金魚すくいの横の店
いつもよりさらに静かな夜道を、サンダルを引きずりながら歩いていく。せっかく持ってきた団扇も、風でさえ温かい夏の夜では効き目がほとんど感じられない。半ズボンのポケットに入れた小銭を左手で握りしめながら、右の袖で額を拭う。お気に入りのTシャツの袖が汗でじんわりと染まっていくのを二の腕に感じながら、背中の方にまで湧いてきたぬるい汗をごまかすように裾を持って風を入れる。
そのまま歩いていくと、徐々に静かな夜道は終りを告げ、笛や太鼓の活きの良い音が遠くの方から聞こえ出してきた。はしゃぎながら早歩きで俺を抜いて歩いていく、小学生か中学生くらいの浴衣の少女たち。そんなに急いでいると可愛い下駄で靴ずれするよ、と心の中で呟きつつ腰に刺した団扇を右手に持ってきてあおいでみる。やっぱり持ってこなくて良かった。早くかき氷でもジュースでも買って涼しみたい。電線の上に星々が積まれているような夜空を眺め、背筋を伸ばす。ゴリゴリっと良い音を出し、気を取り直して歩く歩幅を伸ばした。目の前の角を曲がればすぐ神社だ。その神社だけが他と比べてやけに明るく、やけに活気に満ちている。俺は角を曲がってすぐの鳥居を久々にくぐった。この町の人をすべて集めたような大勢の人、人、人。美味しそうな香ばしい匂いに、神楽の笛や太鼓の音。電力装置のうなるような重低音。子供のはしゃぐ声。群れをなして泳ぐ小魚のような溢れんばかりの自転車。これぞ子供の頃から変わらない夏祭りである。
童心にかえった俺に、その思い出は突然フラッシュバックしてきた。もう忘れたはずなのに、そいつはやけに鮮明で、さらにじわりと汗を誘った。進む足を止め、立ちすくんだまま団扇をあおいでみても離れないその儚い思い出の中に、俺はいつのまにか入っていった。
俺がまだ小学生だった頃、あいつはクラス一のお祭り女だった。対する俺は泣き虫で、いじめられっ子で、クラスの中でも存在感は薄かったほう。町の一大イベントである夏祭りでさえクラスのみんなと行かずに親と一緒に行っていた。だが、俺は五年生の夏、はじめて一人で夏祭りに来てみた。親がいるときとは違う開放感からかどんどんお金を使ってしまって、ものの一時間ほどで所持金はあと百円だけとなってしまった。友達と一緒に来ているわけでもないし、神楽はほとんど理解できないし、暇つぶしのしようがない。もう帰ってしまおうかとも考えたが時間的に早すぎる。せっかく羽を伸ばしたのだからもう少しこの場にいたかった。一人ぼっちで困っていた俺だったが、そこに救世主が現れた。クラス一のお祭り女、杏ちゃんだ。その笑顔はしっかり日焼けしているせいか真っ白な歯がひときわ輝いて見える。Tシャツを肩までめくって、まるで男の子みたいだった。
「ねぇ、型抜きしようよ!」
「カタヌキ?」
小学五年生の頃の俺の頭の中にはカタヌキなんて単語はなく、つまり初耳の単語だった。仁王立ちして腰に手をやっている杏ちゃん。大きな瞳で俺をじっと見つめている。そんなに見てくるのなら付いていくのも一つの手だが、知らないものはなんでも怖かったあの頃だ。ためらって迷っているうちに顔が言うことを聞かなくなって涙が出てきた。
「ほらほら泣かんの」
杏ちゃんは自分のTシャツで俺の涙を拭いていく。その頃の俺よりも少し背の高い杏ちゃんはさらに大きく見えて、チビで泣き虫と言われてきた俺はより一層自分の存在が小さく感じられた。
「でも、でも、お金がもう百円しか無いけぇ」
「百円あれば一回出来るよ! 大丈夫じゃけぇ一緒にやろうや。ねっ?」
Tシャツで涙をふかれながら、俺は何度もうなづいた。
杏ちゃんに手を引っ張られてずんずん進んでいく。たこ焼き、綿あめ、射的、お面、りんご飴。ヨーヨー釣りにかき氷、落書きせんべい。オボロムすくいなんていう変わったものまである。その向こうのチョコバナナの向かい側、金魚すくいの隣に、ひときわ目立つ赤と白の大きなパラソル。そこがカタヌキのお店だと杏ちゃんは笑顔で教えてくれた。
パラソルの中におそるおそる入ってみると、中は意外と明るくて賑わっていた。ビール瓶がいくつも入っていたと思われる赤や深緑のケースを柱に、木の板で即興のテーブルを作って、その上でみんな一生懸命になって作業し続けている。お祭りのにぎわいとは正反対の光景に、また涙が溢れてきそうになった。
「おう、お嬢ちゃんやっときたかい。今日も難しいの入っとるけぇの!」
威勢の良いおじさんが頭にタオルを巻いて、作業している小学生たちを見下しているようにしか見えなかった俺には、その笑顔がどうも不釣り合いに感じられて変な気分だった。杏ちゃんはさっそく何かを注文してテーブルに両手をつきながら地面に座ると、他の小学生たちから注目が集まった。いったい何が始まるのだろうか。
「圭太くん、ここ座りんさい」
はじめて杏ちゃんに自分の名前を呼ばれた。たったそれだけのことなのにちょっと嬉しかった。杏ちゃんの隣にいたやんちゃそうな小学生が、俺のためにしぶしぶ寄ってくれて、間近で杏ちゃんのカタヌキを見ることができそうだ。
「はい、一回二百円ね」
「え、去年は百円だったよ!」
「ごめんなぁ、今年から二百円に変わったんよ」
二百円。それは百円しか持っていない俺には出来ないものだった。さっきと話が違うじゃないかと思うと、また涙が伝いそうになった。
「そうなん……ちょっと待っときんさい。うちがなんとかするけぇ!」
そう言うと杏ちゃんはおじさんからピンク色の小さな正方形の板を受け取り、テーブルの上に置いて息を吹きかけた。
「これね、一番難しい蛇の形なんよ。これが完成したらね、一万円もらえるんよ!」
「一万円?」
指を折って数えていく俺。一、十、百、千、万。
万!
そんな大きなお金なんて持ったことが無い。このカタヌキが成功したらなんでも出来てしまう。幼心を満たすのにその値段は十分すぎるものだった。
乗り出して眺める俺を横目に、杏ちゃんは淡々と作業をしはじめた。まずは端っこの部分をパキパキと大胆に折っていく。それが終わると置いてあった歯ブラシを手に取り、丁寧に磨いていく。一通り済んだのか、今度は画びょうを取り出して、蛇の形を優しくなぞっていく。派手さのない地味な作業だが、それを初めて見る俺の目には輝いて見えた。見ているだけなのに手に汗がにじみ、首筋にぬるい一筋が何本も伝っていく。さっきまで笑顔だった杏ちゃんは真剣な表情を少しも崩さず、自分だけの世界に入り込んでいる。ちょっと目を離して辺りを見回すと、何人かは自分の作業を止めてまで杏ちゃんの作業を眺めている。もしかして杏ちゃんはこの小学生たちにとっては有名人なのだろうか。だとしたらすごい。うらやましい。ずっと前に授業で習った“尊敬”という言葉はきっとこれなのだと気付いた瞬間だった。
しばらく時間が経った頃、蛇の形はもうほぼ完成していた。その頃にはもうパラソルの中のほとんどの人が杏ちゃんに注目していて、なぜか俺までもが誇らしく思えてきた。表情を崩さないまま杏ちゃんは一息つくと、画びょうで最後の仕上げをして、歯ブラシで綺麗に磨いた後おじさんにそれを渡した。杏ちゃんはまだ真剣な表情のまま身を乗り出すようにおじさんを見つめている。おじさんは細部までチェックしてため息をついた。
「お譲ちゃんにはやっぱ敵わんなぁ。悔しいけど俺の負けじゃあ」
そう言っておじさんは隠していたように封筒を奥から取り出すと、杏ちゃんにそれを渡した。周りからはいつの間にか拍手の渦が出来ていて、杏ちゃんは小さくお辞儀した。と思ったら、手に持っている封筒をおじさんに返してしまった。せっかくの一万円なのに、どうしたのだろうか。
「おじさん、千円分使う。圭太くんにもやらせてあげるんよ!」
「え、いいの?」
「うん、いいよ! おじさん、一番簡単な奴くださいな」
杏ちゃんのカタヌキを見ていたらやりたくならない方がおかしい。いつしかあんな風に上手にカタヌキをしてみたいなぁと憧れるようにまでなっていた。
目の前に現れた模様は、野球で使うバットのような形。これなら俺にも出来そうだと思い、早速歯ブラシで入念に磨いてみた。白い粉が無くなって、いっそう溝がくっきりと現れてきて、俄然やる気になる。ガリガリと思い切って掘っていったその時だった。パキッと良い音がして、バットの絵の部分が綺麗に割れてしまった。あっけない幕切れに、一気に現実に戻された俺の目は、遂に防波堤を超えて泣いてしまった。たった十円の賞金しかもらえないような簡単なカタヌキでこれだということは、もちろん他のに挑戦してもダメに決まっている。そう思うとますます涙がこぼれて、木のテーブルを濡らしていってしまった。
と、その時。うつむく俺の口元に何かが触れて、横から杏ちゃんの顔がのぞきこんできた。
「これ、食べんさい。あんまり味がせんけど食べれるんよ!」
なんと杏ちゃんが俺の口元に持ってきていたのは、さっきまで必死になって削っていたあのピンク色の小さな板だった。確かにガムに似ていて美味しそうだとは思っていたが、まさか食べられるとは。試しにひと口で舌の上に置いてみた。確かにあんまり味はしない。強いて言えばイチゴのガムを噛んで味が無くなった後のような感じ。でもこれはこれでこういうものなのだと思えば、そう不味くも感じなかった。
「ありがと」
「いいえ。まだいっぱいお金はあるけぇ、頑張ってみようや!」
なんて優しい子だろう、と素直にそう思った。泣き虫と言われ続けて学校ではいじられてばっかりで、今までこういう扱いに慣れていなかったせいか、さらに杏ちゃんが良い人に見えてきた。いつまでもカタヌキを一緒にしていたい、夏祭りに終わりが来てほしくない。出来ればさっきの一万円を全て使い果たしてしまうほどずっとこの作業をしていたい。杏ちゃんと一緒にひとつ、またひとつと小さい板を買っては作業に没頭した。この時間は永遠だと思った。時々隣が気になって見てみたら、ちょうど視線の先が合って照れくさくなってまた作業に没頭する。その繰り返しが楽しかった。普段の“楽しい”とは違う楽しさ。何度も失敗しては口の中に板を入れ、それだけでおなかがいっぱいになりそうだった。
そしてとうとうその時が来た。六回目の挑戦のときのことだった。一番最初に挑戦したバットの形をもう一度やってみると、慣れたせいか自分でも意外なほど上手くいく。途中、難しそうなところは杏ちゃんに助けてもらいつつ丁寧に丁寧に削っていくと、遂に小さなピンク色の板はバットの形になった。
「なぁ、見て見て杏ちゃん!」
嬉しいを飛び越して、ついつい興奮してしまいながら杏ちゃんにそれを渡して見せつける。他の人にとってはなんでもないただの簡単な形なのだが、俺にとっては人生初の成功だ。杏ちゃんはそっと微笑んで、そのまま俺のポケットにバットの形をそっと入れた。
「やっとできたね! 記念に持って帰りんさいね。大事にするんよ!」
また照れくさくなって下を向いていると、左手を上の方へと強引に引かれた。杏ちゃんが立ちながら引っ張っていたのだ。急な出来事で焦っている間に俺の体はいとも簡単に引き上げられた。
「さ、うちらはもう帰らんと。お母さんが心配するじゃろ?」
早歩きで進んでいく杏ちゃん。抵抗する暇も無く一緒に鳥居を抜け、自転車の群れを避けながら静かな道路に出た。さよならも言わずに杏ちゃんは俺のから手を離してそのままそれを振って、どこかへ行ってしまった。俺はどうしようもなく、とにかく早く帰らないとお母さんに怒られると思い、必死に走って帰った。ポケットの中の小さなバットの形は、ぐっと握りしめたまま帰ったせいで家に着く頃にはふやけてボロボロになっていた。
そのバットの形が、現在どこにあるかは分からない。もしかしたら幻だったのではないかとさえ思っている。そして、杏ちゃんとはそれっきり話すことはなかった。六年生の時は違うクラスだったし、小学校卒業とともにどこかの中学校へお受験で行ってしまった。あの時覚えた不思議な感覚は、今となっては初恋だったのかもしれない。現実に引き戻された俺は、色々ある出店の中にあの赤と白のパラソルを探して回った。たこ焼き、綿あめ、射的、お面、りんご飴。ヨーヨー釣りにかき氷、落書きせんべい。オボロムすくい、チョコバナナ、金魚すくい。何もかも変わらない出店の中に、ひときわ目立つ赤と白のパラソルを見つけた。あの日、杏ちゃんが教えてくれた型抜きの出店。さすがに小学生たちにまぎれるのは恥ずかしかったが、あの日と同じように恐る恐る入って見ると、おなじみの賞金表を見つけた。今日の一番簡単な形はハートか。確かに細い部分が無くって簡単そうだ。試しにやってみよう。
「おじさん、ハートひとつで」
それを受け取ったその時、パラソルが微かに動き、誰かが俺の隣に座った。見るからに小学生とは思えない大人な女性だ。日焼けはしていない綺麗な白い肌。ひと目で綺麗な方だと素直にそう思った。
「おじさん、今日の一番高いやつよろしく!」
優しそうな笑みを浮かべながらピンク色の板を受け取ると、途端に真剣な表情に変わった。その豹変ぶりに、俺はあの日の杏ちゃんと重ね合わせてみた。確かに肌はまったく焼けていないし、Tシャツでもないのだが、輪郭と言い、表情と言い、どことなく似ているような気がする。まさか、杏ちゃん?
杏ちゃんとよく似ている女性は、俺の方なんか見向きもしないで作業に没頭していた。息を吹きかけ、歯ブラシでこすって、画びょうで丁寧に削る。手つきもあの日のままだ。間違いない、この人は杏ちゃんだ。
とはいえ、話しかける間もなくハートが出来上がってしまった。簡単すぎる形ゆえに時間がまったくかからなかった。いまさら話しかけるのもどうかと思い、遂に俺はハートの形を持ったままパラソルを後にした。熱のこもるパラソルの中から解放されて一瞬ちょうどよい夜風に吹かれて気持ち良かったのだが、なぜかまたすぐに体が火照ってきた。どうしたのだろう。体の内側から暑い。というより熱い。手の中にあるハートの形に汗がにじんでいく。そっと手を開いてハートの形を眺める。そのうち、俺は思いついてしまった。ただこの作戦は失敗したらどうしようもないし、そもそも意味なんてほとんどない。でも、あの頃の思い出を今後永遠にしまっておくためには必要なのだと思う。意を決して、俺は振り返った。
パラソルをまた恐る恐るくぐる。やはりまだ杏ちゃんだと思われる女性は作業に没頭したままだった。俺はそっと近づくと、軽そうな羽織物の小さなポケットにそっとハートの形を入れた。いつか杏ちゃんがしてくれたように、俺もそうしたのだ。そして心の中でささやいた。
“できれば、本当に良かったらでいいから、大事にしてください”と。
なんだか、肩の力が抜けたような気がする。群れをなして泳ぐ小魚のような溢れんばかりの自転車。子供のはしゃぐ声。電力装置のうなるような重低音。美味しそうな香ばしい匂い。この町の人をすべて集めたような人だかり。そして神楽の笛の音。それらすべてを背に、鳥居をくぐった。