僕、ずっとおばあちゃんと一緒にいるからね。
八十二歳の春。
私は、毎年この時期になると、一人で小さな鞄を持って家を出る。
畑の脇を抜け、春陽さす坂道をゆっくりと上る。
膝が痛む。だけど、止まらない。止まるわけにはいかない。
丘の上にある小さな公園。中央には立派な山桜が、堂々と建つ。
枝は半分以上枯れ、花がまばらに咲いている。
それでも私は毎年、この桜の下に来る。
鞄から敷物を取り出し、地面に敷く。
腰を下ろし、桜を見上げる。
「今年も来ましたよ。」
誰もいない公園で独り言。
私は、鞄から小さな手帳を取り出す。
表紙はすっかり色あせ、角が擦り切れている。
中を開くと、びっしりと書かれた文字。
孫の翔太の字だ。
翔太は、私が五十一歳のころに生まれた。
一人息子の嫁が生んだ元気な男の子。
しかし、翔太は難産だったため、帝王切開での出産だった。
手術は長い時間行われた。
嫁の体力はどんどん失われ、何とか一命を取り留めたが、一週間後、息を引き取った。
息子は、嫁を失った悲しさから心の病にかかってしまい、翔太はほとんど私に預けられた。
あの頃の翔太は、いつも私の後ろをついて回った。
「おばあちゃん、おばあちゃん」って。
桜が咲く季節になると、二人でこの丘に登って、私が握ったおにぎりを食べながら桜を見た。
翔太が小学五年生の時
いつものように丘を登り、桜の下に座っていると、翔太が突然言った。
「おばあちゃん!僕、ずっーとおばあちゃんのそばにいるからね。」
私は笑って頭を撫でた。
「翔太は優しいね。おばあちゃんもずっーと翔太のそばにいるよ。」
翔太は真剣な顔でこう言った。
「約束だよ。だから、あげる。」
そう言って翔太は、小さな手帳を私に差し出した。
「僕が、おばあちゃんに伝えたいこと、全部書いておく。
「おばあちゃんは、寂しくなったらこれを読んで。」
私は最初、冗談だと思った。
でも翔太は本気だった。
その日から翔太は、時々、手帳に言葉を書き足した。
「おばあちゃんの作った卵焼きが世界一好き。」
「おばあちゃんは世界一やさしい。」
「大きくなったらおばあちゃんを旅行に連れていく。」
私は本当にうれしかった。
翔太が高校生になると、息子が心の病を克服し、翔太とは別々に暮らすことになった。
だけど、桜が咲く季節だけは、必ず帰ってきた。
手帳に新しいページを追加して、
「おばあちゃんの笑顔は世界一。」「おばあちゃんといると落ち着く。」などと書き足した。
大学に入り、就職してからも、
毎年、この季節になると翔太は帰ってくる。
最後に会ったのは、翔太が二十六歳の時。
あの桜の木の下で翔太は言った。
「おばあちゃん。僕、来年結婚するよ。だから、今度は三人で桜を見よう。」
私は頷いて、笑った。
「楽しみにしとくね。」
でも、その『今度』は来なかった。
翔太は、結婚式の三か月前。
仕事に向かっている途中、交通事故に遭った。
病院に運ばれたころには、もう息を引き取っていた。
私は病院にも行けなかった。
帰ってきたのは、手帳だけ。
手帳の最後のページには翔太の字でこう書かれていた。
「おばあちゃんと桜は似てる。」
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それから五年。
私は桜の下にいる。
手帳を開いて、翔太の字をなぞる。
涙はもう出なかった。
乾ききった涙腺は、泣くことを忘れたかのようだった。
今年もそうなるはずだった。
でも今日は違った。
三十代前半くらいの女性が、小さな男の子と手をつなぎ、こちらに歩いてきている。
女性は私の横にしゃがみ、尋ねる。
「……翔太さんのおばあちゃん…ですよね?」
私は驚いた。女性は話を続ける。
「私、翔太さんの妻の遥です。」
私は目を見開いた。
遥は、そっと男の子を前に出した。
五歳ぐらいだろうか。
翔太にそっくりだった。
「この子、翔太って言います。実は、翔太さんが亡くなる前に、私のおなかにいたんです。」
小さな翔太が、恥ずかしそうに私を見上げた。
「僕、知ってるよ。おばあちゃんの卵焼きが世界一おいしいって。」
私は息をのんだ。
遥が、手帳を一冊差し出した。
新しい手帳。
表紙には翔太の字で。
『大好きなおばあちゃん』
と書かれている。
中を開くと、遥の字で書かれていた。
「翔太が歩けるようになりました。」
「翔太が『おばあちゃん』って言いました。」
見入るように読んでいると、遥が
「裏表紙。見てみてください。」
私は手帳を裏返す。
そこには翔太の字でこう書いてあった。
「おばあちゃん。僕、ずっーとおばあちゃんのそばにいるからね」
私は手帳を抱きしめた。
声が出なかった。
涙腺が、五年ぶりに動き出した。
私は泣いた。
静かに、でも深く。
遥がそっと私の肩を抱いた。
小さな翔太が、小さな手で私の手を握った。
「おばあちゃん、泣かないで。今度は僕が、ずっーとおばあちゃんのそばにいるからね」
私は、小さな翔太を抱きしめた。
春の風が、やさしく吹いた。
五年分の時間が、ようやく暖かくなった




