結婚予告で三週続けて「異議あり」の声が上がりました。三人目は花嫁のわたしです
一週目に手を挙げたのは、婚約者の昔の恋人だった。
二週目は、婚約者の叔母だった。
三週目に手を挙げたのが誰か、教会じゅうが振り返った。
わたしだった。
*
五月の二度目の日曜日、聖ヌメリア教会の窓は、朝から雨に濡れていた。
「本日、婚姻の予告をいたします」
フィンチ牧師は、説教台の上で一枚の紙を広げた。白い髪をきちんと撫でつけ、読み上げる前に一度だけ眼鏡を押し上げる。この教区で三十年、同じ手つきで誰かの結婚を読み上げてきた人だ。
「西の岬、ペンローズ子爵ヒュー・ペンローズ。この教区、ブライアリー準男爵が娘、ヘレナ・ブライアリー」
自分の名前が、石の天井に跳ね返って降ってくる。
隣に座るヒューは、前を向いたままだった。古びて袖口の光る黒の上着。けれど襟は、今朝ちゃんと糊がきいている。膝の上で組んだ手は、指の節まで動かない。
後ろの席で、扇の開く音がした。
「茶の葉で爵位を買ったのね」
「買われたのは子爵様のほうでしょう」
ささやき声は、ささやくつもりのない大きさだった。
わたしは顎を引き、商会の試飲室で客の前に立つときの顔をつくった。誰が何を言っても、口の中の茶の味だけを見ている顔。十六の年から、六年かけて覚えた顔だ。
わたしの父は、茶の商人から身を起こして準男爵になった。貴族院に席はなく、社交界では「茶箱の準男爵」と呼ばれている。父の向こう側の席で、本人は腕を組み、満足げに天井を見上げていた。
「逃げ道をふさいでからが商いだ」
それが父の口癖だった。婚約証書に署名した日も、そう言って笑った。何から逃げる道を、誰の分ふさいだのか、わたしは訊かなかった。
婚約して三か月、出会ってから半年。
ヒューは、一度もわたしに「愛している」と言ったことがない。
「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」
牧師の声が、少しだけ低くなる。決まり文句だった。三十年、この教会でその問いに答えた者は、たぶん一人もいない。
雨の音。誰かの咳払い。
会衆席のきしむ音がした。
「異議がございます」
通路の向こう、三つ前の列で、淡い藤色の帽子が立ち上がっていた。
ミランダ・アボット。アボット男爵家のご長女。三年前の社交期、誰もが求婚者の数を数えた人だ。
教会じゅうの首が、一斉にそちらへ回った。
「ペンローズ子爵様は、三年前、わたくしに求婚なさいました。わたくしはまだ、お返事をしておりません」
ミランダ様の声は、少しも震えていなかった。
牧師が眼鏡を外し、また掛けた。
「異議を承りました。審べは、今週のうちに祭具室で行います。それまで、この予告は保留とします」
ざわめきが、天井まで上っていった。
ヒューが、初めてわたしのほうを見た。
灰色の目だった。何か言おうとして唇が動き、そのまま閉じた。
言わないのだ、と思った。
この人は、いつも、肝心なことを言わない。
礼拝が終わると、人々はわたしたちを遠巻きにして出ていった。教会の前の石段で、父がヒューの肩を叩いた。
「なに、一週遅れるだけだ。商いでは、よくあることですよ」
ヒューは「はい」と答えた。父には、いつも「はい」と答える人だった。
馬車に乗りこむとき、ヒューはわたしの手を取って、段を上がるのを支えた。手袋越しの指は、雨のせいか、ひどく冷たかった。
「水曜に、伺います」
それだけ言って、彼は手を離した。
*
その晩、わたしは商会の二階にある試飲室で、一人で湯を沸かした。
白い磁器の茶碗が二十ほど並ぶ長い台。壁一面の棚に、東から届いた茶の見本の缶。湯の沸く音を聞いていると、少しだけ息ができる。
あの人と初めて会ったのは、去年の十一月だった。
東方交易会社の茶の競りは、季節に一度、港の大倉庫で開かれる。台の上に東の茶の見本が百も並び、各商会の目利きが一つずつ淹れては値を書きつけていく。わたしは父の名代として、その台に立っていた。女の目利きは、わたしだけだった。
「失礼。少し、よろしいですか」
声をかけてきたのは、見慣れない若い紳士だった。仕立ては古いが、手入れのゆき届いた外套。手に、小さな錫の缶を一つ持っていた。
「母の温室で育った茶です。値がつきますか」
商人でも仲買人でもない人が、競りの台に茶を持ってくるのは珍しい。周りの目利きたちが、面白がって手を止めた。
缶を開けると、細く撚れた濃い緑の葉が入っていた。東の、それも敷島の茶の木の葉だった。
「どちらの温室ですか」
「西の岬です。母が二十年前、明星町の商人から苗を三十株買って、硝子の温室で育てました。母が亡くなってから、誰も手を入れていません」
わたしは湯の温度を少し下げて、葉を蒸らした。
母の言葉を思い出す。茶は急いで淹れない。
色は薄い金。香りは青く、若い草のようで、奥にかすかに花がある。口に含むと、舌の脇に細い渋みが走って、すぐに消えた。
「飲めます」
紳士の顔が、少し明るくなった。
「でも、まだ売れません。若い茶です。木が、まだ自分の味を決めていない。あと五年」
周りの目利きが、くすりと笑った。値がつかないと言われた客は、たいてい不機嫌になる。
ところが、その人は笑った。声を立てて、楽しそうに。
「五年なら、待てます」
ちょうどそこへ、東方交易会社の総裁、ハースウッド侯爵が通りかかった。侯爵は台の茶碗を一つ取り、香りを見て、珍しく自分の指で缶の葉をつまんだ。何も言わずに、また歩いていった。
「ペンローズです。ヒュー・ペンローズ」
それが、子爵様だった。
翌週から、ヒューは毎週水曜に商会の試飲室へ来るようになった。茶の見分け方を教えてほしい、と。温室の茶を、五年後に自分で淹れられるように。
授業料は、帰りに机に置いていった。上着の内側から革の小銭入れを出し、シリング銀貨とペニー銅貨を一枚ずつ数えて、きっちり同じ額を。断っても、首を振った。
「借りは、作らないことにしています」
普段は無口な人なのに、茶の話になると、急に言葉が増えた。湯の温度のこと、葉の撚り方のこと、母君が温室の窓を冬じゅう布で覆っていたこと。わたしの舌が言い当てた産地を書きとめては、「あなたの舌を信じます」と言った。
棚の一番上には、三年前にわたしが配合した茶の見本缶が並んでいる。注文を受けて作った記念の茶だ。ヒューはその札を一つずつ読んで、どれがいちばん難しかったかと訊いた。そんなことを訊かれたのは、初めてだった。
冬のあいだ、水曜が来るのが待ち遠しかった。
二月の終わり、父が外から帰ってきて、外套も脱がずに言った。
「ペンローズ子爵家との縁組をまとめた。持参金は一万ソヴリンだ」
子爵家には、先代の頃からの借財が残っている。岬の領地は痩せていて、屋敷の屋根は傷んでいるという。持参金があれば、借財も屋根も片づく。
「あちらは家が立ち直る。うちは爵位の縁ができる。いい商いだ」
冬の水曜の時間が、帳簿の一行に変わる音がした。
ヒューは、その週の水曜も来た。いつものように茶を淹れ、いつものように小銭を数えて帰った。婚約のことは「よろしくお願いします」とだけ言った。
それから三か月。茶の話はする。笑いもする。
けれど、一度も。
気がつくと、茶碗の茶はすっかり冷めていた。
顔を上げると、棚の一番上の缶が目に入った。三年前の夏の札が、細い紐で下がっている。
『ミランダの朝』
*
水曜の午後、祭具室には、古い蝋と羊毛の匂いがこもっていた。
机の向こうにフィンチ牧師。その右手にミランダ様と、付き添いのアボット男爵夫人。左手にヒューとわたし。そして、ヒューの後ろの椅子には、ヒューの叔母のコーデリア様が座っていた。亡くなった叔父君の奥方で、ヒューの後見をしていた家の人だ。身内の付き添いとして、と自分から申し出たらしい。
「手順を申します」
牧師は膝の上で手を組んだ。
「異議が出れば、私は一週間のうちに双方から話を聞きます。根拠があれば主教様に上げ、婚姻は止まります。なければ退け、予告は続きます。それだけです」
それから、ミランダ様のほうを向いた。
「求婚を受けたのは、いつですか」
「三年前の夏です。東方交易会社の夏の茶会の、前の週でした」
「お返事をしていないと」
「はい。考えさせてくださいと申し上げたきりです。お断りしてはおりません。ですから、約束は生きております」
ミランダ様は、まっすぐ牧師を見ていた。きれいな人だった。三年前より少し痩せて、手袋の指先がきつく握られている。
「子爵様。求婚は事実ですか」
「事実です」
ヒューの声は低く、少しの迷いもなかった。
「三年前の夏、アボット男爵家に伺い、ミランダ嬢に結婚を申し込みました。お返事はいただいておりません」
わたしの膝の上で、手袋が汗を吸った。
牧師がペンを取った。
「では、問題は、その求婚がまだ生きているかどうかになります」
わたしは、三年前の夏を思い出していた。
東方交易会社の夏の茶会。わたしは十九で、商会の娘として給仕の側にいた。貴族の茶会では、商人の娘は客ではない。銀の盆を持ち、茶葉の名を訊かれたら答える係だ。
その日、広間の真ん中で、婚約の披露があった。
会社の重役のご子息が、一人の令嬢の手を取った。そして記念に誂えた茶で、乾杯した。
「失礼いたします」
わたしは立ち上がっていた。全員の目がこちらへ向く。
「牧師様。商会から、取り寄せたいものがあります。半時間ほど、いただけませんか」
ミランダ様の顔から、すっと色が引いた。
半時間後、商会の小僧が息を切らせて祭具室の扉を叩いた。わたしは受け取った缶を、牧師の机に置いた。
小ぶりの錫の缶。細い紐で、札が一枚下がっている。
「わたしの家の商会では、注文を受けて記念の茶を配合いたします。三年前の夏、わたしが配合したものです」
牧師が札を読み上げた。
「『ミランダの朝。ミランダ嬢に捧ぐ。婚約を記念して。一一三九年夏』」
祭具室が静かになった。
「ご注文は、東方交易会社の重役のご子息からでした。夏の茶会で、婚約の披露の乾杯にお使いになりました。わたしはその場で給仕をしておりました」
わたしは缶から目を上げなかった。
「目利きは、誰がいつ何を飲んだか、忘れません」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「アボット嬢」
牧師が静かに言った。
「求婚の翌週に、ほかの方との婚約を披露なさった。お返事は、そのときに済んでいたと見るのが道理です」
ミランダ様は唇を噛み、それから、ふっと力を抜いた。
「……あの方はもう、わたくしを要らないと言ったの」
誰のことかは、言わなかった。重役のご子息との婚約が、去年の冬にいつのまにか消えたことは、社交界の誰もが知っていた。
「異議は退けます。予告は続けます」
牧師がペンを走らせた。
コーデリア様は、椅子の上で表情ひとつ変えなかった。
部屋を出るとき、わたしは缶をミランダ様に差し出した。
「まだ少し残っています。お好きだった茶です」
ミランダ様は缶を見て、わたしを見て、首を振った。何も言わずに、母君と出ていった。
わたしは缶を、祭具室の机の端に置いたままにした。
石段を下りたところで、ヒューが追いついてきた。
「ヘレナ」
名前を呼ばれるのは、まだ慣れない。
「三年前、叔母に勧められて、持参金のある方に求婚したのは本当です。翌週、あの方がほかの方と婚約なさったと聞いて、ほっとしました」
風が、教会の前の菩提樹を揺らした。
ほっとした、という最後のところが、どうしても耳に入ってこなかった。
持参金のある方に。
ただその言葉だけが、石段に落ちた雨粒のように、いつまでも跳ねていた。
その日も水曜だった。ヒューはいつものように試飲室へ来て、いつものように茶を淹れた。訊こうと思った。三年前のことではなく、今のことを。わたしのことを。
湯が沸く音がした。
わたしは立ち上がって、やかんを火から下ろした。それで、言葉も一緒に下ろしてしまった。
*
木曜の午後、わたしは茶の缶を一つ包んで、コーデリア様の屋敷を訪ねた。
花嫁から、夫になる人の身内へのご挨拶。そういう体だった。本当は、ただ怖かった。日曜までに、少しでも気に入られておきたかった。そうすれば二週目は、何も起きないかもしれない。
コーデリア様の屋敷は、王都の西の、静かな広場に面していた。
客間に通されて、わたしは思わず足を止めた。壁一面に、敷島の絹の壁紙が貼られている。金の雲と、白い鶴。今の社交界でいちばん高価な明星趣味だ。猫脚の長椅子も、飾り棚も、角がまだ丸くなっていない。
「素敵なお部屋ですね」
「主人の趣味でしたの。亡くなる前に、ひととおり整えてくれて」
コーデリア様は、五十を過ぎても背筋の伸びた人だった。黒い喪の飾りを、胸元にまだ一つだけ留めている。
廊下で足音がして、若い男の人が顔をのぞかせた。
「母上、出かけて……あ、失礼」
「息子のジャイルズよ。ご挨拶なさい」
「初めまして。従兄がお世話になっています」
ジャイルズ様は人のよさそうな顔で頭を下げ、そのまま出ていった。
「いい子でしょう。ヒューに子がなければ、岬の家はいずれ、あの子のものになるの。男の血筋でいちばん近いのは、あの子ですもの」
コーデリア様は、扉が閉まるまで息子の背中を見ていた。
わたしの淹れた茶に、コーデリア様は口をつけなかった。カップを受け皿の上で少し回し、それきり手を離した。
「祭具室では、見事でしたわね」
「恐れ入ります」
「でも、あれで何が分かったのかしら。三年前、あの子がどこの娘に求婚したか、あなたにももうお分かりでしょう」
わたしは膝の上で手を重ねた。
「アボット家は、あの年、いちばん持参金の多い家でした。あの子は、持参金のある娘なら誰でもいいの。責めているのではないのよ。借財のある家の当主は、そうするしかないのですもの」
コーデリア様は、気の毒そうに眉を下げた。
「わたくしはね、あの子の母親代わりだったの。あの子が金のために一生を縛られるのを、見ていられないだけ」
白い鶴が、金の雲の中で、羽を広げていた。
「あなたも、商家の方なら分かるでしょう。お金で買ったものは、お金の分しか、あなたのものにならないのよ」
帰り際、玄関で、コーデリア様はわたしの手を取った。
「あの子を、自由にしてあげて」
玄関の脇に、古い肖像画が一枚だけ掛かっていた。黒い髪の少年が、大きすぎる上着を着て、まっすぐこちらを見ている。
「あの子の、十五の時よ。兄が亡くなった年。主人が後見を引き受けて、六年、あの子の家を預かったの」
コーデリア様は、肖像画を見上げて言った。
「大変だったのよ。あの家は、昔から借財ばかりで」
少年の目は、今のヒューと同じ灰色だった。
帰りの馬車の中で、わたしはずっと窓の外を見ていた。
叔母君の言葉のうち、最後の一つだけが、いつまでも残った。
*
二度目の日曜日は、晴れていた。
「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」
今度は、ためらいの間もなかった。
「異議がございます」
コーデリア様が、ヒューの後ろの席から立った。黒い手袋の手を、胸の前で重ねている。
「甥の同意は、自由ではありません」
教会が凍った。
「甥の家には、亡き兄の代からの借財がございます。この縁組は、その借財が言わせているのです。身内として、黙っていることはできません」
前の週よりも大きなざわめきが、波のように広がった。父が、隣で低くうなった。
ヒューは、振り返らなかった。
審べは、その日の午後に開かれた。今度は短かった。
「子爵様。この結婚に、自由に同意していますか」
「同意しています」
ヒューは、牧師の目を見て答えた。それで終わればよかった。
「借財があるのは、事実です」
ヒューは、そう付け加えた。
牧師はしばらくヒューを見て、ペンを置いた。
「借財があることと、同意がないことは、別の話です。ご本人が同意すると言う以上、私にはそれを疑う理由がありません。異議は退けます」
コーデリア様は、黙って会釈をした。退けられたのに、少しも負けた顔ではなかった。
その理由は、火曜に分かった。
王都の週刊紙に、短い記事が載った。
『聖ヌメリア教会にて二週続けて異議。子爵自ら借財を認める。やはり金の結婚か』
水曜の夜の、セント・オールバンの集会室の舞踏会。毎週届いていた招待券が、その週、ブライアリー家には届かなかった。
「券など、こっちから願い下げだ」
父は朝食の席で新聞を丸めて笑った。けれど、目は笑っていなかった。
金曜、ヒューはいつもどおり試飲室に来た。
今週は、水曜に来られなかったから、と。どこか遠くへ出かけていたのか、外套の裾が乾いた泥で白くなっていた。
湯を沸かし、葉を量り、蒸らす。ヒューは茶碗を両手で包むように持って、香りを見た。いつもと同じ。
わたしは、茶碗を置いた。
「ヒュー」
名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。
「一つ、訊いてもいいですか」
「どうぞ」
「わたしに持参金がなかったら、求婚しましたか」
ずっと、茶葉の色や湯気の立ち方で、この人の答えを読もうとしてきた。読めば、訊かずに済むと思っていた。
初めて、まっすぐ訊いた。
ヒューは、茶碗を受け皿に戻した。
「持参金がなければ、求婚できませんでした」
それだけだった。
何か続けようとして、口を開きかけ、やめた。視線がカップの中に落ちる。
わたしはやかんを取って、二杯目の湯を注いだ。
手元を見ていなかった。湯が多すぎて、葉が浸かりすぎた。注いだ茶は、濃い琥珀を越えて、黒に近い色になった。
口に含むと、舌の根まで渋かった。
目利きになってから、茶を渋くしたのは、初めてだった。
*
土曜の昼、店先の鈴が鳴った。
顔を上げると、淡い藤色の帽子が立っていた。
「……アボット様」
「ミランダでいいわ」
ミランダ様は、手提げから錫の缶を出して、帳場の台に置いた。『ミランダの朝』。祭具室で、わたしが差し出した缶だった。わたしが机に置いて帰ったのを、あのあと一人で戻って、黙ってもらっていったのだという。
「お返しに来たの。わたくしが持っていても、仕方がないから」
「わざわざ」
「それと、謝りに」
ミランダ様は、手袋を外した。指先が、少し荒れていた。
「あの方……重役の息子にはね、去年の冬、捨てられたの。もっと持参金の多い家の娘が見つかったのですって。わたくし、三年前に同じことをしたのよ。笑えるでしょう」
わたしは笑わなかった。
「先月、コーデリア様が家にいらしたの。甥はまだあなたを想っている、あなたが一言言えば目を覚ます、って。求婚の日付まで教えてくださったわ。わたくし、それにすがったの」
コーデリア様が、日付まで。
「あの方、お屋敷のお話ばかりしていたわ。甥御さんの後見をしていた頃に、すっかり飾り直したのよ、って。敷島の壁紙が、一巻きで馬が一頭買えるお値段なんですって」
ミランダ様は、少しだけ皮肉に唇を曲げた。
「わたくし、あの方の求婚がうれしくなかったの。三年前。子爵様はね、わたくしの家にいらして、最初に持参金の額をお訊きになったわ。それから、お借りしている額を全部お話しになった。正直な方。でも、話しているあいだ、一度もわたくしの顔をごらんにならなかった」
ミランダ様は手袋をはめ直し、帽子のつばを指でなぞった。
「教会では、あなたの横顔ばかり見ていたのに」
鈴が鳴って、藤色の帽子は通りの人波に紛れていった。
わたしは缶を棚の一番上に戻した。三年前の札を、紐ごと外した。
横顔ばかり。
少しだけ、明日を待てる気がした。
*
月曜は、月の締めの日だった。
商会の帳場で、わたしは帳簿係のシモンズさんの手伝いをしていた。目利きの仕事が暇な日は、帳簿を見る。母が生きていた頃から、そう仕込まれてきた。
二月の頁をめくって、手が止まった。
『ペンローズ子爵 証文 二千ソヴリン 買取 二月二十日』
見慣れない記載だった。うちの商会は茶を買い、茶を売る。人の借財の証文を買ったことなど、一度もない。
「シモンズさん。これは」
「ああ、旦那様のご指図で。あちこちの金貸しから、子爵様の証文を残らず買い集めたんですよ。額面どおりでね。子爵様は六年、一度も払いを遅らせたことがないそうで、どこも値引きしなかった」
帳場の机の端に、真鍮の印が置いてあった。『支払済』。証文や手形を払い終えたときに、うちの帳場が押す朱の印だ。
わたしはそれを手に取って、重さを確かめるように握った。
父は、奥の部屋で葉巻を吸っていた。
「子爵様の証文を、買ったのですね」
父は葉巻を灰皿に置いた。驚いた顔は、しなかった。
「帳簿を見たか。目ざといのは母さん譲りだな」
「どうして」
「逃げ道をふさいでからが商いだ」
いつもの口癖だった。でも、今日は笑っていなかった。
「昔な、ある伯爵に、三年分の茶代を踏み倒された。お前が生まれる前だ。わしは貴族の口約束は信じない。一万ソヴリンの持参金を出して、婚礼の前に逃げられたらどうする。だから、逃げられんようにした。それだけだ」
「子爵様は、それを」
「知っている。買い取ったその日に、見せに行った。これで、うちの娘を袖にはできませんな、とな」
頭のどこかで、何かが、静かに外れる音がした。
冬の水曜を思い出していた。ヒューが帰り際に、小銭入れから一枚ずつ数えて置いていったシリング銀貨。借りは作らないことにしています、と言った声。
あのとき、あの人はもう、わたしの父に証文を握られていたのだ。握られていると知りながら、授業料の一ペニーまで、きっちり数えて置いていった。
二月の終わり。父が「縁組をまとめた」と言った、あの日。
「返してください」
「何を」
「証文を。子爵様に、返してください」
「馬鹿を言うな。お前のためだ」
父は、葉巻を取り直した。それきり、何も言わなかった。わたしがどれだけ待っても、それ以上のことは、何も。
火曜の朝、週刊紙の社交欄の隅に、小さな記事があった。
『ペンローズ子爵、母君の温室の丘をハースウッド侯爵に譲渡か。丘には敷島の茶の木三十株』
わたしは新聞を持ったまま、しばらく動けなかった。
筋が見えた。
ヒューは、父に証文を握られている。逃げれば、二千ソヴリンを取り立てられる。払えなければ、債務者の牢だ。だから、結婚に「はい」と言うしかない。そして、その縄から少しでも身を軽くするために、母君の温室を売ろうとしている。
持参金がなければ、求婚できませんでした。
あの言葉は、そういう意味だったのだ。
甥の同意は、自由ではありません。
コーデリア様は、正しかった。
あの子を、自由にしてあげて。
別の意味で、その言葉が戻ってきた。叔母君がわたしに言わせたかったことと、たぶん同じ言葉で、たぶん違うことを、わたしは考え始めていた。
わたしは使いを出して、ヒューの下宿に手紙を届けさせた。夕方、返事が戻ってきた。
『子爵様は、今朝、岬へ発たれました。お戻りは週末とのことです』
*
土曜の夜。
試飲室の長い台の上に、帳簿を写した紙と、新聞の切り抜きと、婚礼の朝に淹れるつもりの茶の缶が並んでいた。
婚礼の朝、花嫁の家では、花嫁が淹れた茶で家族が一杯ずつ乾杯する。古い茶商の家の習わしだ。わたしは何か月も前から、その一杯のための茶を決めていた。冬の水曜に、ヒューがいちばん気に入った葉。
湯を沸かした。
黙っていれば、明日、三度目の予告が済む。六月に、わたしはヒューの妻になる。半年、ずっと欲しかったものが、手に入る。
その結婚は、父の縄でできている。
わたしは一生、夫の「はい」を疑うだろう。夫は一生、妻の父に頭を下げるだろう。母君の温室は、もう戻ってこない。
内々に婚約を解くこともできる。でも、そうすれば、父は腹いせに証文を取り立てる。二千ソヴリン。温室を売っても、足りるかどうか。
教会で、異議を申し立てればいい。
父が証文で花婿を縛ったと、牧師の前で、王都じゅうの前で言えばいい。体面を何より重んじるこの国で、そう言われた商人が、その証文を振りかざせるはずがない。ヒューは自由になる。温室も、売らずに済むかもしれない。
そのかわり、わたしは破談の花嫁になる。父の顔を潰し、この家にもいられなくなる。
二度と、あの人に選ばれることはない。
やかんが、鳴った。
わたしはそれを火から下ろした。すぐには注がなかった。
茶は急いで淹れない。
湯気が細くなって、やがて消えるまで待った。冷めた湯をそのままにして、婚礼の朝の分の茶葉だけを天秤で量り、缶に戻した。それを淹れる朝が来るかどうかは、分からないまま。
明日、わたしは自分の結婚に異議を唱える。
*
夜明け前に家を出た。
婚礼の予告の三度目の朝、花嫁の家の者が教会の花を整える。それもこの教区の古い習わしで、わたしは最後まで、それだけはやりたかった。白い薔薇と、香りのいい菩提樹の若枝。祭壇の前で一人、花瓶の水を替えていると、少しずつ空が明るくなっていった。
家族が着くころには、会衆席はいっぱいだった。二週続けて異議の出た予告を、三度目はどうなるかと見に来た人たちだ。
父は、いつもの席に一人で座った。顔色が悪かった。わたしの顔を見て何か言いかけ、そのまま前を向いた。
ヒューは、来ていた。
髪が少し乱れている。夜通し馬車に乗ってきたような顔だった。わたしの隣に座ると、膝の上で、左手を右手でゆっくりと押さえた。
ミランダ様の席は、空いていた。コーデリア様は、ヒューの後ろの席で、静かに祈祷書を開いていた。今週は、もう立つつもりはないのだ。噂は十分に広まった。
フィンチ牧師が説教台に立つ。眼鏡を押し上げる。
「本日、三度目の婚姻の予告をいたします。西の岬、ペンローズ子爵ヒュー・ペンローズ。この教区、ブライアリー準男爵が娘、ヘレナ・ブライアリー」
自分の名前を、わたしは最後まで聞いた。
「この二人の結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」
静けさが落ちた。
誰も動かない。誰かがほっと息を吐く音さえ聞こえた。
わたしは、立ち上がった。
会衆席が、きしんだ。
教会じゅうが振り返った。花嫁の席から、手が一本、まっすぐ上がっていた。わたしの手だった。
「異議がございます」
自分の声が、石の天井に跳ね返って降ってくる。
手を下ろした。指が冷たくて、自分のものではないようだった。
隣で、ヒューが息を止めた。
「……ヘレナ・ブライアリー。あなたは花嫁ですよ」
「存じております」
「異議の理由を」
「花婿の同意は、自由ではありません」
わたしは父のほうを見なかった。見たら、続けられない気がした。
「わたしの父が、子爵様の借財の証文を、すべて買い取っております。二月二十日に。そして子爵様にそれを見せ、娘を袖にはできないと申しました。子爵様は、その縄に縛られて、この結婚に同意なさっているのです」
教会が、割れるようにざわめいた。
「茶箱の準男爵が」「自分の娘が」「証文で子爵を」
父の顔から、すっと血の気が引いていくのが、見なくても分かった。
ヒューの後ろで、コーデリア様が祈祷書を閉じる音がした。勝った人の、静かな音だった。
牧師は眼鏡を外し、長いあいだ、わたしを見ていた。
「花嫁自らの異議は、この教会では初めてです。ペンローズ子爵。異議に答えますか」
ヒューが立ち上がった。
わたしの横をすり抜けて、通路を前へ歩いていく。説教台の下の、牧師の机の前で止まった。上着の内側から、紐でくくった紙の束と、折りたたんだ一枚の書類を出して、机の上に置いた。
「答えます」
牧師が紐をほどいた。
束の一枚目に、朱の印が押してあった。
『支払済』
うちの帳場の印だった。わたしが月曜に、手に取って重さを確かめた、あの真鍮の印。
「ブライアリー商会の帳場の印ですね。日付は……今朝」
牧師が顔を上げた。
「証文は今朝、ブライアリー商会の帳場で、すべてお返ししました」
ヒューの声は、いつもどおり低かった。
「もう一枚は、西の岬の丘の売買証書です。昨日の夕方、ハースウッド侯爵に、母の温室ごとお譲りしました。代金で、残りの二千ソヴリンを払いました」
わたしは立ったまま、動けなかった。
今朝。
わたしが一人で、祭壇の花の水を替えていたころ。
「私に『はい』と言わせるものは、もう何もありません」
牧師は、証文を一枚ずつめくった。それから、会衆席の父のほうを向いた。
「ブライアリー殿。今の話に、間違いはありませんか」
父は、ゆっくりと立ち上がった。
五十六歳の、大きな体が、いつもより小さく見えた。
「……間違いありません」
声が、かすれていた。
「今朝、子爵が帳場へ来て、金を置いていきました。わしが自分で印を押しました。娘はもう教会へ出ていて……言おうとした。言えなかった」
父は、帽子を両手で握りしめていた。
「それに、一つ、申し上げておかなければならんことがあります。子爵が、娘を嫁にほしいと言いに来たのは、一月です。わしが証文を買ったのは、二月です」
わたしは、父を見た。
「わしは、あの方の口を信じなかった。貴族の口約束は信じないと、四十年そう決めて商いをしてきた。だから、縄をかけた。娘には、わしが縁組をまとめたと言いました。商人の、悪い癖です」
教会が、今度は別のざわめき方をした。
牧師はうなずき、証文の束をそろえた。
「異議の理由が証文である以上、記録のために、証文の中身を読み上げます」
一枚目を取る。
「借り手、ペンローズ子爵家。署名、後見人モーティマー・ペンローズ。一一三二年」
二枚目も、三枚目も、同じ名前だった。
ヒューが、ほんのわずかに目を伏せた。
父が、帽子を握ったまま、一言だけ付け加えた。
「買い取るとき、借りた金の行き先も調べました。帳簿屋の性分でしてね。王都の、ある屋敷の改装に使われております」
コーデリア様の、敷島の壁紙。
金の雲と、白い鶴。一巻きで馬が一頭。
ゆっくりと、会衆席の目が、ヒューの後ろの席へ集まっていった。コーデリア様は、閉じた祈祷書を膝の上で握りしめ、まっすぐ前を見ていた。顔は、壁紙の鶴のように白かった。
「母上」
隣で、ジャイルズ様が小さく言った。その声は、ひどく幼く聞こえた。
「訴えますか、子爵」
牧師が訊いた。
「いいえ」
ヒューは首を振った。
「家のことです。六年かけて返しました。もう、済んだことです」
コーデリア様は、何も言わなかった。誰も、何も言わなかった。それで十分だった。
ヒューが、わたしのほうへ向き直った。
教会の真ん中で。会衆席のすべての目の前で。
「ヘレナ」
一週目に、何か言いかけて閉じた唇が、今度は閉じなかった。
「証文がお父上の手にあるうちに、あなたに何かを言えば、借り手のお世辞に聞こえると思いました。だから、払い終えるまで言わないと決めていました。証文のことを話さなかったのは、あなたに、お父上を嫌ってほしくなかったからです」
灰色の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「持参金がなければ、求婚できなかった、と言いました。本当です。借財を抱えて、屋根の傷んだ家に、誰かを迎えることはできなかった。でも、あなたを選んだのは、持参金のためではありません。十一月の競りで、あなたが、私の母の茶に『あと五年』と言ったからです」
会衆席の誰かが、息をのんだ。
「値がつかないと言われたのに、うれしかった。五年先まで、この人の舌で確かめてほしいと思った。それからずっと、水曜が来るのを待っていました」
ヒューは、一度だけ息を吸った。
「愛しています」
その一言は、思っていたよりずっと静かだった。ささやき声にも負けそうな声だった。
それなのに、聖ヌメリア教会の石の天井の、いちばん高いところまで届いた気がした。
「……花嫁」
牧師が、咳払いをした。
「異議を、取り下げますか」
わたしは、まだ立ったままだった。膝が、少し震えていた。
座らなかった。
「取り下げます。そのかわり、一つだけ、訊かせてください」
「どうぞ」
わたしはヒューを見た。
読もうとするのを、やめた。茶葉の色も、湯気の立ち方も、もう見なかった。
「あなたは、自由に、わたしと結婚したいのですか」
「はい」
ヒューは、少しも迷わなかった。
*
六月の最初の土曜日、わたしたちは聖ヌメリア教会で結婚した。
婚礼の朝、わたしは家族のために茶を淹れた。冬の水曜に、ヒューがいちばん気に入った葉で。父は一口飲んで、黙って二杯目を頼んだ。
「この結婚に、異議のある者は、今、申し出よ」
祭壇の前で、フィンチ牧師がもう一度だけ問うた。
わたしは、思わず振り返った。
会衆席の父は、腕を組んだまま動かなかった。その数列うしろで、ジャイルズ様が、背筋を伸ばして座っていた。前の週、ジャイルズ様は一人でヒューを訪ね、母の分まで頭を下げたという。コーデリア様の姿は、なかった。
誰も、立たなかった。
ヒューが、隣で小さく笑った。
父の持参金は、一万ソヴリンではなかった。
婚礼の夜、父がわたしに渡したのは、一通の証書だった。西の岬の丘と、硝子の温室と、敷島の茶の木三十株。
「ハースウッド侯に、売り戻してもらった。侯爵は、挿し木を取れればそれでいいそうだ。亡くなった奥方の国の茶を、自分の温室でも育ててみたかったんだと」
父は、照れくさそうに鼻をこすった。
「持参金は、これで払う。……逃げ道は、わしがふさいだ分、わしが開ける」
アボット家の古い修道院の跡地からは、短い手紙が届いた。『ミランダの朝』を、もう一度だけ注文したい、と。今度は自分のために。
七月、わたしは初めて、西の岬の丘に立った。
海から霧が上がってくる丘のてっぺんに、古い硝子の温室があった。割れた窓は、ヒューがこの春のうちに、一枚ずつ自分で入れ替えていた。中に入ると、湿った土の匂いがした。三十株の茶の木が、腰の高さで、濃い緑の葉を揃えていた。
若い芽を摘んで、温室の隅の小さな炉で湯を沸かした。
湯の温度を少し下げる。葉を蒸らす。急がない。
色は、薄い金だった。香りは青くて、奥に花がある。舌の脇に、細い渋みが走って、すぐに消えた。
渋すぎない。ちょうどいい。
「どうですか」
ヒューが、去年の十一月と同じ顔で訊いた。
「飲めます」
わたしは茶碗を両手で包んで、笑った。
「でも、まだ売れません。若い茶です。あと五年」
「五年なら、待てます」
ヒューは、あの日と同じことを言った。
あの日は、値のつかない茶の話だった。
今日は違う。
あと五年。わたしはその五年を、もう誰にも売らない。




