第9話 束の間の邂逅 ─オーウェンの秘密
行きつけの銭湯は、久しぶりに訪れても相変わらずだった。俺が行こうが行かなかろうが、ただ静かにそこにある、といった感じだ。
いつもの暖簾をくぐり格子の扉を開ける。寂れた感じとレトロさの微妙なバランスはいつだって非日常の癒しを与えてくれる。
リリズは服を脱ぎ、湯浴びをする。
目線の先には見知った顔が瑣末な服を着てバケツを持って立っていた。特徴的な日に透ける金髪は布を巻かれているため見ることはできない。
──まさか、本当にここで働いているのか?
アッシュフォルデ家の子息ともあろう奴が存在感なくせっせと椅子を直したりタオルを補充する様には、流石の俺も笑ってしまいそうになる。
アッシュフォルデ家…
名門としと長く王宮に使役される家だ。だか黒い噂が絶えない。オーウェンだって油断はできない。
「アッシュフォルデ家の坊ちゃんが銭湯で垢掃除か?」
俺の声に振り返ったオーウェンの感情の色は今日もやはり真っ白な光のまま。
嫌味で言った言葉にも穏やかな表情を崩さない。
それどころか、その表情は嬉しさを滲ませているようだった。
「リリズ様、いらしていたのですね!……えっと何かおかしいですか?」
と聞き返され、自分も外に職業を持っているリリズは一瞬、言葉に窮した。
「別におかしくはない、むしろ様になってるな」
「ありがとうございます、もう5年働いていますから」
「5年!?」
オーウェンの言葉に目を見張る。
俺が剣技選手になる前からずっとこの銭湯で働いているということか。
……でも、なぜ?
そんな俺の疑問の表情を感じ取ってかオーウェンは苦笑する。
「僕はアッシュフォルデ家の正式な跡取りではないので」
「そうなのか?」
まあ、そうでなければ俺の婚約者候補に名乗りをあげないだろう。やはりオーウェンも俺の家や権力目当てなのかと思うと、自分でも何故か落胆するようだった。
「ええ、元々はハルメレイ家の生まれですが、母が再婚してアッシュフォルデ家に入りました」
「ハルメレイ家…まさか…」
俺は驚いた。ハルメレイ家もまた名門と名高い家系だが、正直実在するとは思わなかった。
“隠された血“そう呼ばれる家で、社交会にも一切姿を現さない。貴族の中でも話のネタに上りはしても、俺が知る限り誰もその実態を知るものはいなかった。
「父が蒸発して、母と僕を引き受けたのが今の父、ラザロ・ノアール・アッシュフォルデです」
俺にはこちらの話の方がよっぽど冗談に聞こえた。
「冗談だろ…? 俺に話していいのか?」
「…構いません、あなただから話すんです」
両親はそれを知っていてオーウェンを婚約者として迎えたということか。
「俺の親には話したか?」
「いえ、何も。僕はアッシュフォルデ家として招かれましたから」
「…そうか」
父には他人の記憶を読む力がある。それにはいくつか条件があるが、まったく知らないままオーウェンを家に招く訳がない。
──つまり、オーウェンの生家であるハルメレイ家の力を両親は欲しているのかもしれない。
「この話は信じても信じなくても構いません。もう存在しない家のことなんて誰も気にしないでしょう?」
話の重さに釣り合わず、オーウェンは頓着しないように言いながら湯の温度を確かめている。
存在しない家。ハルメレイ家は没落した。王からの不信をかったからだ。
元々王制に縛られずにいた家だ。連盟や他の貴族からの依頼も秘密裏にこなしていただけに、なぜそんなことになったのかと、当時、他の大人が話しているのを聞いたことがあった。
だが、存在が怪しまれる家が、本当に存在しなくなったという話は大して貴族達には興味がなかったようで、いつのまにか誰も話さなくなっていた。
オーウェンがウソをついていても俺にはわからない。
それでも誰もが忘れた話をわざわざするのは、俺の興味を引きたいからではないだろう。
「疑ってはいないが、あまりここでは話すな」
公共の銭湯では誰が聞いているかわからない。俺の言葉にオーウェンは頷いた。
「そうですね、少し喋り過ぎました。それじゃ、ごゆっくり」
衝撃的な話にすでにゆっくりできる感じはしなかったが、こんな場所でオーウェンがこの話をしたことにはリリズも思うところがあった。
オーウェンの“真っ白な色“は嫌でも俺の想像を掻き立てる。
「待て」
「…どうかしましたか?」
オーウェンはバケツを持ったまま振り返った。
「…その…この間は、酷い言い方をしてすまなかった…」
オーウェンはキョトン顔で固まったが、すぐにわかったようで、微笑んで首を振った。
『自分でも説明できない力を持ち込んで、勝手に踏み込んでくる。俺はそういうやつが一番嫌いだ』俺はそう言ってオーウェンを追い出した。
今になってわかった。
オーウェンの力は知られれば意味がない。もしくは奪われる可能性がある。ということだ。
その力の秘密を教えろと言うのは、「金庫の鍵を渡せ」と言っているようなものだ。
俺は猛省した。
身勝手に相手に踏み込もうとしたのは自分だったと──。
「謝らないでください、別に気にしていません。…ただ誤解してほしくなくて。あなたが知りたいのなら僕は何も隠す気はありません」
「ああ、よくわかった。引き止めて悪かったな」
俺がそう言うと、オーウェンはぱっと笑顔になった。
オーウェンの嬉しさを隠さない性格は俺を安心させる。
例え色が見えなくても、オーウェンだけは信じられるかもしれないと思えた。
「リリズ様…」
「何だ」
「僕はもう少しで今日の仕事が終わるのですが…」
ドキッと、自分の胸が高鳴るのを感じる。
オーウェンは甘えた犬のようで、その実、賢くてしたたかだ。
俺はいたって冷静さを装って言葉を絞り出す。
「上がったら、外で待ってる」
「はい!」
思ったより上ずった声になってしまったと思う間もなく、オーウェンの返事がこだました。
「それと、リリズ“様“はやめろ、リリズでいい」
「わかりました、…リリズ」
呼び捨てにされただけで、数日前の夜が思い起こされる──。
おかしい。別に触られているわけでもないのに、身体が反応してしまいそうだ。
お願いだから今は“共鳴“しないでくれ。
それだけをリリズは強く念じながら、湯に顔を沈めた。