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船旅

作者: 土田かこつ


「兄貴、まだ中に入らないんで?」


 船室から顔を出した年若い少年に、甲板にいた男は顔を上げた。

 とうに日の落ちた海の上は、いまだ霜が降る前の時期とはいえ肌を指す風が吹く。

 少年は上着の合わせを首もとで押さえて体を震わせた。


 一瞬開いた船室の扉からは騒がしい男たちの宴の音が聞こえてきた。

 おそらく、まだ酒も飲めない下っ端の少年が見張り番を押し付けられたのだろう。

 男は苦笑して少年に言った。


「なんだ、夜見番なら変わってやるからお前は中に入れ」


 指示に背くことに抵抗があるのだろうか。その場に立ち尽くしたまま動かない。


「あいつらには、俺から言っといてやるから」


 なだめるように言うと、少年は「いえ、」と言いにくそうに口を開いた。


「あの、親方が、兄貴がサイレンに魅かれないか見張っとけって」


 そういうことか、と男はと自嘲気味に唇を歪めた。



「……兄貴、サイレンって本当にいるんっすか?」


 首をすくめたまま男の横にきた少年は小声で問いかけた。


「正直、ちょいと信じがたいっす。親方に言うと怒られるけど」


 男は目を細めて遠くを見つめた。

 きっと少年は、自分が何故こんな役目を言いつけられたのかわかっていないだろう。

 親方が危惧しているのが、本当は古い言い伝えの中の魔物ではなく男のひどく個人的な理由によるものだということを。


「確かに我々船乗りの規律や伝承には迷信めいたものも少なくない」


 同意が得られたことが意外だったのか、少年は目を丸くして男を見上げた


「だが、こんな話もある。……『船上に女を入れるな』って知ってるか」


 不意に変わった話題に少年は怪訝な顔をした。


「『海の女神の怒りを買うから』ですか」


 男は黙ってうなづき、海に視線を向けたまま話し始めた。



 

 そいつもまあ、お前くらいの若い船乗りだったが……こんな戒律はくだらない、と初めから信じてはいなかった。

 あるとき、取引さきで親しくなった商家の娘がそいつのいる船に乗ってみたい、と言った。もちろん男どもは門前払いで突き放したさ。だが、そいつは娘の言葉に興味を持って、こっそりと持ちかけたんだ。

 もし、男の格好で働く覚悟があるってんなら乗せてやってもいいってな。


 そのころはまだ人の出入りが激しかったから、新入りだって言っても誰も疑いはしなかった。使える人手なら何でもよかったんだろう。そもそも女が船に乗ってくるってこと自体みんな考えもしなかったんだろうな。

 まんまと忍び込んだ二人はちょろいもんだと笑っていた。


 だが、娘を乗せた船が岸を離れたその晩、異変が起こった。

 昼間の晴天が嘘のような前触れのない大嵐だった。波は荒れに荒れた。穏やかなはずの海域に大渦が巻きおこり、船をもみくちゃに飲み込もうとした。


 そこで初めて、そいつは海の戒律のことを思いだした。

 だがもう、船は沖に出てしまっている。娘をどこかに下ろそうにも、この嵐を乗り越えないことにはどうしようもならない。

 そいつは娘から離れ、親方の指示にならって必死になって舵を取った。

 

 やがて、夜が明けるころになってようやく嵐が収まった。

 夜通し働いた船乗りたちが交代で眠りにつこうとしたそのとき、船の親方が集合をかけて疲れ切った奴らを前にこう言った。


「昨晩の嵐は、この船に女が一人紛れ込んでいたことによる海神のお怒りであった。

 女は何かの理由あって我が船にしのびこんだようだが、今朝方、そいつはこの嵐が自分のせいだと責任をとり、海に身を投げて神の怒りを鎮めた」


 ……その後は、その船は何の障害もなく航海を続けた。

 ただ次に立ち寄った港で年若い船乗りが一人、船から姿を消したというが、誰も気に留める者はいなかった。




 男が話し終えると、どちらかともなくため息を吐き出した。

 そのまま二人とも口をつぐみ、甲板は沈黙に支配される。

 少年は男の横顔をうかがいながら、どうしていきなりこんな話をしだしたのかを考えていた。

 自らが海の規律を迷信だといったことに対する戒めだろうか。

 だがそれにしては口調に忠告の色がまるでない。

 そもそも昔語りというよりは、知人の話をするような。

 いや、むしろこれは、


 考えに沈む少年の横で、男がぽつりとつぶやいた。


「サイレンがその女だというなら、会ってみたいものだな」


 静かな、だが少しだけ感情をにじませた声。

 その色がなんなのかは読み取れないが……


 脳裏に親方の声が蘇る。


『あいつがサイレンに魅かれないか見張っておけ』


 不意に少年は理解した。

 男を見張れと言われた理由。

 この人は、船乗りならば恐れなくてはならないはずの海の魔物に焦がれているのか。


『サイレンがその女なら』


「そんなはずないじゃないっすか!」


 少年は反射的に声を張り上げた。


「だって彼女は命を懸けて、兄貴のことを、船乗りとしての名誉ごと守ったんでしょう」


 もし、娘を手引きしたのが男なら、彼女は船に来たのは彼のせいだと罪を押し付けることもできたはずだ。初めから二人は共犯だったのだから。

 にもかかわらず、娘は男に知られぬように自らの素性を明かして身を投げた。

 彼女は守りたかったのだ。

 この男を。命だけでなく、その立場や人の関わりや男をとりまくあらゆるものを。


「だったら、彼女がサイレンになるはずがないっす」


 娘が、男を脅かす魔物になって姿を現すことはない、と。




 はっきりと言い切った少年の真直ぐな眼差しに男は目眩を覚えた。

 片手で顔を覆い、荒く息を吐く。

 この少年は、自分がどれだけ残酷なことを言っているのかわかっているのだろうか。

 先の言葉は確実に男の望みを叩き潰した。


 魔物でも何でもいいからもう一度姿をみせてくれ、と。

 叶うなら、自分もその懐に連れて行ってくれないか、と。

 ずっとそう願っていたのに。


 乱れた呼吸と格闘する男のまわりで闇がゆっくりと薄くなっていく。

 ふと顔を上げれば水平線から太陽が顔を出した。

 遮るもののない陽の光が水面を染め上げる

 淡く朱く船の二人をも包み込んで。

 

 洋上の朝焼けを前に、ああ、と男は嘆息した。


「……この光を、見せたかっただけなんだけどな」

 

 本当は。

 戒律に逆らいたかったわけではなく。

 危険にさらすつもりでもなく。

 ただ、自分が綺麗だと思ったものを見せようとしただけ。


 男は諦めたように笑った。


 彼女を殺した海を前にして。

 彼女の眠る海を前にして

 終えることもできず、逃れようもなく。

 潰えた望みを抱えても。



 航海はまだ終わらない。



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