夫が未亡人を「我が家で保護する」と言ってきました【愛人と同居版】
玄関の扉が開いた瞬間、外の冷たい空気が屋敷に流れ込んだ。
磨き上げた床に夕陽が差し込み、長い影が伸びる。
黒髪に灰色の目をしたクロードが、外套を脱ぎながら入ってきた。
「カタリナ、ただいま」
「おかえりなさい、そちらは?」
出迎えると夫の背後には、見知らぬ金髪の女が立っていた。
「彼女はフローレ・ミルサンジュ前侯爵夫人」
見たこともない女。
しかも侯爵家の未亡人が、なぜ伯爵家の玄関に立っているのか。
「今日から、ここで一緒に住むから」
「え? 何で?」
ビックリして素で返した。
「前侯爵が亡くなって、家を追い出されて行くとこないんだ」
「修道院に行くか、実家に帰ってください」
私が静かに告げると、フローレは怯えたようにクロードの背後へ隠れた。
イラッとする。
「やめろ、怖がってるだろう」
「は? 先触れもなく突然、来て意味の分からないこと言っておいて『怖い』って何?
私は常識的なことしか言ってないでしょ」
「とにかく! 住むと言ったら住むんだよ」
「だったら離婚するから、慰謝料と財産分与、家を建てる時に父が払った建設費と持参金を一括で払って。
子供は、こっちで引き取る」
「っ、なんでっ、そこまで話が飛躍するんだよ!
離婚なんか認めない」
「いや、あなたは裁判官じゃないんだから、あなたが認めようが認めまいが離婚はできるのよ。
それだけ非常識なこと言ってるんだって」
2人は顔を見合わせた。
その“通じ合っているような目”が、私の神経を逆撫でした。
イライラする。
「私、やっぱり外で住みたいわ。
歓迎されてないみたい」
女が俯きながら喋った。
何で"歓迎される"と思ったのか、わからない。
病気なのかな?
「そうしてあげたいのは山々なんだが、妻に金の使い道を全て管理されていて、君を外で住まわせてあげるだけの費用を捻出できないんだ」
なるほどね。
私は薄く笑って言った。
「いいわ。ここに住むこと許してあげる」
条件付きでね。
「本当か? 良かった」
2人は手を取り合って喜んでいる。
──バカね。
いいこと思い付いただけなのに。
私は内心、ほくそ笑んだ。
夫の部屋に入ると同時に、私は使用人に命じてクロードの足を椅子に縛り付けさせた。
「それで? いつから不倫してたの?」
「不倫ではない。
彼女が本命、君は政略だ──ぎゃああっ!」
私は無言でクロードの股間を踏みつけた。
夫が椅子ごと震える。
「質問に答えないなら、エスカレートしていくと思って貰っていいわ」
私は辺境伯の娘なので、拷問の仕方を知ってる。
「っ、が、学生時代に交際していたが、不純なことはしていない。
互いに政略結婚をするため別れた」
「昨日今日、別れたように見えないんだけど」
「結婚した後に『婚家から冷遇されてて辛い』と手紙が来たから会った」
「それで?」
「最初は相談に乗ってた」
「それで?」
「本当は俺に"純潔を捧げたかった"と言って泣かれた」
「それで?」
「うーん、だから……」
「そんな前から不貞してたら、婚前の素行調査に引っ掛かるはずだけど?」
フローレは学園卒業後に結婚しただろうから、2人が男女の仲になったのは恐らく12年くらい前だ。
私とクロード結婚したのは7年前。
政略結婚なので、婚約と入籍の前は調査する。
「だから男女共用の厠でしてた」
「はいぃ?」
「だから男女共用の厠でしてた。
宿に入ったり家に招くとバレるから、公園のトイレだとかに待ち合わせして時間差で入って」
王宮に1つだけある水洗トイレならまだしも、それ以外の厠は匂いが酷い。
「疑問なんだけど……大事な女性をそんなところで抱くって、申し訳ないと思わないの? 相手に。
人間扱いしてないじゃない」
「だから、そこは真実の愛で乗り越えたんだ」
私は腹を抱えて爆笑した。
「臭そう! ええ、臭い真実の愛ね!」
使用人達も堪えきれず吹き出す。
夫は沈黙して喋らない。
「ところで手紙は、どこにあるの?
2人でやり取りしたんでしょ?」
「燃やす気か?!」
「何で? 離婚の材料にするのよ」
「離婚しない、と言ってるだろ」
「まあ、いいや。家宅捜索して。
その間に書類を作りましょう」
私は踵を返し、部屋を出た。
「おい、待て! くそっ」
縛られたままのクロードの叫びは、暖炉の火に吸い込まれていった。
証拠集めを終えた頃には、外はすっかり夜闇に沈んでいた。
暖炉の火だけが赤く揺れ、石造りの壁に影を落としている。
私は書類の束を抱え、椅子に括り付けられたクロードの前に立った。
灰色の目を逸らしながら、不機嫌そうに息を吐いている。
私は離婚届と関連書類を机に置いた。
「サインして」
クロードは、そっぽを向いた。
まるで子供のような態度だ。
「サインしないなら、事故に見せかけて殺す」
私が淡々と告げると、クロードの肩がびくりと震えた。
「……それは」
私は指先で軽く合図を送った。
扉が開き、使用人が金髪の女──フローレを連れてくる。
紫の目は涙で濡れている。
「ははなっ!」
彼女は、言葉にならない声を上げた。
「えっ、どうした?」
クロードが慌てた声を出した。
私は微笑んだ。
「あの女の歯を全部、抜いたの。
次は、あなたの番よ。
簡単に死なせてもらえると思わないことね」
辺境伯の娘である私は、腕に自信がある。
「っひ、な、嘘だろ?!」
クロードの顔から血の気が引いていく。
フローレは震えながら「はへああ!」と泣き声を漏らした。
私はペンチを手に取り、使用人に指示した。
「夫を風呂場に連れて行って、押さえて」
クロードが青ざめた顔で叫ぶ。
「お、おい! 当主の俺に、こんなことしてタダで済むと思ってるのか?!
俺が雇い主だぞ。俺の言うことを聞け!」
私は肩をすくめた。
「使用人は全員、あなたより私の言うことを聞くと契約を交わしてるから、そんなこと言っても無駄」
「はあ?! いつから?」
「結婚して、すぐ」
「え、7年も前に?」
「だって政略結婚だもん。
自分の安全を最大限に考慮して動くのは、当たり前でしょ」
クロードは言葉を失い、灰色の目を伏せた。
やがて、彼は項垂れたまま震える手で書面にサインし始めた。
ペン先が紙を擦る音だけが、静まり返った部屋に響く。
私は使用人に書類の一部を渡した。
「こっちの書類は、銀行の貸金庫に預けてきて」
使用人が頭を下げ、書類を抱えて部屋を出ていく。
私は手を叩き、明るい声で言った。
「さあ、夕飯にしましょう」
「え?」
「ご飯食べないの?」
「あ、いや、食べるけど……え?」
「そっちのトイレおばさんも一緒に、どうぞ」
おばさんって言っても、5歳上なだけだけどね。
私は何事もなかったかのように部屋を出た。
背後でクロードが混乱した声を上げていたが、もうどうでもよかった。
ダイニングには温かいスープの香りが漂い、銀の燭台に灯された火が揺れていた。
長いテーブルの上には料理が並び、白いクロスが静かに光を返している。
「何で、俺の隣に座らない? 正妻は君だぞ」
クロードが不満げに言う。
「え、あなたの隣は未来永劫、そこのトイレおばさんよ。
私は無理! だって気持ち悪いもん、ペッペ!」
軽く舌を出すように言ってやった。
クロードは言葉を失い、フローレは肩を震わせている。
いちいち震えてるのが、ウザイ。
茶髪に琥珀色の目をしたエミリオが、首をかしげながら私の袖を引いた。
5歳の子供らしい無邪気さが、逆にこの場の空気を鋭く切り裂く。
「母上、どうしたの?
この人、だぁれ? どうして歯がないの?」
私は淡々と答えた。
「クロードが、そこのおばさんと不倫したのよ」
「ふりんって何?」
「放火の次に悪いこと」
「え、じゃあ父上、死刑!」
3歳のエリオも真似して叫ぶ。
「しけい!」
「子供に変なこと教えるな」
クロードが怒る。
「子供に教えて困るようなことするな」
私は強めに返した。
夫は口を閉じるしかない。
その横で、フローレが突然泣き出した。
ウザイ。
「あひゃひおうごんあひゃえはえあい……」
歯がないせいで言葉にならない声が漏れる。
金髪が震え、紫の目から涙がぽろぽろ落ちていた。
「母上、この人なんで泣いてるの?」
エミリオが不思議がる。
「自分が可哀想だからよ」
「放火の次に悪いことしたのに、なんで自分がかわいそうなの?」
「頭がおかしいから」
「死刑!」
「しけい!」
子供達の声が響く。
クロードは顔を覆い、フローレは泣きながら意味不明な声を漏らした。
「あひゃぁ……ひゃえ……」
使用人たちは目を伏せて震えている。
笑いを堪えているのが丸わかりだった。
私は野菜スープを一口飲み、静かに味わった。
地獄の夕食後。
俺はフローレを部屋へ送っていった。
彼女は目を腫らし、震える手で俺の袖を掴んでいた。
廊下の燭台が揺れ、石壁に影が伸びる。
案内された先は──使用人部屋だった。
狭い。窓も小さく、家具は最低限。
客室とは比べ物にならない。
俺は思わず声を荒げた。
「今すぐ彼女の部屋を、客室に変えるんだ」
しかし、使用人は眉ひとつ動かさずに言った。
「奥様が『この部屋が気に入らないなら、馬小屋で寝ろ』と仰せです」
「……」
胸が冷たくなる。
フローレは、泣きそうな顔で俺の袖を掴み直す。
俺は歯を食いしばり、かすれた声で言った。
「……すまない……」
それしか言えなかった。
──その後、俺はカタリナの部屋へ向かった。
扉の前には、見張りが2人立っていた。
鎧の金属が燭光を反射している。
「旦那様が『愛人の部屋を変えろ』と言ってきたら無視するように、仰せつかってます。
それ以外のご用件でしょうか?」
淡々とした声だった。
俺は言葉を失った。
「……いや、いい」
それだけ言って、俺はとぼとぼと自室へ戻った。
──この家で、俺の言葉に従う者はもう誰もいない。
朝の玄関には冷たい空気が満ちていた。
磨かれた大理石の床に朝日が反射し、薄い金色の光が差し込んでいる。
クロードが外套を羽織り、フローレを背後に庇うように立っていた。
女は紫の目を怯えたように揺らしながら、こちらを見ている。
まるで、こっちが悪いみたい。
ヒモの情婦の分際で、どこまでも厚かましい。
「……行ってくる、カタリナ。
頼むから、フローレを殺さないでくれ」
「もしかして出勤しようとしてる?」
「当たり前だろう。仕事なんだから」
私は、笑顔を向けた。
「昨日、あなたの職場に辞表出しといてあげたよ」
「は、な、何で?」
何でって、外に助けを求められたら面倒だからに決まっている。
「まず、昨日あなた方がサインした書類の中に、“私の許可なく屋敷の敷地から出ない”っていう項目があるから」
「えっ?! 見落としてた……」
「んーん。見落としてたんじゃなくて、全然読んでなかったよ」
クロードは口を開けたまま固まっている。
「それと前から思ってたんだけど……普通さ、伯爵で10年以上も勤務してたら、それなりに出世するじゃん。
でも、あなた万年ひらじゃん。
これってさ、王宮側も“リストラしたいけどできない”って思ってるところじゃん」
平民と貴族が同じだけ働いても、貴族の方が早く出世する。
まして伯爵位なら、宰相は無理でも宰相室勤務くらいにはなる。
なのにクロードは、ずっと下っ端の役人。
「だからね、正直に書いたの。
『夫が家を乗っ取る可能性のある得体の知れない人物を、事前許可なく家に住まわせようとしたため、犯罪の可能性がないか調査する運びとなりました。
調査結果が出次第、親族会議を開き当主交代を話し合わなければなりません。
よってそれまでの間、見張りを兼ねて謹慎させます』って。
その手紙と一緒に代筆の辞表を届けたら、受理されたよ」
私は微笑んだ。
クロードは壁に手をつき、かすれた声を漏らした。
灰色の目は、焦点を失っている。
「……俺……そんなに……信用……」
「ないよ」
私は即答した。
「伯爵で10年以上働いて“万年ひら”なんて、王宮側もどう扱っていいか困ってたんじゃない?
それって凄い仕事できないってことだよ!」
クロードは膝から崩れ落ちた。
肩が震えている。
頭を抱え、まるで世界が終わったかのように。
私は、その姿を見下ろしながら淡々と続けた。
「それでね」
「まだ何かあるのか」
クロードは顔を上げることもできず、床に向かって呟いた。
「あなたの給与って、メイド2人分しかなかったじゃん。
私が領地経営してたから家が潰れなかったんであって」
「それは……君が俺に外で働くのを勧めたからじゃないか」
「そうだよ。だって、足手まといで邪魔だったから。
執務の補佐をさせるより、外に出てもらった方が楽だったんだもん」
肩を竦めると、クロードは唇を噛んだ。
悔しさと情けなさが混ざった表情をしている。
「……俺は……家のために働いて……」
「うん。だから、言わないで我慢してたんだよ。
でも、もう飼い犬に手を噛まれたからね。
徹底的にしつけることにした」
「ふへ、ふははいひゃやゆゆひへふっらふぇんふぁ?」
「え?」
聞き返すと、フローレが震える手で紙を差し出してきた。
そこには震えた筆跡で、こう書かれていた。
『もう2度と関わらないので、許してもらえませんか』
私は吹き出した。
「許すわけないじゃん!」
フローレの肩が、びくりと跳ねる。
「とりあえず2人、庭の草むしりでもしてよ。
他に何もできないんだからさ」
クロードは顔を上げられず、フローレは紫の目を潤ませたまま固まっていた。
数日後。
応接室には重い空気が漂っていた。
深紅の絨毯、磨かれた木製のテーブル、壁に掛けられた家系図──どれも普段と変わらないのに、今日だけは異様に冷たく見える。
そこへ義両親が到着した。
2人とも険しい顔をしていたが、歯のない愛人を見て、ぎょっとした。
「どど、どういうことだろうか?」
舅が声を震わせる。
私は静かに答えた。
「まず、そこの女は長年クロードと不倫し、ミルサンジュ前侯爵が亡くなったと同時に“うちで同居する”と言って来ました」
「はあ?!」
舅は、クロードを睨みつけた。
「バカか、お前!
家格が上の家から妻を娶っておいて、同じ家で愛人を囲えるわけないだろ」
「家格が下でも、妻を侮辱する行為ですよ」
姑も加勢する。
クロードは黒髪を揺らし、灰色の目を逸らしながら言い訳した。
「外で囲う金がなかったんだから仕方ないだろう。
カタリナが、ちっとも小遣いくれないんだよ」
その瞬間、舅の拳がクロードの頬を打った。
鈍い音が響く。
蛙のような悲鳴。
「申し訳ない」
倒れてるクロードを見もせず、舅が私に頭を下げる。
「ごめんなさい、本当に……。
でも、どうして今までバレなかったのかしら?」
姑が謝りつつ、疑問を口にする。
私は肩をすくめた。
「公園の公衆トイレで盛ってたんですって」
「はあ?! ……貴族がそんな……」
舅は言葉を失った。
「野良犬みたいですよね」
私が吐き捨てると、姑は青ざめた顔で叫んだ。
「子供が2人もいるのに、よくそんなはしたないことを……!
こんなことが外にバレたら、我が家は終わりです!」
クロードは小さく呟いた。
「……スリルがあって楽しかったんだ」
再び舅の拳が飛んだ。
またカエルのような声がした。
私は淡々と告げた。
「当主交代会議をしましょう。
ちなみにミルサンジュ侯爵家には、問い合わせ済みです。
慰謝料のみで手打ちにしてくれるそうです」
「ありがたいが……かなりの金額になるな」
舅がため息をつく。
「はあ? なんでフローレの旦那は死んだのに、うちだけ慰謝料払うんだよ」
舅の拳が、また落ちた。
「向こうは侯爵家で、こっちは伯爵家。しかも、お前は男だ!」
私は続けた。
「つまり、2人の間に子供ができていればミルサンジュ侯爵家を乗っ取ってた可能性があるし、貴族の家の乗っ取りは重罪。
下手すると我が家が潰されてたかもしれないのに、“慰謝料で許してくれる”って言ってるのよ」
赤い頬を擦りながらクロードは、私を睨んだ。
「そんなの、カタリナが向こうの家に余計なこと言ったせいだろ」
「言う前から知ってたし──そうじゃなくても家にその女が来た時点でバレるに決まってるじゃない。
ミルサンジュ前侯爵が亡くなって1ヶ月も経ってないのに……。
本当に頭が、おかしいとしか思えないわ」
舅は深く息を吐き、私を見た。
「とりあえず、詳しい内容を不倫相手から聞きたいのだが……。
どうして歯がないのか、聞いていいか?」
「私がペンチで抜きました」
舅は固まった。
「…………なぜ?」
「話す価値がないからです。
ここまでの経緯については、聞き取ったものをまとめてあります」
私は資料を差し出した。
証言、時系列、関係者の証言、ミルサンジュ侯爵家側の確認事項──すべて整えてある。
義両親は顔をしかめながら資料を読み進めた。
「……これは……ひどい……15年も交際なんて……」
姑が泣き出す。
「……お前たちは……どこまで家を危険に晒すつもりだったのだ……?
辺境伯に殺されるぞ?」
拳を握る舅に、クロードは呆れたように言った。
「何で愛人くらいで、そこまで大騒ぎするんだ?」
応接室が静まり返った。
舅は低く言った。
「これを牢に入れておけ」
使用人たちが、クロードを引きずっていく。
夫の喚く声が遠ざかる。
「すぐに親族を召集する」
眉間を押さえた舅に、私は頷いた。
「その方がいいでしょう」
牢の中は薄暗く、湿った石の匂いが鼻についた。
鉄格子の向こうから差し込む光は弱く、床に落ちる影は細い。
俺は壁にもたれ、ため息をついた。
みんな大袈裟なんだよな。
貴族なんて皆、愛人の1人や2人いるだろう。
家で同居はさすがにマズいと思ったが、フローレが“夫の遺産を貰えない”と言うから仕方なかったんだ。
俺だって自由に使える金がないし。
……そういえば、フローレが遺産を貰えない理由を聞かなかった。
俺との不倫がバレたからか……。
バレないようにしてたんだけどな。
どこですれば良かったんだろう。
公園の厠は臭かったし、王宮の水洗トイレは1つしかないし……もっと上手いやり方があったのか?
まあ、いいや。
当主を交代させられたところで、どうせ息子が成人するまでは、俺が後見人になるんだから同じことだろう。
それより、フローレをどうするんだろう?
正直、歯がない顔を見ると萎えるから、あんまり見たくない。
会話もできないし、抱けないとなれば、一緒にいても仕方ないな。
これを機会に別れるか。
カタリナだって今は怒ってるけど、そのうち機嫌が治るだろう。
俺が謝れば、また元通りになる。
──そう思いながら、俺は鉄格子の向こうをぼんやりと眺めた。
牢に閉じ込められて、半月が経った。
湿った石壁、冷たい床、薄暗い光──もう見飽きた。
いつまで、ここにいればいいんだ。
いい加減、外に出してくれてもいいのに。
俺は、これでも貴族だぞ。
そんな時、足音が響いた。
規則正しい、迷いのない足取り。
カタリナだ。
鉄格子の前に立つと、琥珀色の目が冷たく光った。
「カタリナ、いい加減にしろ。
いつまで俺を、ここに閉じ込めておくつもりだ」
彼女は淡々と告げた。
「決定したことを伝えに来たわ」
「決定? 当主のことか?」
俺は鼻で笑った。
「どうせ息子が成人するまでは俺が後見人なんだから、当主が誰になっても同じだろ」
カタリナは首を傾け、静かに言った。
「中継ぎの当主は私がなったわ。
爵位は一時的に保留、私が代理権を持つ。
それで、あなたにはミルサンジュ侯爵の従者になってもらう」
「は?」
「うちが払う予定だった慰謝料は、あなたの給与と相殺してもらえることになった」
「……冗談だろう?」
「私とあなたは冗談を言い合うような仲じゃないわ。
先方とは契約してあるから、支度ができたら早速行ってね。
あと何があろうと我が家には入れないから、それは忘れないで」
体が震えた。
寒さではない。
恐怖でもない。
“理解できない”という感情だった。
「そんな……俺は何なんだ?!」
「ミルサンジュ侯爵と正式に契約した後、除籍するから。平民になるわね」
「……バカな……あんまりだ……そこまでするなんて信じられない!
婚約してから15年もの付き合いなのに、情がないのか? 君は」
カタリナは眉ひとつ動かさず言った。
「え? 私は政略で、彼女が本命なんでしょ? 私も同じ考えよ。
それに15年の付き合いといえば、彼女の方が濃いでしょうよ。
縋るなら向こうに縋れば?」
踵を返し、出て行こうとする。
「ま、待ってくれ!」
カタリナが振り返る。
「何?」
「フローレを連れて帰ってきた次の日から……ずっと尻の穴が痛いんだ。
君が何かしたのか?」
俺は、ずっと疑問だったことをぶつけた。
カタリナは軽く笑った。
「あー。それは、あなたが寝てる間にタバスコを流し込んだだけ。お尻の穴に」
「そこまで俺を憎んで……」
「今更、気づいてくれたのね。さよなら」
カン、カン、カン──
扉が閉まる音が、牢に響き渡った。
その音は、俺の人生が閉じた音にも聞こえた。
──10年が経った。
朝露の匂いが残る裏庭で、俺は今日も怒鳴られていた。
「おい、万年下っ端!
さっさと馬糞を片付けろ!」
「はい!」
返事だけは大きくして走る。
黒髪はすっかり艶を失い、灰色の目も昔のような自信はない。
「まったく……従者として雇われたのに、今や下働きまで降格されるなんて」
使用人の嘆きが背中に刺さる。
馬小屋に入ると、干し草の匂いと獣の体温がむっとした。
その奥で、メイドと執事が抱き合っていた。
こちらには気付いていない。
俺は馬糞を掴みながら、聞こえてくる声に耳を傾けた。
「そういえば今日、レーヴェンス伯爵家のご子息が正式に爵位を継ぐな。
旦那様に頼まれて、お祝いを送った」
執事が、メイドの肩を抱きながら言った。
レーヴェンス……上の息子のエミリオ。
もう成人したのか。忘れてた。
「え、レーヴェンス家とは、昔いろいろあったんじゃないの?」
「ああ。だが、あそこの当主が遣り手で……フローレ前侯爵夫人の歯を抜いて“壁穴”という娼館に送ったんだ」
俺の手が止まった。
心臓が、ひゅっと縮む。
「何それ?」
メイドが無邪気に問う。
「薄い壁に穴が開いてて、男がそこに性器を入れると、壁の向こうにいる女が処理するシステムだ」
「えっ……ああ、なるほど。
それなら顔がバレないから、前夫人が娼婦になったという汚名を被らずに済むのね」
──フローレの顔が脳裏に浮かんだ。
歯のない、あの泣き顔。
ブサイクだったな。
……今まで忘れてた。
「今の旦那様は──父親が妻の不倫に悩んでいたのを見ていたから、それで溜飲が下ったそうだよ。
本来ならレーヴェンスを潰しても良かったんだが、慰謝料で手打ちにしたそうだ」
「本当に遣り手ね。そのうち会ってみたいわ」
「旦那様がご執心だから、近いうちに奥様として迎えるはずだ」
「そう。楽しみね」
2人は笑い合い、再び抱き合った。
俺は馬糞を掴んだまま、動けなかった。
喉が乾く。
──10年前、牢の中で思っていた。
“そのうちカタリナの機嫌も治るだろう”
“俺は後見人になるから大丈夫だろう”
“フローレとは別れればいいだけだろう”
全部、甘かった。
今の俺は、伯爵でも、当主でも、夫でも、父でもない。
ただの下働きの男だ。
馬の嘶きが響く。
干し草の匂いが鼻を刺す。
俺は、ゆっくりと馬糞を運び始めた。
──もう、誰も俺を“旦那様”とは呼ばない。
□完結□




