4月。夕方の図書館でのこと。
「あ、お、おい! 緑川!?」
そう叫んだのも聞いていなかったのか、緑川はすごい勢いで走り去っていってしまった。館内は広いので、もう姿を見失った。
「おいおい……勘弁してくれよ……」
緑川がなにやら体調が悪くなりそうだったのでそのまま俺も保健室に行って帰る作戦がいっぺんで台無しになってしまった。
先程俺が持っていた本は、緑川に突き飛ばされたときに緑川にとられてしまったようだった。早く作業を終わらせて彼女は何か用事があるんだろうか。
そんなことを思いながら俺は立ち上がってズボンについた埃を払い、改めて蔵書点検の作業に移った。
本に触るのも嫌だが、そんなことをいちいち気にしていたらこの仕事はきりがない。
だから、今緑川がいない以上、何とかして一人で仕事を終わらせなければならない。
本は嫌いだが、頼まれ事をやりかけるのはもっと嫌いだった。
「やるしかねぇんだな……」
はぁ、と溜息をついていても自然と手は動いている。きっちりと仕事をやり遂げる体質って辛いな……。
小さい頃から、頼まれたことはやり通す主義だった。
まぁ、近くにいた幼なじみが好きな子の気を引こうと、仕事を引き受けては俺に手伝わせて……そのまま自分はどこかへとんずら。そして残った俺一人で仕事をやる……そんなことが続いて、今では『頼まれたことは絶対にやり遂げる』というのが信条になったような気がする。
こんな損な性格をお人好しというんだろうか。
不意に窓の方を見てみた。飾り気が一切ない、木枠の外は、いつの間にやらあかね色に染まっており、なかなかにキレイな風景を演出していた。桜はまだ散りきっていないのか、風に吹かれてひらひらと何枚か花びらが落ちていっていた。夕焼けと相まって、なかなかにキレイだと思う。
仕事に戻るかと本棚に視線を戻した。
そんな時だった。
目の前に一冊の本が飛び込んできたのは。
少しくすんだ赤褐色。縁には金色の装飾が施されていて、大きさは英語辞書くらい。そして鈍器にできそうなくらいに重そうな重量感を放っていた。
試しに手にとってみると予想より遙かに軽く、ノートと同じくらいの重さだった。
表紙を見てみると鍵付きのベルトがあり、本の中身を開くことができないようになっているよう。
だが一つ。この本には妙な点があった。
表紙に題名が入っていないのだ。
文字の一つも書かれていない。
記号の一つも書かれていない。
きれいな赤褐色がそこにはあった。
その本の表紙を少し見ていた時だった。
かちり
と、鍵が外れたような音がした。
不審に思ってみてみると、ベルト部分の錠が外れ、中が開けて見れらるようになっていた。
俺は何を思ったのか、中を見ようとしたとき、
「貴様」
不意に俺は声をかけられた。
声をかけられた方向を目を細めながら見ると、そこには手首まである長い振り袖があって、胸の辺りまである太い帯がある服――つまりは和服を着た、俺と同い年くらいの少女がそこにいつの間にやら立っていた。髪を首筋あたりで切っている――ボブカット、というらしい――ため、なかなかの和風的な美しさがあった。顔は逆光のため、あまり見えなかったが。
「その本を渡せ」
その少女がこちらに手を出しているのが何となく分かる。
と、同時にこの女がうちの生徒ではないと言うことも分かった。
「はぁ? 何言ってるんだ? そんなこと駄目に――」
決まってるだろ――と言おうと思ったときだった。
「もう一度言う」
その少女の背後から、
――巨大な何かの腕が出てきていたのに気づいたのは。
「その本を、渡せ」
少女は執拗にこちらに言い迫っている。だけども、この本を渡すわけにはいかない。
蔵書リストにも載っていなかったこの本を他人に渡す。
ひょっとしたらうちの高校の女生徒なのかもしれない。
だが、それはない。
うちの高校には茶道部なんて物は存在しないし、何よりこいつは今、明らかにうちの高校の制服を着ていない。
と、言うことはこいつは十中八九――部外者。
「……いやだ、と言ったら?」
俺はそのとき、声がうわずっていたのかもしれない。
でも、俺は確かにそういった。足がみっともなくがくがくと震えていたけれども。
女はあきらめたように首を振った(ような動作をした)後、
「……ならば力ずくでも、渡してもらう」
そういってその女は――いや、その少女はそのとき何もしていなかった。
ただ、その少女の後ろの空間から、何か――黒い、金色の複雑な文様が刻まれた筋肉質の腕がこちらに伸びてきていたことだけは覚えている。
※
ここは……どこだ?
なんか……妙にふかふかしているところだな。
ん? 声が聞こえる。
体は、動くみたいだな。
目を開いてみると……。
瀬戸が目の前で自身の拳を俺にふるおうとしていた。
「お? 起きたか」
「……起きたかじゃねぇよ。何してんだ」
「いや……あの……これは……起こすための準備体操的な……」
「歯切れ悪るいなおい! てか俺を殴る気満々だったんだろ!」
「ちっ。分かったよ。認めればいいんだろ! 俺はお前を文字通りたたき起こそうとしたよ! それが何か悪いか!」
「悪いわ! つか開き直るな!」
俺はそう叫んで瀬戸をベッドからたたき落とした。
それはともかくとして。
「ここ……保健室だよな? 何で俺はここにいるんだ?」
真新しいシーツに安心感を与えそうな緑色のカーテン。ちょっとベッドが狭いがここは確かに保健室だ。
瀬戸は素っ気なく、
「図書館でぶっ倒れてたんだぞ。お前」
俺は自分の耳を疑った。
ぶっ倒れていた? そんなはずはないだろう。
「ちょっと待て。俺は確かに倒れてたのか?」
「ああ。倒れてた。詳しく言うんだったら俺は命からがら姉貴の抱擁と接吻と抱擁の地獄から抜け出して一息つこうとしていたらお前がいてその横には蔵書点検用のプリントらしき物が落ちていた」
ちょっと待て。
いろいろとつっこみたい部分もあるんだがちょっと待て。
「他に誰かいなかったのか? それになんか本棚とか倒れてなかったのか?」
瀬戸はその発言を聞いて、少しの間が開いた。
瀬戸は口を開き、俺の肩にぽんと腕を起き、
「あー、彰君。君は少し疲れているんだ。もうしばらくここで寝ていなさい」
「なんでだよ!?」
俺は腕を払い、瀬戸に抗議した。そして倒れる前の出来事を話していると、
「だぁから。本棚も倒れちゃいなかったし、他には誰もいなかった。これは誰もが知ってる周知の事実だ。つかお前倒れてるときにそんなラノベみてぇな夢を見るな! うらやましいわ!」
「そんなはずねぇだろ! ちゃんといたんだから! もっとよく調べてみろよ! つか最後いらねぇだろ!」
「調べずもがな分かっている。大方お前は倒れたときにどっか頭を強く打って、お前が寝ていた時に見ていた夢と現実がごっちゃになってんだよ」
夢?
あのとき、あの図書館、あの場所で見たことは全部俺がぶっ倒れてたときの夢……だったのか?
にしてはかなりリアルに鮮烈に頭に残ってるんだが……。
……いかん。段々と混乱してきた。
「? 彰?」
「帰る。望さんにはお前から話しておいてくれ」
結局。
俺はその日、家に帰った。




