と対峙していた。この魔物、ボスから手出ししないように命令されているのか、先程から全くこちらに向かってくる様子がない。
バッカスと狼形の魔物が睨み合っている中でもゼファーとⅢ種の魔物の戦いは続いている。
「あいつ……化け物かよ」
最初、バッカスは直ぐに後ろからゼファーの呻き声が聞こえてくると思っていた。だが、戦闘開始から十分以上経った今もその声は聞こえない。
「でも、そろそろやばそうだな」
ちらりと背後を窺うと、バッカスの予想通りゼファーは劣勢に立たされていた。ゼファーの武器はなんといってもそのスピードだ。大抵の魔物ならその速い動きについていけず、何もできないまま葬られてしまう。しかし、第Ⅲ種の魔物は甘くなかった。
ゼファーが懐に潜り込もうとすれば、大きく跳躍して距離を取ってしまう。第Ⅲ種の魔物の相手にその攻撃を避けきるだけでも至難の業なのだ。そんなことを繰り返せば、当然それ相応の体力を消耗する。バッカスはゼファーの体力が尽きてしまうのではないかと心配していた。
あのスピードで長時間動き回れるはずがない。ゼファーのスピードは衰え、魔物の猛攻を凌ぎきれなくなってきていた。そして、遂に魔物の爪がゼファーの左肩を切り裂いた。
「ぐっ」
ゼファーが呻き声を上げて片膝を着く。
「ゼファー!」
肩から腕に血が流れ、呼吸が乱れて苦しそうだ。それにも関わらず、ゼファーの目はギラギラと光っており、闘志の衰えは感じられない。
ゼファーは息を整えながらゆっくりと立ち上がると、バッカスが見た中でも最速の動きで魔物に接近していく。そうはさせまいと魔物がゼファーに上から拳を放つが、ゼファーはそれをジャンプして避け魔物の右腕に飛び乗った。そして、肘まで一気に駆け上がると魔物の首めがけて跳躍する。
「よしっ、いけえー!」
ゼファーは空中で左に体をひねると、それを利用して一文字に黒刀を振った。しかし、それは突然割り込んできた魔物の左手によって防がれてしまう。斬撃を止められたゼファーは足の届かない空中で無防備になってしまった。それを見て、バッカスは魔物がニヤリと笑った気がした。
「や、やめろおー!」
バッカスの願いが通じるはずもなく、魔物は頭を後ろに倒して勢いをつけゼファーに頭突きを食らわせた。ゼファーの体は弾け飛んで近くの木にぶつかり、それでも勢いを殺せずにその後ろの木々を何本も薙ぎ倒した後漸く止まった。
「て、てめえ!」
バッカスがいない間に村の兵士達を殺したのは猿形の魔物だった。
そして、今度はゼファーの命までも奪おうとしている。そんなことは許さない。
バッカスは怒りの雄叫びを上げながら疾走して魔物に近づいた。右側から接近したため、まだ魔物には気付かれていない。幸い、後ろにいる狼形の魔物が追い掛けてくる様子もない。
「うおおお!」
バッカスは大剣を振りかぶると、魔物の左の脇腹めがけて力任せに振り下ろした。
「え……」
しかし、バッカスの全力の攻撃は魔物の固い皮膚を深く傷付けることができず、致命傷には至らない。
「やばっ」
慌てて離脱しようとするが、それを魔物が見逃すはずがない。魔物はバッカスを見つけると、尻尾をしならせてバッカスの体を打ち付けた。
「がっ」
苦悶の声を上げながらバッカスは吹き飛ばされた。立ち上がろうとするが、先程受けた攻撃で左足を痛めてしまったようでうまく立ち上がれない。そんなバッカスに魔物がゆっくりと近付いてくる。
「く、くそお」
腹這いなって逃げようにも、後ろには狼形の魔物がいるためそれも敵わない。万事休す。バッカスがそう思った時、左の方から飛んできた細い物体が魔物の右目を貫いた。
「ガゥアア!」
魔物が右目を押さえて声を上げる。
「バッカスさん、僕の獲物に手出さないで下さいよ」
「ゼファー、か?」
森の奥の暗闇から、一歩、また一歩とゼファーがこちらにやって来る。近付いてくるにつれて、月光がゼファーの体を照らし出し、受けたダメージの大きさも浮き彫りにした。
服は所々裂けてしまっていてそこから幾つもの切り傷が覗いている。頭からも血が流れ、折れてしまったのか左腕は力なくだらりと垂れ下がっていた。第Ⅲ種の魔物の攻撃をもろに受けて生きているだけで凄いことだ。そう分かっていても、ゼファーが受けたダメージは目を逸らしたくなる酷いものだった。
しかし、それくらいのダメージを負っても尚、長い前髪の向こうに見えるゼファーの双眸はゾッとするほど冷たい光を宿していた。