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結婚予告で三週続けて「異議あり」の声が上がりました。三人目は花嫁のわたしです

掲載日:2026/10/06

 一週目に手を挙げたのは、婚約者の昔の恋人だった。

 二週目は、婚約者の叔母だった。

 三週目に手を挙げたのが誰か、教会じゅうが振り返った。

 わたしだった。


    *


 五月の二度目の日曜日、聖ヌメリア教会の窓は、朝から雨に濡れていた。

「本日、婚姻の予告をいたします」

 フィンチ牧師は、説教台の上で一枚の紙を広げた。白い髪をきちんと撫(な)でつけ、読み上げる前に一度だけ眼鏡を押し上げる。この教区で三十年、同じ手つきで誰かの結婚を読み上げてきた人だ。

「西の岬、ペンローズ子爵ヒュー・ペンローズ。この教区、ブライアリー準男爵(じゅんだんしゃく)が娘、ヘレナ・ブライアリー」

 自分の名前が、石の天井に跳ね返って降ってくる。

 隣に座るヒューは、前を向いたままだった。古びて袖口の光る黒の上着。けれど襟は、今朝ちゃんと糊(のり)がきいている。膝の上で組んだ手は、指の節まで動かない。

 後ろの席で、扇の開く音がした。

「茶の葉で爵位を買ったのね」

「買われたのは子爵様のほうでしょう」

 ささやき声は、ささやくつもりのない大きさだった。

 わたしは顎を引き、商会の試飲室で客の前に立つときの顔をつくった。誰が何を言っても、口の中の茶の味だけを見ている顔。十六の年から、六年かけて覚えた顔だ。

 わたしの父は、茶の商人から身を起こして準男爵になった。貴族院に席はなく、社交界では「茶箱の準男爵」と呼ばれている。父の向こう側の席で、本人は腕を組み、満足げに天井を見上げていた。

「逃げ道をふさいでからが商いだ」

 それが父の口癖だった。婚約証書に署名した日も、そう言って笑った。何から逃げる道を、誰の分ふさいだのか、わたしは訊かなかった。

 婚約して三か月、出会ってから半年。

 ヒューは、一度もわたしに「愛している」と言ったことがない。

「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」

 牧師の声が、少しだけ低くなる。決まり文句だった。三十年、この教会でその問いに答えた者は、たぶん一人もいない。

 雨の音。誰かの咳払い。

 会衆席(かいしゅうせき)のきしむ音がした。

「異議がございます」

 通路の向こう、三つ前の列で、淡い藤色の帽子が立ち上がっていた。

 ミランダ・アボット。アボット男爵家のご長女。三年前の社交期、誰もが求婚者の数を数えた人だ。

 教会じゅうの首が、一斉にそちらへ回った。

「ペンローズ子爵様は、三年前、わたくしに求婚なさいました。わたくしはまだ、お返事をしておりません」

 ミランダ様の声は、少しも震えていなかった。

 牧師が眼鏡を外し、また掛けた。

「異議を承りました。審べ(しらべ)は、今週のうちに祭具室(さいぐしつ)で行います。それまで、この予告は保留とします」

 ざわめきが、天井まで上っていった。

 ヒューが、初めてわたしのほうを見た。

 灰色の目だった。何か言おうとして唇が動き、そのまま閉じた。

 言わないのだ、と思った。

 この人は、いつも、肝心なことを言わない。

 礼拝が終わると、人々はわたしたちを遠巻きにして出ていった。教会の前の石段で、父がヒューの肩を叩いた。

「なに、一週遅れるだけだ。商いでは、よくあることですよ」

 ヒューは「はい」と答えた。父には、いつも「はい」と答える人だった。

 馬車に乗りこむとき、ヒューはわたしの手を取って、段を上がるのを支えた。手袋越しの指は、雨のせいか、ひどく冷たかった。

「水曜に、伺います」

 それだけ言って、彼は手を離した。


    *


 その晩、わたしは商会の二階にある試飲室で、一人で湯を沸かした。

 白い磁器の茶碗が二十ほど並ぶ長い台。壁一面の棚に、東から届いた茶の見本の缶。湯の沸く音を聞いていると、少しだけ息ができる。

 あの人と初めて会ったのは、去年の十一月だった。


 東方交易会社の茶の競りは、季節に一度、港の大倉庫で開かれる。台の上に東の茶の見本が百も並び、各商会の目利きが一つずつ淹れては値を書きつけていく。わたしは父の名代(みょうだい)として、その台に立っていた。女の目利きは、わたしだけだった。

「失礼。少し、よろしいですか」

 声をかけてきたのは、見慣れない若い紳士だった。仕立ては古いが、手入れのゆき届いた外套。手に、小さな錫(すず)の缶を一つ持っていた。

「母の温室で育った茶です。値がつきますか」

 商人でも仲買人でもない人が、競りの台に茶を持ってくるのは珍しい。周りの目利きたちが、面白がって手を止めた。

 缶を開けると、細く撚(よ)れた濃い緑の葉が入っていた。東の、それも敷島(しきしま)の茶の木の葉だった。

「どちらの温室ですか」

「西の岬です。母が二十年前、明星町(みょうじょうまち)の商人から苗を三十株買って、硝子(ガラス)の温室で育てました。母が亡くなってから、誰も手を入れていません」

 わたしは湯の温度を少し下げて、葉を蒸らした。

 母の言葉を思い出す。茶は急いで淹れない。

 色は薄い金。香りは青く、若い草のようで、奥にかすかに花がある。口に含むと、舌の脇に細い渋みが走って、すぐに消えた。

「飲めます」

 紳士の顔が、少し明るくなった。

「でも、まだ売れません。若い茶です。木が、まだ自分の味を決めていない。あと五年」

 周りの目利きが、くすりと笑った。値がつかないと言われた客は、たいてい不機嫌になる。

 ところが、その人は笑った。声を立てて、楽しそうに。

「五年なら、待てます」

 ちょうどそこへ、東方交易会社の総裁、ハースウッド侯爵が通りかかった。侯爵は台の茶碗を一つ取り、香りを見て、珍しく自分の指で缶の葉をつまんだ。何も言わずに、また歩いていった。

「ペンローズです。ヒュー・ペンローズ」

 それが、子爵様だった。


 翌週から、ヒューは毎週水曜に商会の試飲室へ来るようになった。茶の見分け方を教えてほしい、と。温室の茶を、五年後に自分で淹れられるように。

 授業料は、帰りに机に置いていった。上着の内側から革の小銭入れを出し、シリング銀貨とペニー銅貨を一枚ずつ数えて、きっちり同じ額を。断っても、首を振った。

「借りは、作らないことにしています」

 普段は無口な人なのに、茶の話になると、急に言葉が増えた。湯の温度のこと、葉の撚(よ)り方のこと、母君が温室の窓を冬じゅう布で覆っていたこと。わたしの舌が言い当てた産地を書きとめては、「あなたの舌を信じます」と言った。

 棚の一番上には、三年前にわたしが配合した茶の見本缶が並んでいる。注文を受けて作った記念の茶だ。ヒューはその札を一つずつ読んで、どれがいちばん難しかったかと訊いた。そんなことを訊かれたのは、初めてだった。

 冬のあいだ、水曜が来るのが待ち遠しかった。

 二月の終わり、父が外から帰ってきて、外套も脱がずに言った。

「ペンローズ子爵家との縁組をまとめた。持参金は一万ソヴリンだ」

 子爵家には、先代の頃からの借財(しゃくざい)が残っている。岬の領地は痩せていて、屋敷の屋根は傷んでいるという。持参金があれば、借財も屋根も片づく。

「あちらは家が立ち直る。うちは爵位の縁ができる。いい商いだ」

 冬の水曜の時間が、帳簿の一行に変わる音がした。

 ヒューは、その週の水曜も来た。いつものように茶を淹れ、いつものように小銭を数えて帰った。婚約のことは「よろしくお願いします」とだけ言った。

 それから三か月。茶の話はする。笑いもする。

 けれど、一度も。


 気がつくと、茶碗の茶はすっかり冷めていた。

 顔を上げると、棚の一番上の缶が目に入った。三年前の夏の札が、細い紐で下がっている。

『ミランダの朝』


    *


 水曜の午後、祭具室には、古い蝋(ろう)と羊毛の匂いがこもっていた。

 机の向こうにフィンチ牧師。その右手にミランダ様と、付き添いのアボット男爵夫人。左手にヒューとわたし。そして、ヒューの後ろの椅子には、ヒューの叔母のコーデリア様が座っていた。亡くなった叔父君の奥方で、ヒューの後見をしていた家の人だ。身内の付き添いとして、と自分から申し出たらしい。

「手順を申します」

 牧師は膝の上で手を組んだ。

「異議が出れば、私は一週間のうちに双方から話を聞きます。根拠があれば主教(しゅきょう)様に上げ、婚姻は止まります。なければ退け、予告は続きます。それだけです」

 それから、ミランダ様のほうを向いた。

「求婚を受けたのは、いつですか」

「三年前の夏です。東方交易会社の夏の茶会の、前の週でした」

「お返事をしていないと」

「はい。考えさせてくださいと申し上げたきりです。お断りしてはおりません。ですから、約束は生きております」

 ミランダ様は、まっすぐ牧師を見ていた。きれいな人だった。三年前より少し痩せて、手袋の指先がきつく握られている。

「子爵様。求婚は事実ですか」

「事実です」

 ヒューの声は低く、少しの迷いもなかった。

「三年前の夏、アボット男爵家に伺い、ミランダ嬢に結婚を申し込みました。お返事はいただいておりません」

 わたしの膝の上で、手袋が汗を吸った。

 牧師がペンを取った。

「では、問題は、その求婚がまだ生きているかどうかになります」

 わたしは、三年前の夏を思い出していた。

 東方交易会社の夏の茶会。わたしは十九で、商会の娘として給仕の側にいた。貴族の茶会では、商人の娘は客ではない。銀の盆を持ち、茶葉の名を訊かれたら答える係だ。

 その日、広間の真ん中で、婚約の披露があった。

 会社の重役のご子息が、一人の令嬢の手を取った。そして記念に誂(あつら)えた茶で、乾杯した。

「失礼いたします」

 わたしは立ち上がっていた。全員の目がこちらへ向く。

「牧師様。商会から、取り寄せたいものがあります。半時間ほど、いただけませんか」

 ミランダ様の顔から、すっと色が引いた。


 半時間後、商会の小僧が息を切らせて祭具室の扉を叩いた。わたしは受け取った缶を、牧師の机に置いた。

 小ぶりの錫の缶。細い紐で、札が一枚下がっている。

「わたしの家の商会では、注文を受けて記念の茶を配合いたします。三年前の夏、わたしが配合したものです」

 牧師が札を読み上げた。

「『ミランダの朝。ミランダ嬢に捧ぐ。婚約を記念して。一一三九年夏』」

 祭具室が静かになった。

「ご注文は、東方交易会社の重役のご子息からでした。夏の茶会で、婚約の披露の乾杯にお使いになりました。わたしはその場で給仕をしておりました」

 わたしは缶から目を上げなかった。

「目利きは、誰がいつ何を飲んだか、忘れません」

 しばらく、誰も何も言わなかった。

「アボット嬢」

 牧師が静かに言った。

「求婚の翌週に、ほかの方との婚約を披露なさった。お返事は、そのときに済んでいたと見るのが道理です」

 ミランダ様は唇を噛み、それから、ふっと力を抜いた。

「……あの方はもう、わたくしを要らないと言ったの」

 誰のことかは、言わなかった。重役のご子息との婚約が、去年の冬にいつのまにか消えたことは、社交界の誰もが知っていた。

「異議は退けます。予告は続けます」

 牧師がペンを走らせた。

 コーデリア様は、椅子の上で表情ひとつ変えなかった。

 部屋を出るとき、わたしは缶をミランダ様に差し出した。

「まだ少し残っています。お好きだった茶です」

 ミランダ様は缶を見て、わたしを見て、首を振った。何も言わずに、母君と出ていった。

 わたしは缶を、祭具室の机の端に置いたままにした。


 石段を下りたところで、ヒューが追いついてきた。

「ヘレナ」

 名前を呼ばれるのは、まだ慣れない。

「三年前、叔母に勧められて、持参金のある方に求婚したのは本当です。翌週、あの方がほかの方と婚約なさったと聞いて、ほっとしました」

 風が、教会の前の菩提樹(ぼだいじゅ)を揺らした。

 ほっとした、という最後のところが、どうしても耳に入ってこなかった。

 持参金のある方に。

 ただその言葉だけが、石段に落ちた雨粒のように、いつまでも跳ねていた。

 その日も水曜だった。ヒューはいつものように試飲室へ来て、いつものように茶を淹れた。訊こうと思った。三年前のことではなく、今のことを。わたしのことを。

 湯が沸く音がした。

 わたしは立ち上がって、やかんを火から下ろした。それで、言葉も一緒に下ろしてしまった。


    *


 木曜の午後、わたしは茶の缶を一つ包んで、コーデリア様の屋敷を訪ねた。

 花嫁から、夫になる人の身内へのご挨拶。そういう体だった。本当は、ただ怖かった。日曜までに、少しでも気に入られておきたかった。そうすれば二週目は、何も起きないかもしれない。

 コーデリア様の屋敷は、王都の西の、静かな広場に面していた。

 客間に通されて、わたしは思わず足を止めた。壁一面に、敷島の絹の壁紙が貼られている。金の雲と、白い鶴。今の社交界でいちばん高価な明星趣味(みょうじょうしゅみ)だ。猫脚(ねこあし)の長椅子も、飾り棚も、角がまだ丸くなっていない。

「素敵なお部屋ですね」

「主人の趣味でしたの。亡くなる前に、ひととおり整えてくれて」

 コーデリア様は、五十を過ぎても背筋の伸びた人だった。黒い喪(も)の飾りを、胸元にまだ一つだけ留めている。

 廊下で足音がして、若い男の人が顔をのぞかせた。

「母上、出かけて……あ、失礼」

「息子のジャイルズよ。ご挨拶なさい」

「初めまして。従兄がお世話になっています」

 ジャイルズ様は人のよさそうな顔で頭を下げ、そのまま出ていった。

「いい子でしょう。ヒューに子がなければ、岬の家はいずれ、あの子のものになるの。男の血筋でいちばん近いのは、あの子ですもの」

 コーデリア様は、扉が閉まるまで息子の背中を見ていた。

 わたしの淹れた茶に、コーデリア様は口をつけなかった。カップを受け皿の上で少し回し、それきり手を離した。

「祭具室では、見事でしたわね」

「恐れ入ります」

「でも、あれで何が分かったのかしら。三年前、あの子がどこの娘に求婚したか、あなたにももうお分かりでしょう」

 わたしは膝の上で手を重ねた。

「アボット家は、あの年、いちばん持参金の多い家でした。あの子は、持参金のある娘なら誰でもいいの。責めているのではないのよ。借財のある家の当主は、そうするしかないのですもの」

 コーデリア様は、気の毒そうに眉を下げた。

「わたくしはね、あの子の母親代わりだったの。あの子が金のために一生を縛られるのを、見ていられないだけ」

 白い鶴が、金の雲の中で、羽を広げていた。

「あなたも、商家の方なら分かるでしょう。お金で買ったものは、お金の分しか、あなたのものにならないのよ」

 帰り際、玄関で、コーデリア様はわたしの手を取った。

「あの子を、自由にしてあげて」

 玄関の脇に、古い肖像画が一枚だけ掛かっていた。黒い髪の少年が、大きすぎる上着を着て、まっすぐこちらを見ている。

「あの子の、十五の時よ。兄が亡くなった年。主人が後見を引き受けて、六年、あの子の家を預かったの」

 コーデリア様は、肖像画を見上げて言った。

「大変だったのよ。あの家は、昔から借財ばかりで」

 少年の目は、今のヒューと同じ灰色だった。

 帰りの馬車の中で、わたしはずっと窓の外を見ていた。

 叔母君の言葉のうち、最後の一つだけが、いつまでも残った。


    *


 二度目の日曜日は、晴れていた。

「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」

 今度は、ためらいの間もなかった。

「異議がございます」

 コーデリア様が、ヒューの後ろの席から立った。黒い手袋の手を、胸の前で重ねている。

「甥の同意は、自由ではありません」

 教会が凍った。

「甥の家には、亡き兄の代からの借財がございます。この縁組は、その借財が言わせているのです。身内として、黙っていることはできません」

 前の週よりも大きなざわめきが、波のように広がった。父が、隣で低くうなった。

 ヒューは、振り返らなかった。


 審べは、その日の午後に開かれた。今度は短かった。

「子爵様。この結婚に、自由に同意していますか」

「同意しています」

 ヒューは、牧師の目を見て答えた。それで終わればよかった。

「借財があるのは、事実です」

 ヒューは、そう付け加えた。

 牧師はしばらくヒューを見て、ペンを置いた。

「借財があることと、同意がないことは、別の話です。ご本人が同意すると言う以上、私にはそれを疑う理由がありません。異議は退けます」

 コーデリア様は、黙って会釈をした。退けられたのに、少しも負けた顔ではなかった。

 その理由は、火曜に分かった。

 王都の週刊紙に、短い記事が載った。

『聖ヌメリア教会にて二週続けて異議。子爵自ら借財を認める。やはり金の結婚か』

 水曜の夜の、セント・オールバンの集会室の舞踏会。毎週届いていた招待券が、その週、ブライアリー家には届かなかった。

「券など、こっちから願い下げだ」

 父は朝食の席で新聞を丸めて笑った。けれど、目は笑っていなかった。


 金曜、ヒューはいつもどおり試飲室に来た。

 今週は、水曜に来られなかったから、と。どこか遠くへ出かけていたのか、外套の裾が乾いた泥で白くなっていた。

 湯を沸かし、葉を量り、蒸らす。ヒューは茶碗を両手で包むように持って、香りを見た。いつもと同じ。

 わたしは、茶碗を置いた。

「ヒュー」

 名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。

「一つ、訊いてもいいですか」

「どうぞ」

「わたしに持参金がなかったら、求婚しましたか」

 ずっと、茶葉の色や湯気の立ち方で、この人の答えを読もうとしてきた。読めば、訊かずに済むと思っていた。

 初めて、まっすぐ訊いた。

 ヒューは、茶碗を受け皿に戻した。

「持参金がなければ、求婚できませんでした」

 それだけだった。

 何か続けようとして、口を開きかけ、やめた。視線がカップの中に落ちる。

 わたしはやかんを取って、二杯目の湯を注いだ。

 手元を見ていなかった。湯が多すぎて、葉が浸かりすぎた。注いだ茶は、濃い琥珀(こはく)を越えて、黒に近い色になった。

 口に含むと、舌の根まで渋かった。

 目利きになってから、茶を渋くしたのは、初めてだった。


    *


 土曜の昼、店先の鈴が鳴った。

 顔を上げると、淡い藤色の帽子が立っていた。

「……アボット様」

「ミランダでいいわ」

 ミランダ様は、手提げから錫の缶を出して、帳場の台に置いた。『ミランダの朝』。祭具室で、わたしが差し出した缶だった。わたしが机に置いて帰ったのを、あのあと一人で戻って、黙ってもらっていったのだという。

「お返しに来たの。わたくしが持っていても、仕方がないから」

「わざわざ」

「それと、謝りに」

 ミランダ様は、手袋を外した。指先が、少し荒れていた。

「あの方……重役の息子にはね、去年の冬、捨てられたの。もっと持参金の多い家の娘が見つかったのですって。わたくし、三年前に同じことをしたのよ。笑えるでしょう」

 わたしは笑わなかった。

「先月、コーデリア様が家にいらしたの。甥はまだあなたを想っている、あなたが一言言えば目を覚ます、って。求婚の日付まで教えてくださったわ。わたくし、それにすがったの」

 コーデリア様が、日付まで。

「あの方、お屋敷のお話ばかりしていたわ。甥御さんの後見をしていた頃に、すっかり飾り直したのよ、って。敷島の壁紙が、一巻きで馬が一頭買えるお値段なんですって」

 ミランダ様は、少しだけ皮肉に唇を曲げた。

「わたくし、あの方の求婚がうれしくなかったの。三年前。子爵様はね、わたくしの家にいらして、最初に持参金の額をお訊きになったわ。それから、お借りしている額を全部お話しになった。正直な方。でも、話しているあいだ、一度もわたくしの顔をごらんにならなかった」

 ミランダ様は手袋をはめ直し、帽子のつばを指でなぞった。

「教会では、あなたの横顔ばかり見ていたのに」

 鈴が鳴って、藤色の帽子は通りの人波に紛れていった。

 わたしは缶を棚の一番上に戻した。三年前の札を、紐ごと外した。

 横顔ばかり。

 少しだけ、明日を待てる気がした。


    *


 月曜は、月の締めの日だった。

 商会の帳場で、わたしは帳簿係のシモンズさんの手伝いをしていた。目利きの仕事が暇な日は、帳簿を見る。母が生きていた頃から、そう仕込まれてきた。

 二月の頁をめくって、手が止まった。

『ペンローズ子爵 証文(しょうもん) 二千ソヴリン 買取 二月二十日』

 見慣れない記載だった。うちの商会は茶を買い、茶を売る。人の借財の証文を買ったことなど、一度もない。

「シモンズさん。これは」

「ああ、旦那様のご指図で。あちこちの金貸しから、子爵様の証文を残らず買い集めたんですよ。額面どおりでね。子爵様は六年、一度も払いを遅らせたことがないそうで、どこも値引きしなかった」

 帳場の机の端に、真鍮(しんちゅう)の印が置いてあった。『支払済』。証文や手形を払い終えたときに、うちの帳場が押す朱(しゅ)の印だ。

 わたしはそれを手に取って、重さを確かめるように握った。


 父は、奥の部屋で葉巻を吸っていた。

「子爵様の証文を、買ったのですね」

 父は葉巻を灰皿に置いた。驚いた顔は、しなかった。

「帳簿を見たか。目ざといのは母さん譲りだな」

「どうして」

「逃げ道をふさいでからが商いだ」

 いつもの口癖だった。でも、今日は笑っていなかった。

「昔な、ある伯爵に、三年分の茶代を踏み倒された。お前が生まれる前だ。わしは貴族の口約束は信じない。一万ソヴリンの持参金を出して、婚礼の前に逃げられたらどうする。だから、逃げられんようにした。それだけだ」

「子爵様は、それを」

「知っている。買い取ったその日に、見せに行った。これで、うちの娘を袖(そで)にはできませんな、とな」

 頭のどこかで、何かが、静かに外れる音がした。

 冬の水曜を思い出していた。ヒューが帰り際に、小銭入れから一枚ずつ数えて置いていったシリング銀貨。借りは作らないことにしています、と言った声。

 あのとき、あの人はもう、わたしの父に証文を握られていたのだ。握られていると知りながら、授業料の一ペニーまで、きっちり数えて置いていった。

 二月の終わり。父が「縁組をまとめた」と言った、あの日。

「返してください」

「何を」

「証文を。子爵様に、返してください」

「馬鹿を言うな。お前のためだ」

 父は、葉巻を取り直した。それきり、何も言わなかった。わたしがどれだけ待っても、それ以上のことは、何も。


 火曜の朝、週刊紙の社交欄の隅に、小さな記事があった。

『ペンローズ子爵、母君の温室の丘をハースウッド侯爵に譲渡か。丘には敷島の茶の木三十株』

 わたしは新聞を持ったまま、しばらく動けなかった。

 筋が見えた。

 ヒューは、父に証文を握られている。逃げれば、二千ソヴリンを取り立てられる。払えなければ、債務者の牢だ。だから、結婚に「はい」と言うしかない。そして、その縄から少しでも身を軽くするために、母君の温室を売ろうとしている。

 持参金がなければ、求婚できませんでした。

 あの言葉は、そういう意味だったのだ。

 甥の同意は、自由ではありません。

 コーデリア様は、正しかった。

 あの子を、自由にしてあげて。

 別の意味で、その言葉が戻ってきた。叔母君がわたしに言わせたかったことと、たぶん同じ言葉で、たぶん違うことを、わたしは考え始めていた。

 わたしは使いを出して、ヒューの下宿に手紙を届けさせた。夕方、返事が戻ってきた。

『子爵様は、今朝、岬へ発たれました。お戻りは週末とのことです』


    *


 土曜の夜。

 試飲室の長い台の上に、帳簿を写した紙と、新聞の切り抜きと、婚礼の朝に淹れるつもりの茶の缶が並んでいた。

 婚礼の朝、花嫁の家では、花嫁が淹れた茶で家族が一杯ずつ乾杯する。古い茶商の家の習わしだ。わたしは何か月も前から、その一杯のための茶を決めていた。冬の水曜に、ヒューがいちばん気に入った葉。

 湯を沸かした。

 黙っていれば、明日、三度目の予告が済む。六月に、わたしはヒューの妻になる。半年、ずっと欲しかったものが、手に入る。

 その結婚は、父の縄でできている。

 わたしは一生、夫の「はい」を疑うだろう。夫は一生、妻の父に頭を下げるだろう。母君の温室は、もう戻ってこない。

 内々に婚約を解くこともできる。でも、そうすれば、父は腹いせに証文を取り立てる。二千ソヴリン。温室を売っても、足りるかどうか。

 教会で、異議を申し立てればいい。

 父が証文で花婿を縛ったと、牧師の前で、王都じゅうの前で言えばいい。体面を何より重んじるこの国で、そう言われた商人が、その証文を振りかざせるはずがない。ヒューは自由になる。温室も、売らずに済むかもしれない。

 そのかわり、わたしは破談の花嫁になる。父の顔を潰し、この家にもいられなくなる。

 二度と、あの人に選ばれることはない。

 やかんが、鳴った。

 わたしはそれを火から下ろした。すぐには注がなかった。

 茶は急いで淹れない。

 湯気が細くなって、やがて消えるまで待った。冷めた湯をそのままにして、婚礼の朝の分の茶葉だけを天秤(てんびん)で量り、缶に戻した。それを淹れる朝が来るかどうかは、分からないまま。

 明日、わたしは自分の結婚に異議を唱える。


    *


 夜明け前に家を出た。

 婚礼の予告の三度目の朝、花嫁の家の者が教会の花を整える。それもこの教区の古い習わしで、わたしは最後まで、それだけはやりたかった。白い薔薇と、香りのいい菩提樹の若枝。祭壇の前で一人、花瓶の水を替えていると、少しずつ空が明るくなっていった。

 家族が着くころには、会衆席はいっぱいだった。二週続けて異議の出た予告を、三度目はどうなるかと見に来た人たちだ。

 父は、いつもの席に一人で座った。顔色が悪かった。わたしの顔を見て何か言いかけ、そのまま前を向いた。

 ヒューは、来ていた。

 髪が少し乱れている。夜通し馬車に乗ってきたような顔だった。わたしの隣に座ると、膝の上で、左手を右手でゆっくりと押さえた。

 ミランダ様の席は、空いていた。コーデリア様は、ヒューの後ろの席で、静かに祈祷書(きとうしょ)を開いていた。今週は、もう立つつもりはないのだ。噂は十分に広まった。

 フィンチ牧師が説教台に立つ。眼鏡を押し上げる。

「本日、三度目の婚姻の予告をいたします。西の岬、ペンローズ子爵ヒュー・ペンローズ。この教区、ブライアリー準男爵が娘、ヘレナ・ブライアリー」

 自分の名前を、わたしは最後まで聞いた。

「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」

 静けさが落ちた。

 誰も動かない。誰かがほっと息を吐く音さえ聞こえた。

 わたしは、立ち上がった。

 会衆席が、きしんだ。

 教会じゅうが振り返った。花嫁の席から、手が一本、まっすぐ上がっていた。わたしの手だった。

「異議がございます」

 自分の声が、石の天井に跳ね返って降ってくる。

 手を下ろした。指が冷たくて、自分のものではないようだった。

 隣で、ヒューが息を止めた。

「……ヘレナ・ブライアリー。あなたは花嫁ですよ」

「存じております」

「異議の理由を」

「花婿の同意は、自由ではありません」

 わたしは父のほうを見なかった。見たら、続けられない気がした。

「わたしの父が、子爵様の借財の証文を、すべて買い取っております。二月二十日に。そして子爵様にそれを見せ、娘を袖にはできないと申しました。子爵様は、その縄に縛られて、この結婚に同意なさっているのです」

 教会が、割れるようにざわめいた。

「茶箱の準男爵が」「自分の娘が」「証文で子爵を」

 父の顔から、すっと血の気が引いていくのが、見なくても分かった。

 ヒューの後ろで、コーデリア様が祈祷書を閉じる音がした。勝った人の、静かな音だった。

 牧師は眼鏡を外し、長いあいだ、わたしを見ていた。

「花嫁自らの異議は、この教会では初めてです。ペンローズ子爵。異議に答えますか」

 ヒューが立ち上がった。

 わたしの横をすり抜けて、通路を前へ歩いていく。説教台の下の、牧師の机の前で止まった。上着の内側から、紐でくくった紙の束と、折りたたんだ一枚の書類を出して、机の上に置いた。

「答えます」

 牧師が紐をほどいた。

 束の一枚目に、朱の印が押してあった。

『支払済』

 うちの帳場の印だった。わたしが月曜に、手に取って重さを確かめた、あの真鍮の印。

「ブライアリー商会の帳場の印ですね。日付は……今朝」

 牧師が顔を上げた。

「証文は今朝、ブライアリー商会の帳場で、すべてお返ししました」

 ヒューの声は、いつもどおり低かった。

「もう一枚は、西の岬の丘の売買証書です。昨日の夕方、ハースウッド侯爵に、母の温室ごとお譲りしました。代金で、残りの二千ソヴリンを払いました」

 わたしは立ったまま、動けなかった。

 今朝。

 わたしが一人で、祭壇の花の水を替えていたころ。

「私に『はい』と言わせるものは、もう何もありません」

 牧師は、証文を一枚ずつめくった。それから、会衆席の父のほうを向いた。

「ブライアリー殿。今の話に、間違いはありませんか」

 父は、ゆっくりと立ち上がった。

 五十六歳の、大きな体が、いつもより小さく見えた。

「……間違いありません」

 声が、かすれていた。

「今朝、子爵が帳場へ来て、金を置いていきました。わしが自分で印を押しました。娘はもう教会へ出ていて……言おうとした。言えなかった」

 父は、帽子を両手で握りしめていた。

「それに、一つ、申し上げておかなければならんことがあります。子爵が、娘を嫁にほしいと言いに来たのは、一月です。わしが証文を買ったのは、二月です」

 わたしは、父を見た。

「わしは、あの方の口を信じなかった。貴族の口約束は信じないと、四十年そう決めて商いをしてきた。だから、縄をかけた。娘には、わしが縁組をまとめたと言いました。商人の、悪い癖です」

 教会が、今度は別のざわめき方をした。

 牧師はうなずき、証文の束をそろえた。

「異議の理由が証文である以上、記録のために、証文の中身を読み上げます」

 一枚目を取る。

「借り手、ペンローズ子爵家。署名、後見人モーティマー・ペンローズ。一一三二年」

 二枚目も、三枚目も、同じ名前だった。

 ヒューが、ほんのわずかに目を伏せた。

 父が、帽子を握ったまま、一言だけ付け加えた。

「買い取るとき、借りた金の行き先も調べました。帳簿屋の性分でしてね。王都の、ある屋敷の改装に使われております」

 コーデリア様の、敷島の壁紙。

 金の雲と、白い鶴。一巻きで馬が一頭。

 ゆっくりと、会衆席の目が、ヒューの後ろの席へ集まっていった。コーデリア様は、閉じた祈祷書を膝の上で握りしめ、まっすぐ前を見ていた。顔は、壁紙の鶴のように白かった。

「母上」

 隣で、ジャイルズ様が小さく言った。その声は、ひどく幼く聞こえた。

「訴えますか、子爵」

 牧師が訊いた。

「いいえ」

 ヒューは首を振った。

「家のことです。六年かけて返しました。もう、済んだことです」

 コーデリア様は、何も言わなかった。誰も、何も言わなかった。それで十分だった。

 ヒューが、わたしのほうへ向き直った。

 教会の真ん中で。会衆席のすべての目の前で。

「ヘレナ」

 一週目に、何か言いかけて閉じた唇が、今度は閉じなかった。

「証文がお父上の手にあるうちに、あなたに何かを言えば、借り手のお世辞に聞こえると思いました。だから、払い終えるまで言わないと決めていました。証文のことを話さなかったのは、あなたに、お父上を嫌ってほしくなかったからです」

 灰色の目が、まっすぐこちらを見ていた。

「持参金がなければ、求婚できなかった、と言いました。本当です。借財を抱えて、屋根の傷んだ家に、誰かを迎えることはできなかった。でも、あなたを選んだのは、持参金のためではありません。十一月の競りで、あなたが、私の母の茶に『あと五年』と言ったからです」

 会衆席の誰かが、息をのんだ。

「値がつかないと言われたのに、うれしかった。五年先まで、この人の舌で確かめてほしいと思った。それからずっと、水曜が来るのを待っていました」

 ヒューは、一度だけ息を吸った。

「愛しています」

 その一言は、思っていたよりずっと静かだった。ささやき声にも負けそうな声だった。

 それなのに、聖ヌメリア教会の石の天井の、いちばん高いところまで届いた気がした。

「……花嫁」

 牧師が、咳払いをした。

「異議を、取り下げますか」

 わたしは、まだ立ったままだった。膝が、少し震えていた。

 座らなかった。

「取り下げます。そのかわり、一つだけ、訊かせてください」

「どうぞ」

 わたしはヒューを見た。

 読もうとするのを、やめた。茶葉の色も、湯気の立ち方も、もう見なかった。

「あなたは、自由に、わたしと結婚したいのですか」

「はい」

 ヒューは、少しも迷わなかった。


    *


 六月の最初の土曜日、わたしたちは聖ヌメリア教会で結婚した。

 婚礼の朝、わたしは家族のために茶を淹れた。冬の水曜に、ヒューがいちばん気に入った葉で。父は一口飲んで、黙って二杯目を頼んだ。

「この結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」

 祭壇の前で、フィンチ牧師がもう一度だけ問うた。

 わたしは、思わず振り返った。

 会衆席の父は、腕を組んだまま動かなかった。その数列うしろで、ジャイルズ様が、背筋を伸ばして座っていた。前の週、ジャイルズ様は一人でヒューを訪ね、母の分まで頭を下げたという。コーデリア様の姿は、なかった。

 誰も、立たなかった。

 ヒューが、隣で小さく笑った。


 父の持参金は、一万ソヴリンではなかった。

 婚礼の夜、父がわたしに渡したのは、一通の証書だった。西の岬の丘と、硝子の温室と、敷島の茶の木三十株。

「ハースウッド侯に、売り戻してもらった。侯爵は、挿し木を取れればそれでいいそうだ。亡くなった奥方の国の茶を、自分の温室でも育ててみたかったんだと」

 父は、照れくさそうに鼻をこすった。

「持参金は、これで払う。……逃げ道は、わしがふさいだ分、わしが開ける」

 アボット家の古い修道院の跡地からは、短い手紙が届いた。『ミランダの朝』を、もう一度だけ注文したい、と。今度は自分のために。


 七月、わたしは初めて、西の岬の丘に立った。

 海から霧が上がってくる丘のてっぺんに、古い硝子の温室があった。割れた窓は、ヒューがこの春のうちに、一枚ずつ自分で入れ替えていた。中に入ると、湿った土の匂いがした。三十株の茶の木が、腰の高さで、濃い緑の葉を揃えていた。

 若い芽を摘んで、温室の隅の小さな炉(ろ)で湯を沸かした。

 湯の温度を少し下げる。葉を蒸らす。急がない。

 色は、薄い金だった。香りは青くて、奥に花がある。舌の脇に、細い渋みが走って、すぐに消えた。

 渋すぎない。ちょうどいい。

「どうですか」

 ヒューが、去年の十一月と同じ顔で訊いた。

「飲めます」

 わたしは茶碗を両手で包んで、笑った。

「でも、まだ売れません。若い茶です。あと五年」

「五年なら、待てます」

 ヒューは、あの日と同じことを言った。

 あの日は、値のつかない茶の話だった。

 今日は違う。

 あと五年。わたしはその五年を、もう誰にも売らない。

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浪費叔母は甥を自由にさせて何をしたかったのか。横領の罪悪感か。
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